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<三河物語からみた桶狭間合戦>

2011-07-05 21:05:57 | 桶狭間の真実やいかに

<三河物語からみた桶狭間合戦>    2009.11.08 改修、2010.06.20改訂)  

 

牛一にも信長が何を考えていたかが理解できなかったように思われます。それは、付城が攻撃を受けたのを聞いてからの信長の一貫してみられる駿河勢を捕捉・攻撃しようとする意志と、それ以前の煮え切らない信長の行動とは矛盾しているからです。牛一には、なぜ前線からの情報に基づき、鷲津・丸根に後詰をして駿河勢の背後を衝かないのかが理解できませんでしたし、少なくとも事前に兵を集結させて置かなかった理由も分からなかったでしょう。

もう一つ考えられるのは、信長が義元の征西を水野氏と義元との争いとみており、義元の尾張侵攻は無いと信長が考えた場合です。もとより、信長は大高城などには何の未練もないうえ、水野信元から救援依頼も受けていませんから、敢えて出撃しなかったという場合もあります。事実、この時の水野氏は織田氏と連携した行動をとったようには見えませんし、既に今川方に寝返っていたのか、その動向は不明瞭なのです。ところが、義元が突然矛先を北に転じて丸根・鷲津砦を攻撃したのです。そこで、信長は始めてこれを迎撃する決心をしたと見做すこともできなくはないと思います。………可能性はあまりありませんが。

(追加 2008.10.07  天理本によると、大高城の南にも砦があったことが判明しました。これが事実ならば、二つの場合が考えられます。一つは、信長と知多半島の覇者となったとも言われる緒川の水野信元の共同作戦であった場合で、このときには信元が信長に要請して実施されたことを考えねばなりません。もう一つは、信長単独の作戦であって、信元が関知していない場合です。この場合は、すこぶる重要な問題を含んでおりまして、緒川水野氏と大高水野氏は水野一族として一枚岩などではなく、大高辺りの領土の帰属についても緒川水野氏は関心を持っていなかったということになります。………その場合に考えられることは、大高水野氏と弾正忠家との抗争はかなり以前から続いていて、緒川水野氏としては関わりたくない場合があります。これは、桶狭間合戦後に大高城を緒川水野氏が接収していないだけでなく、合戦後には元康は三河に帰り廃城となっていることから推察されます。破城をさせられているということは、水野信元の領地ではなかったことを示します。その後、かなり後の「水野大膳」[13]はその後も大高城跡に邸を構えたらしく織田信雄に仕えていたというが、信雄に尾張一国が与えられたのは天正十年1582六月廿七日の清洲会議であるから、その間のことは分からない。



[1]  (三六計算では午前三時十二分)

[2]  実際のところは分りません。畑地の方が多かった可能性もあります。因みに、『蓬左文庫桶狭間図』に当時の主要地方道である前之輪から丸内を経て善明寺への砂州上の道を描かなかったのは、その周囲が水田であって、戦場にはなり得なかったからなのかもしれません。

[3]  『三河物語』が「棒山」と書く地を、「棒のように細長い山」と理解する人もいるようですが、これは「」=名前の無いまたは名前を忘れたという意味であると思います。特に、鷲津砦のある山などは鷲津殿と呼ばれた花井氏が居宅を構えていたとされるのですから、当時も鷲津山と呼ばれていた可能性があるからです。

[4]  今川氏真も同様なのですが、二人とも無能であったわけでも怠惰であったわけでもなかったのに関わらず、国を傾けたのに対し、信長や元康が国を成功させた違いは、国内で反対派を粛清できるだけの権力の集中できるカリスマの有無にあったのではなかろうか。

[5]  2011.05.28追加>貞享二年(1685)の『徳川記』の写本とされる『徳川盛隆記』、「義元聞之、石川六左衛門ヲ召、此敵持合戦否ト云々、石川駈出巡見シテ立帰敵待合戦唯今可駈来ト云、義元勢ハ何程有ヤト被問五、六千ト答ル、然ルヲ他ノ者称三千計ト、石川カ曰高地ノ敵下ヨリ見レハ微勢モ大軍ニ見ユルモノナリ、又低地ノ敵上ヨリ見レハ大軍モ小勢ニ見ル者也、各乍居ノ積リ実シカラス、早可駈来ト云、」

[6]  (0.0185×233443.179

[7]  実際に桶狭間山頂に立って望見した場合には、見えなかった可能性があります。それは、実際の山には木立があることが原因であり、木立に遮られて計算上の視野が得られないことが多いからです。

[8]  (1)『総見記(織田軍記・1702)』「善照寺の東の狭間にて御人数を立て勢揃へ成されけるに、漸三千ばかり有りけるとも、五千の人数とぞ披露ありける」 (2)『桶狭間合戦記』山澄英竜「(佐々・千秋は)清洲衆に先を、せられじと心掛けんで々進み、山の間に控えて信長を待居たり」 (3)『武家事記』山鹿素行「信長の兵、鳴海の東より働き出でて、佐々隼人正、千秋四郎、岩室長門守真っ先に進んで、義元の先手へ切ってかかり戦死す」 (4)『逢佐文庫桶狭間図』「善照寺東狭間朝日出山にて勢揃いありて相原(現・瑞泉寺の辺り)に掛り中島の砦に入、直ちに東の山間へ押し、太子ケ根の麓より屋形狭間へ横入の由

[9]  山鹿素行『武家事記』「この時の戦に、義元方より石川六左衛門と云う、度々の軍功ありしものを物見に遣わす。石川帰りて敵戦(敵は戦意)をもちたり、只今寄せ来るべしという。」

[10]  「此時、御人数二千には不可過。熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦に可被負、急帰れと申、皆罷帰候えき。弥(イヨイヨ)手薄に成候也。」

[11]  義元からすれば殿軍

[12]  因みに、これは賤ヶ岳合戦で秀吉・勝家の双方が山々峰々に布陣したのとは訳が違います。秀吉も勝家も北国街道を扼す位置に砦を築き、砦どうしは尾根道で連絡し、秀吉の方では街道も堀と土塁で遮断しているからです。中央の本丸から一元的に指揮・統制されるように作られた織田・豊臣式築城術を学ぶ以前に築城された城は、寄親である国人武将単位でそれぞれが独立した峰々に拠って戦っていましたから、大掛かりな山城であっても、殆どが独立した郭の集合でしかなく、中央から指揮統制を必要とする戦闘は実行できませんでしたし、守備兵たちもまた統合されたくも無かったらしいのです。つまり、大軍を用いて決戦を求めるという観点からすれば、兵法の常道に反した布陣だと思うのです。

[13] 因みに、この天正五年(1587)三月一日の雑賀攻めに大膳が登場する『信長公記』。また、天正十二年九月~十四年七月頃の知行内容を表す『織田信雄分限帳』には、「一、千八百貫文 目録別ニ有 水野大膳」とあるのだが、大高郷とあるかは未確認である。その場合には、忠守の子吉守で、忠守の孫正長のことだろうか



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