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(3)信長勢は善照寺砦にいなかった    

2011-07-05 21:30:24 | 桶狭間の真実やいかに

(3)信長勢は善照寺砦にいなかった    2009.11.08 改修。2011.05.28追加

ところで、『三河物語』には、「嵩にある敵を下より見上げてみるときは、小勢をも大勢にみるものなり」という記述あります。これについて、『豊明市史』は駿河勢が「織田軍を小勢と判断している」ことから、彼等が上から下の敵(信長勢)をみていると解釈すべきあるといいます。つまり、標高21mの善照寺砦より高い山上であればよいことなのですが、『豊明市史』ではこれを桶狭間山の山上から善照寺砦にいる織田勢を見ているのだと限定して解釈しているわけです。そして、石川六左衛門尉が駿河武将よりも多く見積もったことは、単純に、歴戦の石川六左衛門尉が有能であったからという事で済ませてしまっています。しかし、『三河物語』の駿河勢は必ずしも桶狭間山の義元本陣である必要はないわけです。駿河武将と織田勢とが相対的に上下、高低の差があればよいわけですから。つまり、駿河勢は山の上にいることは確かのですが、彼等が見ている織田勢は山の下にいても良いことになるはずです。織田軍が中島砦にいるか、その背後の丘の斜面を下り始めたばかりであるか、それとも中島砦から山上の駿河勢に向かって進軍中であることを考えることも可能なはずです。ただし、最後の可能性だけはありません。それは、もしそのような状況であったならば、小勢か大勢かと迷う必要もなく具体的に織田勢の人数を数えられる状況も想定できるからです[5]

さて、これまで続けてきた推理によって、以上のような命題が与えられることになったわけですが、ここではまず『信長公記』の「勢衆揃へさせられ様体(戦況を)御覧じ、御敵今川義元は四万五千引率し桶狭間山に人馬の休息これあり」という文章だけを検証してみたいと思います。牛一は善照寺砦の信長は今川義元が兵を桶狭間村の方面の山に休ませているのを見たと書くわけですから、少なくとも義元の所在を示す旗は善照寺砦から見えたはずだと考えることができます。そこで、まず現在「桶狭間山」とみなされている64.9mの山頂からならばどの程度まで見通すことが可能かを検証することから始めます。善照寺砦の標高は現在21mですが、明治廿四年の地形図では善照寺砦の標高は25.4mあったことが分かります。64.9mの三角点から善照寺砦は58.5度(北北西)の方角にあり、その途中には桶狭間山頂から235mほど前方に武侍山(標高60m超)の稜線が標高56mで遮っています。ところが、tanθ56÷(3,507-235)=0.0171  tanθ64.9÷3,5070.0185 ですから、これは善照寺砦を見通すのに障害にはならないことになります。

それより前方には善照寺砦から2,915mのところに生山の標高50mの等高線があるのですが、tanθ50÷2,9150.0172  tanθ64.9÷3,5070.0185 ですからこれも障害にはなりません。

では、此の方向で50m級の丘陵が妨げになるのはどの辺にあることになるかを考えますと、この方向には善照寺砦から2334mの場所にある高根山に現・有松中学校(標高35.8m)がる丘陵のなだらかな稜線がありました。 しかし、tanθ40÷2,334≒0.0172  tanθ64.9÷3,5070.0185 であるため64.9mの山頂からの展望の妨げにはなりません。 この場所が標高43m[6]以上であると善照寺砦は見通せなくなります。そして、これ以上手前には40mを超える等高線はありませんから、最高峯の64.9mの山頂からならば、善照寺砦を見通すことができることになります。つまり、牛一の記述は正しいものとみなせるものと思います。因みに、56÷(3,507-235×3,507≒60.1m ですから、善照寺砦からは桶狭間山64.9mの手前にあって眺望を妨げている武侍山の稜線から上の部分、山頂から4.m下、つまり標高60・1mより高いところは見えることになります。

地元在住の郷土史家・梶野渡氏の『地元の古老が語る桶狭間合戦始末記p81』では、「名古屋市立大学教授・児島広次氏と静岡大学教授・小和田哲夫氏の二人とも64.9mの山頂から、西の方、丹下・善照寺砦まで見通す事が出来ると言っておられるのは間違いで、西方の桶狭間の幕山・高根山の稜線に遮られて見通すことはできない」と断言されておられますが、上記のように縦断をとってみると間違いであることが解ります[7]から、少なくとも善照寺砦に屯する将兵を見通すことができることがわかりますが、どこの山麓であれ、山際で行われたであろう千秋・佐々らとの前哨戦は、桶狭間山頂からは見ることはできません。では、なぜ石川六左衛門尉は、信長勢の兵力を結果的には過大評価したのか。そしてなぜ駿河勢の武将たちは、結果的に正しい見積もりができたのか。石川六左衛門尉の発言は単なる言い訳なのか。何のために駿河武将たちは無能な石川六左衛門尉を呼び寄せたのだろうか。そして、なぜ大久保彦左衛門忠教(タダタカ)はわざわざこのエピソードを伝えたのだろうか。石川六左衛門尉の失敗であったのならば、彦左衛門は彼に恨みでもあったのだろうか。

『三河物語』は、敗れた今川家を貶めたくはあっても、戦いに参加していた自分たち松平家だけは免罪にしたかったはずです。だとしたならば、石川六左衛門尉が見積もった兵数には実際との相違があったとしても、兵力そのものは駿河勢に優越していたことを強調したかったことも考えられます。その場合には、石川六左衛門尉はただ言い訳のためにだけでなく、「本当に善照寺砦に参陣した信長軍を下から見上げた」可能性を考えるべきでしょう。つまり実際に物見(斥候)に出かけたということを、です。しかし、『三河物語』には「駿河衆これ(信長が善照寺砦に参陣したの)を見て、石川六左衛門尉と申す者を喚び出しける。………喚びて言いけるは、この敵は武者を持ちたるか、また持たざるかと云う」としかなく、石川が実際に物見をさせたとは書いていないのです。もちろん時間の経過も書いていませんから何とも言えないのですが、問題は「(六左衛門尉が)急ぎ早めて行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て、(駿河勢は)我先にと退く」とあることです。もし、石川が桶狭間山頂から見ているとしたならば、山頂付近にいなければ善照寺砦は見えませんし、そこから降りる途中で織田勢を見たとするならば、ゆうに一時間近く山頂にいたことになります。この事実からだけからでも、石川らがいたのは桶狭間山頂ではないことがわかります。義元を逃がさずに自分たちばかりが逃げているからです。では、桶狭間山の前方1kmほどのところの高根山の鳴海~桶狭間道の街道の峠を扼す高地に陣取っていただろう義元本陣先備かというと、これもありません。何故なら、「急ぎ早めて行くところに、(織田勢の)徒の者は早五人三人づつ山へ上がるを見て」とあって、引揚中の石川が坂を登ってくる織田兵を見ているのですから、峠を下って桶狭間方向に逃れようとする石川らには見えるはずがないからです。唯一可能な場合は、石川が高根の南にあたる現・幕山に自軍陣地があるならば、そこに帰ろうとしている場合があります。ここに駿河勢が先備の陣地を敷くことは、峠を挟んだ二つの山の一つですから、あり得ないことではありません。ありませんが、その後、石川六左衛門尉がこれら少数の織田勢に対して逆襲したという武功に繋がる記事が無いところをみますと、有り得ない仮説であることになります。さらに、『豊明市史』の解釈にしたがえば、石川六左衛門尉は駿河勢と同じように山の上にいる善照寺砦や朝日出の織田勢を見ているのではないということも考えられるはずです。そうでなければ、大久保彦左衛門は単に合戦に敗れた駿河勢の武将を無能と貶しただけのことになります。

これは、重大なことです。ところが、『豊明市史』の方は、善照寺砦より下に居た可能性もありうる石川六左衛門尉のことをほとんど無視しているか、その可能性に気がついていません。『豊明市史』は、おそらく桶狭間山は64.9mであり、善照寺砦の標高は21mであるから、善照寺砦に集合した織田勢を見た情景を描写したのだと考えたのだと思われます。しかし、織田勢は善照寺砦の前に居並んでいたはずはありません。手の内を知られたくないことは「無勢の様体、敵方より定かに見え候。勿体無きの由」と言って、家老の衆が信長を止めようとしたのですから明白です。軍記物[8]には熱田から集合した織田軍は朝日出の山陰に兵を隠したとするものもあります。 『豊明市史』は何の疑問も持たないでしょうか?義元本陣のある桶狭間山の駿河勢であるならば、六左衛門尉にわざわざ彼の見解を聞くだけのために呼んだのでしょうか、善照寺砦から中島砦への一本道を下りて行くしかない信長勢を指折って数えることができたはずなのです。善照寺砦から桶狭間山までは約4kmですから、一時間は余裕があるからです。………従って、ここは桶狭間山ではありませんし、その前備が陣取った山でもあり得ません。織田勢に間近に対面して、実際に数えられない状況にある織田軍を見ている駿河勢のことなのです。同時に、織田勢を過大に見積もった石川六左衛門尉は、彼が単に言い訳をしたのでなければ、「下から上にいた織田軍を見上げた」ことになるはずです。つまり、石川六左衛門尉は織田勢の間近まで物見に出向いていて、黒末川河岸から善照寺砦のある丘のうえにいる織田勢を見上げたということになるのです。そうでなければ、六左衛門尉の見積もりが過大になるはずがありません。『三河物語』が六左衛門尉の相貌をあれこれ描写し、彼が歴戦の勇者であったと書くのは、三河武士が遠駿の武将を臆病者と見做したからなどではないのです。六左衛門尉は危険を冒して、出撃しようとしている敵陣近くまで物見[9]に出かけてきたからです。

ここで、その意味するところを考えます。

駿河勢がいたのは、漆山や桶狭間山などの、何れかの山上にいたことになると考えられるのですが、石川六左衛門尉が桶狭間山の前備から斥候に出て往復したと仮定しますと、桶狭間山の前備から物見をする場合は、漆山から物見をする場合に比べて倍の時間を要することになります。それに、桶狭間山から中島砦辺りまでは3km程も距離があることを考慮しますと、態々物見を出すまでもなく、東海道を行軍してくる信長勢を充分に観察する時間があることになります。ということは、そこを行軍してくる実際の織田勢を数えればよいのですから、わざわざ斥候を派遣する必要などはないことになるわけです。信長が行軍する最中に、その兵力をつぶさに観察できるからです。先にも申しましたように、この時の六左衛門尉は、織田勢を大勢と見積もっており、「敵を嵩より見下ろせば、大勢の敵であっても少勢にみえるものだ」と言っています。これを『豊明市史』の解釈を敷衍してみれば、それは下から見上げているからだということになるわけですが、これは彼が斥候に出かけて、善照寺砦の対岸である黒末河畔にかなり近くまで寄って観察したらしいことを示しています。逆に、漆山にいた駿河勢の殿軍の将は、六左衛門尉が敵陣近くから帰陣する間に、織田軍の先頭が中島砦に入り後続の兵が対岸の丘陵斜面を下りてくる様子をみて敵兵力を実際に数えたに相違ないことになります。これならば、駿河の武将が織田勢を適確に見積もり、六左衛門尉が過大に見積もったのも合点がいくことになります。………従って、石川六左衛門尉がいたのは、殿軍がいた漆山であると見做すことが適当だということになります。殿軍の場合には、中嶋砦から800m程度しかありませんから、撤退途中である駿河勢は、急がないと漸次兵数は減っていくのですから、進軍してくる信長勢に補足殲滅される恐れがあったのです。そればかりでなく、勢いに乗った信長勢に追尾された場合には、そのまま桶狭間の義元本陣先備にまでそれを引ずって、それこそ『信長公記』の書くような状況を惹起する恐れが在ったわけです。そういう差し迫った事情があったので、朝日出から出現した織田勢の実態を的確に把握する必要があって、六左衛門尉を物見に派遣したわけです。…2008.08.11 挿入) もうひとつ六左衛門尉が過大に見積もった原因がありました。それは『天理本』[10]に熱田・山崎辺りから見物人が大勢ついて来ていたというからです。彼等は即席の旗竿なんぞを持たされて如何にも兵士のように見せかけて、砦の中や背後の朝日出の山蔭に林立させられていたのかも知れません。

  

(4)本陣ではない理由

さらにもう一つ『三河物語』が示唆している重要なことがあります。それは、ここが義元本陣ではないことです。何故なら、『三河物語』はこれに続いて「早々帰らせ給えと六左衛門尉申ければ」と書くからなのです。そして、織田軍が彼等のいる山にまで登ってきているのです。これを一般には、六左衛門尉は元康のいる大高城に帰るのだと解釈するようですが、そのようなわけはある筈がありません。それは、六左衛門尉が大高城の元康の許へ向かったのならば、元康が合戦のあったことを知らなかったと言う『武徳編年集成』の話は嘘になるからです。だからこれは有り得ません。六左衛門尉は当然その原隊に戻ったと考えるべきでしょうから、彼が向かったのは彼の寄親の許だと考えられます。そして、義元が松平勢の全てを元康に預けて、大高城へ籠め置いてきたとも思えませんから、六左衛門尉が帰るのは先に撤退している原隊の許であると考えるべきだと思うのです。即ち、この場合は桶狭間山の義元本陣です。



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