29 日米関係 -148-
ⅹ 大東亜(太平洋)戦争 1941-1945 -56-
⑸国内の状況 ②朝鮮・台湾(国内における「外地」)
※終戦時の「外地からの引き揚げ、および、朝鮮への帰還」については既述 → <182・183・184・185・186・187・188・189・190>
■まとめと考察 5/n ~「徴用」-4- ~
5 「徴用」の描き方 -4-
※これについては、問題が複雑で、かつ、日韓間や、根拠とすべき《学者間の主張》などに大きな差異や対立がある。したがって、まずは、この場で、多量の引用をして、「認識」「知識」の状況を把握したい。
<ウィキペディア:「日本統治時代の朝鮮人徴用」より> ~つづき~
・「韓国における主張 在日韓喬について李承晩政権は、「300万人が帰国したが、まだ60万人が残っている」として「彼らに正当な権利を与えるべきだ」と主張した。李承晩政権は1959年7月1日に「在日韓人の北送問題に対する政府の立場」で、1905年から1945年にかけて約200万人の韓国人が日本移住を強要され、1942年から1945年だけでも約52万人が強制労役に従事した。戦後約134万が送還されたが、約65万人が日本に残ったと主張した。日本の外務省はこれに反論した(後述)。
大韓民国国定教科書では、650万人の朝鮮人が強制的に動員され、数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされたと記載された。しかし、李栄薫ソウル大学教授は1940年当時の20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人で、16歳から21歳の朝鮮女性は125万人であるため、この数値は虚構であり、日本帝国による被害が誇張されていると批判した。
北朝鮮における主張 2002年の日朝首脳会談後、北朝鮮の朝鮮労働党機関誌「労働新聞」は2003年1月31日記事で、強制連行された朝鮮人は840万人と新調査で解明されたと報道した。
また朝鮮新報2003年2月4日記事では、「強制徴兵者」の数は陸軍(志願兵)が1万7664人、陸海軍(徴兵)が24万847人、学徒兵が4385人、陸海軍(軍属)が15万4186、強制徴用者の総数は778万4839人で、これに日本軍慰安婦20万人を足して840万人と計算された。同記事では日本が朝鮮を占領した当初から朝鮮人を野蛮な方法で抑圧、搾取し、さらに朝鮮人労働者に「中世期的な奴隷労働」を強要したことは「類例のない非人間的で反人倫的な犯罪」「人類史に前例のない最大、最悪のもの」「想像を絶する悪行」であると批判した。具体的には朝鮮人労働者は一日に14〜16時間の労働を強いられた、朝鮮の青年を戦場で弾除けにした、朝鮮人女性を手当たり次第、慰安婦として連行して性奴隷の生活を強要したと述べた。2005年4月の国連人権委員会でも北朝鮮は同様の主張をした。
こうした北朝鮮の主張について李栄薫は虚構とした。」
・「戦後 終戦時の帰国状況 終戦後、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還した。
朴慶植によれば、日本の敗戦によって強制労働させられていた朝鮮人労働者は先を争って帰国した。ノンフィクション作家の金賛汀は1945年8月15日を「強制連行、強制労働からの解放の日」であったとした。金はさらに「すべての朝鮮人強制連行者が、帰国を急いだ」が、「日本に進駐した米軍は朝鮮人の帰国を一時停止し、港に朝鮮人が集結することを禁止した。(中略)事態が混乱し、収拾が困難になるにしたがい、進駐米軍も、朝鮮人強制連行者を帰国させる以外にこの混乱を収拾する方法がないことを認め、彼らの帰国が再開された。」「強制連行者の多くは、この時期に帰国した」と書いている。
金賛汀はまた、帰国する朝鮮人の未払い賃金を、朝鮮総連が各企業に請求して徴収したが、そのほとんどは労働者個人には渡らず、朝鮮総連の活動資金となり、また朝鮮総連から日本共産党にも渡された、と述べている。」
・「日本外務省による反論 このような「現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるという主張」に対する反論として、外務省は1959年(昭和34年)7月11日に「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」を発表した。この朝鮮人渡来等に関する外務省発表では「第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する」と明記され、実情として以下のことが記載されている。
1939年末日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人。1945年終戦直前には約200万人に達した。この間に増加した約100万人のうち、約70万人は「自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加による」。「残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したもの」であった。
元来、国民徴用令は朝鮮人(当時は日本国民)のみに限らず、日本国民全般を対象としたもので、日本内地では1939年7月に施行されたが、「朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく1944年9月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施」され、1945年3月(関釜間の運航が杜絶したため)までの短期間であった。
終戦後、在日朝鮮人の約75%が朝鮮に引揚げた。1945年8月から1946年3月までに、帰国を希望する朝鮮人は日本政府の配船によつて、約90万人、個別的引揚げで約50万人、計約140万人が朝鮮へ引揚げ、また復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
1946年3月、連合国最高司令官の指令に基づき残留朝鮮人約65万人について帰還希望の有無を調査。帰還希望者は約50万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものは約8万人にすぎず、「残余のものは自から日本に残る途をえらんだ」。
1946年3月の米ソ協定、1947年3月連合国最高司令官の指令により北朝鮮引揚計画がたてられ、約1万人が申し込んだが、実際に帰還したのは350人だった。
朝鮮戦争中は朝鮮南北いずれへの帰還も行わなかつた。休戦成立後南鮮へは1958年末までに数千人が南鮮へ引揚げた。北朝鮮へは香港経由等で数十人が、自費で「北鮮へ引揚げたのではないかと思われる」。
このように記載したあと、「こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である」とし、1959年時点での在日朝鮮人の総数は約61万で、外国人登録票について調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきたものは245人であったとした。
さらに、「終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記245人を含みみな自分の自由意志によつて日本に留まつた者また日本生れのものである。したがつて現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もない」と結論した。
1959年の在日朝鮮人の来住特別内訳表。
登録在日朝鮮人総数 611,085人 /所在不明 13,898人(1956年8月1日以降登録未切替)/居住地の明らかなもの 597,187人 /終戦前からの在留者 388,359人 /1939年8月以前に来住したもの 107,996人 /1938年9月1日から1945年8月15日までの間に来住したもの 35,016人 /来住時不明のもの 72,036人 /終戦前の日本生れ 173,311人 /終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人」
・「外務省発表への批判 外務省の見解については発表直後から在日コリアンによって批判された。朝日新聞1959年7月14日記事によれば、朝鮮総連が具体的な数字を挙げて反論の声明を出した。
朴慶植は、外務省発表が史実に目を向けていないことに大きな憤りを感じて事実発掘の研究をはじめ、1965年『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)を発表した。この本は、強制連行という言葉が広がるきっかけになった。朴によれば、朝鮮人の強制連行は日本政府企画院が策定した「労務動員計画」に基づき実施された。朝鮮人に対しては1944年8月まで内地(日本)人と異なり国民徴用令は適用されなかったが、「企業による募集形式で強制連行された」と指摘している。鄭大均首都大学東京教授によれば、朴慶植によって初めて「強制連行」という言葉が日本軍による徴用に限定して使われた。『朝鮮人強制連行の記録』には付録として北朝鮮の平壌での「朝鮮民主法律家協会の声明」(1964年3月20日)が添付されている。
東京大学大学院准教授外村大は「在日コリアンの大部分が強制連行によって日本に来たとする主張は誤りである」が、この外務省発表には「労務動員の実態把握の誤謬がある」と批判している。外務省資料は、徴用(国民徴用令適用による徴用)以外の労務動員についてあたかも問題なしに進められ朝鮮人が望んで日本にやってきたかのように「『自ら内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加』が約70万人」と記録しているが、1939年以降の徴用ではない「募集」「官斡旋」と呼んでいた制度も「自由契約」とは到底言えないケースが多数見られており、それは、朝鮮総督府の事務官が『大陸東洋経済』1943年12月1日号において「労働者の取りまとめは…半強制的にやっております」と述べている事からも確認できるのだという。外村は2010年の論文で「戦時期の動員計画に基づく日本の事業所への朝鮮人の配置は徴用によってのみ行われたわけではない。すでに述べたようにそれ以前の「募集」「官斡旋」によっても行われたのであり、それらの場合でも暴力性を伴う労働者の充足=強制連行と呼ぶにふさわしい実態があった。在日コリアンのルーツのどれだけが強制連行と関係しているのかを論じるのであれば、徴用によって日本に来た朝鮮人の外国人登録者の数字のみを挙げて云々するではなく少なくとも「募集」「官斡旋」によって日本に来た者でその後も居住している朝鮮人の数字を含めて考えなければならない」と主張している。さらに「外務省資料は「朝鮮人徴用労務者」の日本内地への「導入」が「1944年9月から1945年3月(1945年3月以後は関釜間の通常運行が途絶したためその導入は事実上困難となった)までの短期間」としているが、これも間違いであり企業の文書や当時の新聞史料から1945年3月以降も徴用された朝鮮人の日本内地への送り出しが続けられていることが確認できる」としている。なお、外村は「強制かそうではないかの議論は不毛だ。本人が強制と考えたらそれは強制だ」と主張している。」
~つづく(次回:「慰安婦」)~
~次回、まとめと考察6/n~
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《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
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