思考の踏み込み

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前田智徳34

2014-08-30 06:38:18 | 
ついでに言えば、我々が旬の物を美味しいと感じる理由もこの凝縮力にある。
つまり、自然で天然な生命の力はやはり強いのである。

天然鰻。


どんなに舌の上の味覚反応だけ科学的に操作しても、人工物では絶対に天然の味には勝てない。
なぜなら天然の凝縮力は人間の科学などでは生み出せないからだ。


また、よくスポーツ飲料などで体に近い成分とかいって、電解質とか低浸透圧とか色々に研究された、水よりも吸収が良いとされるものがあるが、本当の意味で水よりも人体にとって吸収の良い水分などは無い。

しかし不思議なもので、人体と水分の吸収は、ある一定量の塩分が体内にないと水分が外に出るだけという構造をしている。

その意味で塩分を含んだスポーツ飲料は吸収がたしかに良いが、これも所詮は人工物である以上、そこから凝縮力は得られない。

(なによりスポーツ飲料は人工的な糖分が多く入りすぎていて、急速なエネルギー補給には有効だが、身体にはけして良くはないし、そもそも美味しくない。汚れていない山脈系によって、何万年もかけて濾過され凝縮されてきた天然水より美味しい "水分" は存在しない。そして美味しくないものを身体は吸収しない。)





もっと言うならば、凝縮力を "得られない" という表現もおそらく正しくないと思う。
我々が外から栄養を吸収しているという要素はごくわずかな部分でしかないと思う。それは排泄される物の量と口に入れるモノの量を比べれば明確であろう。


それよりも、食材が持つ凝縮の力と "同調" しているというのが実際ではないだろうか。

そしてこの凝縮の力は食材ばかりでなく、調理する者からも伝達されて総合的に我々の味覚に届く。


全てのバーテンダーが全神経をかけて行うといわれるマティーニのステア。
この、単純明快なレシピのカクテルはそのステアの技術が味の差となってそのまま現れる。名人と呼ばれる人のマティーニはやはり凝縮感に満ちた見事な一杯である。



結局、作り手の気持ちのこもっていない料理はどんなにいい食材を使っていても凝縮力がないから美味しくない。せいぜい舌の表面感覚を楽しませるだけで心までは届かない。


まして機械が大量生産する無感情な食品が美味しかろうはずはない。
どんなに時代が進んで、技術が駆使されようと、旬のモノを愛情を込めて手作りされた料理にかなう味を、機械にはけして作り出せないだろう。


自然の力が生み出す "凝縮力" ばかりは人智の及ぶところではないからだ。

前田智徳33

2014-08-29 01:29:37 | 
朝、目覚めるということは既に新しい人生を迎えた事とかわらない。

ところが深い眠りに入れないと、睡眠時間ばかりを貪る様になる。
二度寝というのは抗し難い誘惑だが、これは分散の快である。

まだ寝たいところでも目が覚めたらパッと起きる。
目が覚めたということは凝縮が最も高まったからであるから、そこで起きる事が最も理想的なのである。




実際二度寝をすればかえって身体は強張り、腰は弱くなっていくだけだ。

朝起きてむしろ疲れているというのは、睡眠に入る前に深い眠りに至れない状態であったとあう問題もあるが、睡眠自体が本来その状態を回復させる作用がある以上、多くの場合は起きる段階での問題である事が多い。


それほどに貪られた睡眠は、身体を分散的にさせてしまう。
(睡眠が外的な一点を特別に必要としない理由は立姿ではないからだが、このことは「ブッダ15」を参照されたい。)


食も同じである。

もうお腹が満ちているのに食べる。
それはただの分散の行為である。

しかし、食においてさえ、身体が食を要求する凝縮の要素が高まるのを待ってから食べれば、そこには統合感が生まれるものである。



そこに統合感という身体感覚が生まれる以上は、食事における "作法" というものが大切にされてきた理由もわかる。

つまり、作法とは身体の統合を導き出しやすくする "型" であって、けして単なるしきたりや風習であるとは限らない。

なぜ我々は「いただきます。」というとき、両手を合わせるのか。

この "合掌" こそ、統合を導く為の最も有効な身体技法だからである。
それは集中を高める効果を持つ "型" であり、人が "祈る" とき ー はるかな古来から無意識にとってきた "型" でもある。

いつしかそれは順序が逆になり、祈りや信仰のとき合掌を組む様に思われているが、そうではない。

初めにあったのは身体の変化なのである。



そしてその左右の手の統合感覚と、食と身体が触れ合ったときの統合感覚が同じ様に感じるまでになってくれば、食の感性はまったく違う次元で楽しめるようになる。


本当の意味で味わうというのはそういうことである。
そしてそれはやはりある一定の段階で切り上げることをしなければ、凝縮は崩れ分散へと向かう。

腹八分というのはすでに過ぎている。
七分、いや六分で十分だろう。
せっせと時間通りに一日三食も摂る様になった近代人はそれだけですでに過ぎている。

それ以前の人々は一日せいぜい二食、それもはるかに現代人より粗食で、それでいてはるかに激しい労働をこなしていた事を栄養学者はどう説明するのか。

前田智徳32

2014-08-28 06:14:54 | 
分散の終わりにやって来る虚無感を補うためには、より強い刺激を求めるしかない。
それには暴飲暴食とか飽食とか、ひどくなればドラッグや、歪んだ性癖や殺人、ひいては戦争にさえ辿りついてゆくものである。




古来、賢人達はそれでは世の中物騒で仕方ない、何より人間として生きる "喜び" はそんなものではないんじゃないかと、いろんなことを試してきた。

宗教における "信" や、芸術における "美" 、科学や思想哲学でもって "真" を追求する事も同じであろう。

そこには "凝縮" へと向かう方向性がある。
それは集中力といってもいい。
(正確には凝縮へと向かう力のことを集中力というのだが。)

もっと端的に言えばそれは呼吸の質を変えていくことであり、身体を統合へと向かわせるということである。

人間の創造的な行為の本質を洗い出せば、全てそこに辿り着く。
いにしえの人々が相当に呼吸法を研究していたのはその為であろう。




ところが、この凝縮へと向かう力と出会うことは普通に生きているだけだと中々難しいものだ。

何より問題なのは人間の身体の構造が、本来分散的で、単体では統一できないという根本的な矛盾を背負っているということである。

この事は「ブッダ」で詳しく書いたので簡潔に進めるが、その矛盾を解決する方法は一つしかない。
それは自己の身体の外側に、ある一点を設けてその一点との調和を生み出すという事である。

その一点に集中したとき、身体には "凝縮" へと向かう力が生まれ、本来分散的な構造にあるそれが、統合へと向かうのである。

そこで生まれる "快" を "凝縮の快" と私は呼んでいるが、これは分散の快などは問題にならない喜びを与えてくれるものである。

睡眠などはその極地である。




人が横になって寝るというのは分散的な行為であるが、真に深い眠りに入れた時、目が覚めると凝縮の感覚で満ちている。

人が何故眠るのか?

これは科学的にも今だに謎とされるが、その本質は毎日生死を繰り返すためである。

前田智徳31

2014-08-27 00:12:37 | 
ー この世における、我々人間の "感覚" の世界には二種類の "快" がある。


即ち、 "凝縮" の快と、"分散" の快である。

分散の快は我々のよく知るところであろう。
食もそうだし、お喋りや無駄遣いも分散の方向にあるものである。




セックスなどはその極地といえる。
特に男にとっては、いやオスにとっては性行為とは自然界においては "死" と繋がるものである。

死、それは分散の果ての現象であろう。
そして "生" とは凝縮力の発露である。

この世界に存在している "力" を丁寧に分析し分類していけば最後に残るのはこの凝縮と分散の二方向だけである。

それは "呼" と "吸" といってもいい。

生命と物質の違いもそこにある。

つまり ー 、どちらもある凝縮力によって存在しているものであるが、物質は一度その凝縮力が破れると、自ら修復し再び凝縮する構造を持たない。




生命は凝縮と分散を繰り返しながら、何度も ー いや、何千何万何億回も ー 毎日毎日、一呼吸一呼吸、破壊と再生を繰り返しながら、その生体を維持している。

ー やがて凝縮力が減退してくると老い、消滅した時に死を迎える。

逆に若い内はこの凝縮の "力" が余って皆持て余すものである。
だから皆分散的な行為をする。

若い者の嗜好する所はだいたいにおいてこの、分散の快を求めたものである。

激しくて音量の大きい音楽も、カロリーや塩分の高い食事も、派手な色彩や奇抜なデザインの衣服も、やたらと物を破壊し人を傷つけるアクション映画も、大酒もギャンブルも、全てその本質は分散の快が求めるところの欲求である。




それはごく自然な現象だし、システムに則っただけで誰も間違ってはいない。
だが、問題は分散の快には、その欲求が果たされた後に虚しさしか残らないという点である。

当然であろう。分散の本質は "死" なのだから。

前田智徳30

2014-08-26 06:02:48 | 
前田はまず何本かのバットを手に取り、握ってみてしっくりくるものがあったら叩いて音を聞くという。

そして気に入った音のバットをテーピングを巻いて練習で使ってみる。
そのバットを手塩にかけ、"育てていく" ー 前田はそう表現する ー 、そうして育ったバットをテーピングを外して試合で使う。




初めの段階で気に入らなかったモノは一切使わないという。

その分、育てるべきバットは割れてくれるな、頑張れよ ー そう言いながら使っていくのだという。

こんなバットの扱い方をする選手はプロでもいないらしい。


前田が打席に入り、バットを見つめるルーティーン。
それはこういう背景から来ているらしい。

この "感覚" は前田の天才性をよく表していると思う。
イチローもたしか同じような事を言っていた。




イチローは他人のバットを絶対に触らない。
なぜなら他人の "感覚" が手に付いてしまうのが嫌だからだそうだ。

超一流の寿司職人が寿司を握る時以外、日常生活で常に手袋をするといった話と同じ "感覚" であろう。

前田やイチローの感覚は寿司職人がその繊細な腕、手、指の感覚を極端に研ぎ澄ませて維持させておくという作業と質として変わらない。

彼らにとってバットはすでに道具ではなく、彼らの極限まで研ぎ澄まされた身体の一部にまでなっていたのではないか。



それは、侍が常に腰に両刀を帯び日常の内から身体の一部として扱った事に似ている。


そしてそれはひとたび "抜けば" 、相手の全てを絶つことのできる程の厳しい道具である。
日常から常にそれを携えているという緊張感は、それだけでサムライたちの精神性を高める役割を果たしていたことを現代人はどれほど想像できるだろうか。

銃が自分を安全圏において標的を狙える事と比べれば、"剣" を帯びるという生活様式は日本人の精神史にとって重要な要素であったことがみえてくる。


引退後、宮島清盛祭りで平清盛に扮する前田智徳。
(ハマり過ぎていて、一部ファンからは前田主演でもう一度大河で清盛をやれば視聴率30は固い、などの声も…。)


ちなみに平清盛は武士が政治に関わる先駆けをなした革命児だが、我々が "サムライ" といってイメージする内容ははるかな後年、江戸中期以降の知識階級となった武士像であろう。

前田は明確にこの武士像を、もしくはその精神性を意識していた。
"侍" より、"武士" の方が呼称として好きだとも語っているが、平成の世にそれを公言し、また周囲を納得させられる男というのは他になかなか見当たらない。





さて、以上の事をふまえてもう一度前田の求めていた "理想の打球" というものが何だったのか、考えてみることをしてみたいと思う。

それには ー だいぶ寄り道をしなければならないが、ご興味ある方にはお付き合い頂こう。