29 日米関係 -147-
ⅹ 大東亜(太平洋)戦争 1941-1945 -55-
⑸国内の状況 ②朝鮮・台湾(国内における「外地」)
※終戦時の「外地からの引き揚げ、および、朝鮮への帰還」については既述 → <182・183・184・185・186・187・188・189・190>
■まとめと考察 4/n ~「徴用」-3- ~
5 「徴用」の描き方 -3-
※これについては、問題が複雑で、かつ、日韓間や、根拠とすべき《学者間の主張》などに大きな差異や対立がある。したがって、まずは、この場で、多量の引用をして、「認識」「知識」の状況を把握したい。
<ウィキペディア:「日本統治時代の朝鮮人徴用」より> ~つづき~
・「証言:朝鮮総督府関係者の証言:鎌田澤一郎の証言 宇垣一成が朝鮮総督を務めた時代(1927〜1936年)に政策顧問を勤め、同時に韓国統監府の機関紙である京城日報社の社長も勤めた鎌田澤一郎は著書『朝鮮新話』1950年において、南次郎が朝鮮総督であった時代(1936〜1942年)の労務者の強制的な徴募方法について、
もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるに従って、朝鮮にも志願兵制度が敷かれる一方、労務徴用者の割当が相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただ)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。
と証言している。
ただし、鄭大均によれば、鎌田の証言は朴慶植など強制連行論者によく引用されてきたが、証言中の「総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけた」という朝鮮人官僚が実行したという箇所について引用されることはまずないと指摘している。
朝鮮総督府に勤務し、戦後法務省入国管理局総務課で勤めた森田芳夫は、1939〜45年の労務動員について「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」と説明している。
労務者の証言:強制性の証言 崔亮鎬の証言では、兵隊や憲兵による「片っ端」徴集がなされたので面長や面役所の募集係は断り切れなかったという。
うちの面に徴用令が来ると、人間がいないから出せませんじゃすまされなかった。徴用令は軍隊の召集令状と同じ重みがありましたからね。面役所のほうでぐずぐずしていると、兵隊とか憲兵を連れて来て、畑の中で仕事をしていようと、道を通っていようと片っ端でね。面の募集係も巡査も、どこのに何人の働き手がおる、どこの家には誰と誰がおるとか、手にとるように分かっていますからね。徴用令が来ても、うちの面にはやるだけの人間がもうおらんからと、嘘のことをいうて追い返すが、そういつまでも駆け引きはできん。病気の両親がおるとか、子供や女房が体が弱いとか、行かれない事情が、それぞれありましたよ。最後には、もうそんなことは理由にはならない。子供であろうと年寄りであろうと無差別でしたから。命令ですから反対はできん。
強制して恨まれるのは面長とか、面役所の募集係でね。結局、もう村の人に顔が立たんから、面役所の何人かは、引率隊長として自分から志願して行きました。北海道や樺太の炭鉱、それに九州の炭鉱よ。うちの面は一二〇〇戸あって、五〇〇人徴用で行きましたからね。炭鉱で亡くなったら名誉の戦死だ。お国のために働いて死んで嬉しいと、心にもないことをいわんといけんやった。日本が戦争勝つために朝鮮人が死ぬる理由なんか一つもありませんからね。(中略)男がごっそり徴用にとられてから、子供ができんで、うちの面では急に人口が減りましてねえ」
・「徴用志願者による証言 戦時中に自らが三菱手稲鉱業所で徴用を志願した崔基鎬は、当時1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到したために1000人が選考試験を受けたこと、「採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ」と証言している。
また、崔基鎬は北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判し、さらに北朝鮮が「日帝に強制連行されたのは750万人」と主張したのを「でたらめ」であるとして、その理由を、当時徴用に応募した者は南朝鮮出身者であったし、北朝鮮地域出身者は1%にも満たないし、大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史調査」では1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人であると反論している。また北朝鮮と朝鮮総連は「強制連行と主張するが、強制連行か、志願か、または徴用に対する応募であったかは、主観的判断による」「国民徴用令に基づく徴用、または挺身隊の志願者が多かったのは明白な事実であって、それらすべてを強制的に連行したというのはおかしい」と批判している。また、崔基鎬は、自身の徴用志願の体験を韓国の学者に語っても、その学者は「新聞で読んだ話は正反対」だとして、知人の実体験に基づく証言よりも、新聞の宣伝を信用するのであると述べている。」
・「人数・総数
当時の在日朝鮮人の全人口 1959年7月1日の韓国政府見解では在日韓人は1939年に961,591人、1944年に1,936,843人。1959年(昭和34年)7月11日の日本外務省発表では在日朝鮮人の総数は1939年末で約100万人。1945年終戦直前には約200万人とした。
法政大学大原社会問題研究所によれば、終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人。また朝鮮人強制連行真相調査団は、2,365,263人だとする。
日本での調査・主張 朝鮮人の労務動員の総数については、政府調査でも確定しておらず、研究者間でも様々な見解がある。
日本への労務動員数としては、1945年9月の厚生省勤労局「朝鮮人集団移入状況調」で66万7684人とある。この厚生省調査については、外務省北東アジア課が1962年に採用している。
1947年頃に書かれた大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(通巻第10冊:朝鮮編第9分冊)では日本への労務動員数は72万4787人とある。また、朝鮮内外での国民徴用数を約27万人、現員徴用者は約26万145人、朝鮮内の官斡旋数は約42万人、軍要員は約15万人。
1959年(昭和34年)7月11日の外務省発表では、1939年末から1945年終戦までに増加した在日朝鮮人約100万人のうち、約70万人は自発的渡航と出生による自然増加、残り30万人の大部分は仕事の募集に応じて自由契約にもとづいたものと報告した。
また、終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げ(1946年までに約148万人が韓国に、1947年の北朝鮮引揚計画では350人が帰還)、残る約42万人は自由意思で日本に残留したのであり、1959年時点で在日朝鮮人約61万1,085人のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは245人と報告した。
軍務動員については、厚生省援護局「朝鮮在籍旧陸海軍軍人軍属出身地別統計表」(1962年)に24万2341人とある。1953年の法務省入国管理局総務課「朝鮮人人員表(地域別)分類表(陸軍)」では25万7404人、同「終戦後朝鮮人海軍軍人軍属復員事務状況」に10万6782人とあることから、強制動員真相究明ネットワーク(代表飛田雄一、上杉聡、内海愛子)では合計36万人4186人としている。
様々な見解 森田芳夫は1955年の著書『在日朝鮮人処遇の推移と現状』で、昭和14年以来の約60万の動員労務者中、逃亡・所在不明が約22万、期間満了帰鮮者,不良送還者その他をのぞくと事業場現在数は動員労務者の半数にもみたなかった」と書いており、これに従えば約30万未満となる。
1974年の法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941〜1944年の間で1万4514人とされ、同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。
「(強制連行について)日本政府は、72万人としている」と水野直樹は書いている。ただし、日本政府は公式に72万人と計算を公表していない。
角川日本史辞典(1997年)では朝鮮人動員数は「72万人とも150万人とも」と書かれている(中国人は約4万人)。
西岡力は終戦時の在日朝鮮人は約200万人であり、1939年(昭和14年)からの朝鮮人内地移送計画によって終戦までに増加した120万人のうち戦時動員労働者が32万人、計画期間中に自発的に日本へ渡航した朝鮮人労働者とその家族が63万人、官斡旋・徴用で渡航した後に現場から逃走し自由労働者となった者が25万人であると述べている。
80万説 山口公一は、日本や樺太、アジア太平洋地域などへの強制連行は約80万人だが、朝鮮内への動員もなされており、合計485万人に達すると主張している。
2014年、強制連行研究者の竹内康人が韓国の新聞聯合ニュースに報告したところによれば、内務省警保局理事官の種村一男の資料から、1939年度から1944年9月までに朝鮮人59万9306人を労務動員の名目で「強制連行」したことが判明した。その内訳は1939年度が7万9660人、1940年度が8万7133人、1941年度が7万5155人、1942年度が12万2262人、1943年度が11万7943人、1944年度4月〜9月が11万7152人(以上合計59万9305人)で、これに1944年〜1945年に動員30万人の推計を計算すると、約80万人となるとした。これまでの説では66〜72万人であったが、それには縁故募集は含まれていなかったとした。
在日韓国人による調査 在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを—我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』では、渡日理由について、在日一世1106名から聞き取り調査し、「徴兵・徴用13.3%」「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」となっている(1106名のうち、渡航時12歳未満だった者は回答に含まず)。」
~つづく~
~次回、まとめと考察5/n~
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《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
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