29 日米関係 -146-
ⅹ 大東亜(太平洋)戦争 1941-1945 -54-
⑸国内の状況 ②朝鮮・台湾(国内における「外地」)
※終戦時の「外地からの引き揚げ、および、朝鮮への帰還」については既述 → <182・183・184・185・186・187・188・189・190>
■まとめと考察 3/n ~「徴用」-2- ~
5 「徴用」の描き方 -2-
※これについては、問題が複雑で、かつ、日韓間や、根拠とすべき《学者間の主張》などに大きな差異や対立がある。したがって、まずは、この場で、多量の引用をして、「認識」「知識」の状況を把握したい。
<ウィキペディア:「日本統治時代の朝鮮人徴用」より> ~つづき~
・「朝鮮人の戦時徴用(1944〜45年) 朝鮮総督府鉱工局労務課事務官の田原実は『大陸東洋経済』1943年12月1日号での「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」において、『従来の工場、鉱山の労務の充足状況を見ると、その九割までが自然流入で、あとの一割弱が斡旋だとか紹介所の紹介によっています。ところが今日では形勢一変して、募集は困難です。そこで官の力-官斡旋で充足の部面が、非常に殖えています。ところでこの官斡旋の仕方ですが、朝鮮の職業紹介所は各道に一カ所ぐらいしかなく組織も陣容も極めて貧弱ですから、一般行政機関たる府、郡、島を第一線機関として労務者の取りまとめをやっていますが、この取りまとめがひじょうに窮屈なので仕方なく半強制的にやっています。そのため輸送途中に逃げたり、せっかく山に伴われていっても逃走したり、あるいは紛議を起こすなどと、いう例が非常に多くなって困ります。しかし、それかといって徴用も今すぐにはできない事情にありますので、半強制的な供出は今後もなお強化してゆかなければなるまいと思っています。』とのべている。
1944年9月、日本政府は国民徴用令による戦時徴用を朝鮮半島でも開始し、1945年3月までの7か月間実施された。1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かったともいわれる。『朝鮮人強制連行論文集成』に記録されている証言では、徴用令には召集令状と同じ重みがあったこと、北海道や樺太、九州の炭鉱に面(村)で500人徴用されたという。
1944年5月霊光郡での事例 1944年5月31日付の、北海道炭礦汽船株式会社の霊光郡送出責任者が釜山の駐在員に宛てた書簡では、霊光郡において「集合日指定時間内に120名割当に対し参集せる者36名よりなく(之れも面にて強制的に連行せるもの)」、このため「郡庁職員9名警察署高等経済係員及面職員を総動員、寝込みを襲ひ或は田畑に稼動中の者を有無を言はせず連行する等相当無理なる方法を講し」て動員対象者を確保し、また「万一割当責任数供出不能の場合は理事長の自己の家族中より適任者を送出するか或は本人出動する様、郡、警察、面長等より夫々申渡しを」するなどの措置をとって動員対象者の確保に努めていた。だが、この段階ではそのような強硬な手段を以ってしても十分な人員は集められず、「郡庁迄連行中逃走せしもの或は宿舎にて逃走せるもの等簇生又は不具者或は老人(息子逃走身代りとして父親を連行せる者)病人等多数あり」、しかも、「送出に無理せりたる為家族等と郡職員及面職員との間に大乱闘あり労務主任、次席等は顔面其他を殴打され負傷する等の騒ぎあり」というような事態を現出させていたことが書簡に記されていた。
外村大は「地方組織や警察などを通じての動員」と「密航や縁故渡航による渡航」では、働く場所や条件が違っていたと記述する。「朝鮮人労働者を希望した炭鉱の経営者など」は「劣悪な労働条件でも働いてくれる人材を調達するため」朝鮮にそれを求めたがやがて集まらなくなった。そこで「寝込みを襲ひ或は田畑に稼働中の者を有無を言はさず連行する等相当無理なる方法」を講し、徴用令の令状を交付した。ゆえに朝鮮において国民徴用令の発動が遅かったのは「“より寛大な方法”での動員が続いていたのではなく」「要員確保の実態は日本内地での徴用よりも厳しいものであった」と書いている。
内務省復命書 1944年7月31日付、内務省嘱託小暮泰用から内務省管理局長竹内徳治に提出された復命書では「民衆をして当局の施策の真義、重大性等を認識せしむることなく民衆に対して義と涙なきは固より無理強制暴竹(食糧供出に於ける殴打、家宅捜査、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見るが如き不詳事件すらある。斯くて供出は時に掠奪性を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ」とある。
また「…然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であろうか、一言を以って之を言うならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない。朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさることながら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である…」、「徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である。其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が屡々あったからである」と記録されている。
この復命書について、元朝鮮総督府高級官僚であった大師堂経慰は「この報告は朝鮮総督府への要求を緩和させるための、陳情の目的もあった事を理解して頂きたい」「これは朝鮮全体として見ると、決して一般的ではなかった。地方地方で事情が異なっており、各人により対応が異なっていた」と語っている。
千葉県東金警察署長の報告書 終戦直後の1945年9月28日付の千葉県東金警察署長から千葉県知事宛「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」では、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きでしかも自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた」「朝鮮人も日本人である以上大東亜戦争をして有終の美を得せしむべく不可能なる労働を可能ならしめ戦力の増強に寄与したる点は内地人に劣らざる」と書いている。」
・「山口公一によると、こうして動員された強制労働は過酷を極め、炭鉱労働者の場合「たこ部屋」に入れられ、12時間を超える平均労働時間、生命の危険が多い炭鉱夫への配置がなされ、実際に死亡率が高かった。また、賃金は日本人の半分程度であり、強制貯金と労務係のピンハネの結果、手元には残らなかった、という。
一方、西岡力は朝鮮人徴用工自身が書いた手記を元に、朝鮮人徴用工の待遇は良かったとしている。1944年12月に広島市の東洋工業に徴用されたある徴用工は、月給140円という高給を受け、なまこやあわびを食べ酒を飲んで宴会をするなど食生活も豊かだった。工場勤務も厳しいノルマなどなく、日本人の女工達と楽しく過ごしていた。夜には寄宿舎から外出して、日本人の戦争未亡人と愛人関係になっていた。
また、1945年3月に大阪府の吉年可鏻鋳鉄工場に徴用された別の徴用工は、徴用工の隊長とケンカで殴り合いを繰り返し、宿場を抜け出し鉄道で東京の立川へ行き、「自由労働者」として働いた。朝鮮人の親方の飯場で雇われ、半日仕事で日給15円もらった。仕事を休み東京見物もしていた。さらに別の飯場に移ると日給20円に上がった。
西岡は、これらの手記は、戦後補償を求める運動が韓国で本格化するずっと以前に書かれたものである点で史料価値が高いとしている。」
・「松代大本営建設の徴用 1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった。「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた。
しかしその労働は過酷であり、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたという。
「松代」で働かされていた朝鮮人の中には、給金がもらえるものがいたし、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と言う者もいた。しかし一方でそのである上生活は極めて劣悪であり、3k労働に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいたという。また、朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある。そして天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害されたとも言われている。」
・「逃亡と抵抗運動 特別高等警察の記録でも「移入朝鮮人労働者」による多くの逃亡があったとされている。1944年の福岡県飯塚市住友鉱業所における労務斡旋と逃亡の事例は次のようなものだった。
福岡県飯塚市住友鉱業所に於ては、五月二十四日朝鮮総督府より朝鮮労務者72名の斡旋を受け、同所労務補導員にて引率鉱山到着までの間に於て内54名は逃走所在不明となり、又、同県糟屋郡志免町所在九州鉱業所の於いても五月二七日朝鮮総督府より朝鮮人労務者37名の斡旋を受け労務補導員2名にて引率鉱山到着までの間に於て、内36名逃走所在不明となりたる事案発生せり。
山口公一は、1940年代の九州筑豊炭田地帯では全労働者の30〜50%が朝鮮人労働者であったが、40%以上が逃亡したと言う。
君島和彦は「こうした戦時強制連行については、抵抗運動があった」と書き、遠藤公司の『戦時下の朝鮮人労働者連行政策の展開と労資関係』や山田昭次の『朝鮮人強制連行研究をめぐる若干の問題』を参考文献に挙げている。」
~つづく~
~次回、まとめと考察4/n~
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《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
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