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芭蕉の発句アラカルト(11) 高橋透水

2022年04月27日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
あさがほに我は食くふおとこ哉  芭蕉

 天和二年芭蕉三十九歳の作である。前書きに「和角蓼蛍句(角が蓼蛍の句に和す)」とあり、其角の〈草の戸に我は蓼くふ蛍哉〉(虚栗)に対して唱和したものとされる。出典は『虚栗』や(『吐綬雞』『泊船集』)などにみられるが、『去来抄』に「先師の句は其角が蓼くふ蛍といへるにて、飽まで巧たる句の答也。句上に事なし、答る所に趣あり」とあり興味深い。単なる師弟関係を超えた問答である。
 さて其角の〈草の戸に我は蓼くふ蛍哉〉の句は、一般的に生き方は自由で己はわび住まいながら街に出て酒を飲み歩き、まるで夜に活動する蛍のようだと解釈され、このような其角の放埓さに対して芭蕉はそれをたしなめるかのように、自分はいつも朝顔の咲く頃に朝食を摂っているよ、つまり規則正しい生活こそ大事なのだと半分皮肉を込めたのであるというような、もっともらしい解説がなされることが多い。しかし前書きに「和角蓼蛍句」とあるように、唱和の句であり挨拶句だったとみてよい。つまり芭蕉は其角の生活はさておき其角の才能は十分認めていたのだ。
 その其角であるが、十五歳ごろから芭蕉に俳諧を学び始め、またほとんど同時期に大顛和尚に詩学と漢籍、草刈三越に医学、佐々木玄竜に書、さらに英一蝶に絵を学んでいる。このように早熟の奇才は早くから蕉門の中心人物であり、また単に蕉門の雄というにとどまらず元禄俳壇の大立者として活躍した。
 要は蕉門の重要人物でることから蕉門十哲に数えられ、その筆頭に挙げられるのが其角であった。後年に芭蕉は「草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪有り」と記し、其角・嵐雪を桃・桜になぞらえて「両の手に桃とさくらや草の餅」と詠んだことはよく知られている。
 ただし其角の作風は、「わび」「さび」を特色とする芭蕉の俳諧とはかなり趣を異にして奔放である。〈闇の夜は吉原ばかり月夜かな〉〈夕立や田を見めぐりの神ならば〉など多彩で、なかには「派手」「奇抜」で俄かに解釈できないものもあるが、洒落者で都会的な俳諧師に興味が尽きない。
  俳誌『鷗座』2021年11月号 より転載

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