才能だけで久保建英は生まれない。元バルサ育成指導者が日本の状況に覚えた違和感とは
2017年5月19日 6時30分
サッカーダイジェストWeb
東京Vの冨樫剛一前監督は「あの子、面白いボールタッチをするな」と、チビッ子たちのゲームを眺めていた。しばらくして休憩になると、スタンドにいたお父さんがピッチまで降りて来て告げる。
「建英、もういいぞ」
そしてこの後、冨樫氏は少年の本当の凄さを知る。父から許可を得た少年は、それまでとは逆の足でプレーを始めるのだ。面白いタッチをしていたのは不得意な右足で、利き足でボールに触れた途端に、ピッチ上が完全に意のままになったという。
やがて久保建英くんは、バルセロナに入団し、中学生になって帰国する。天賦の才は、最高の環境で研磨され、早くも15歳10か月と29日でJ1の公式戦にデビューするのだった。
かつてバルセロナのカンテラで監督経験を持ち、ジョルディ・アルバやボージャン・クルキッチらを指導してきたジョアン・サルバンス氏は、日本の現場に触れ語っていた。
「生まれ持った才能では、欧州と日本の子どもたちに差はない。違いを生んでしまうのは環境だ」
サッカー文化が根づく欧州には、身近に理想の手本があり、そこから逆算した効率的なトレーニングが日々更新されていく。そのうえで、頂点に辿り着くまで絶対に息の抜けない競争がある。
ジョアンは、バルセロナで仕事をする前に、イタリア、フランスなどを訪れ、他国の育成状況も見て回った。来日してみて、欧州と最も大きな落差を感じたのは、トレーニングに対する考え方だった。
「きっと日本にも効率的なトレーニングをしているクラブもあるのだとは思う。でも多くのアマチュアクラブ(部活)では、あまりに質より量にこだわりすぎている。グローバルに見て、ボールに触れない状況が10分間以上も続くトレーニングは、リハビリも含めてあり得ない」
逆に久保くんに限らず、才能に恵まれた選手に「環境」を与えれば、歴史的にも劇的な効果が表われてきた。釜本邦茂氏は西ドイツに、奥寺康彦氏はパルメイラスに短期留学をしただけだが、帰国すると周囲が目を見張る変貌を遂げていた。間もなく釜本氏は五輪得点王に輝き、奥寺氏はケルンとプロ契約を結び、当時世界最高峰のドイツで二冠に貢献する。
かつて「日本人はサッカーが下手」と言われてきたブラジルにも、それを否定するサンプルがある。日系2世のアレシャンドレ・カネコは、1960年代後半、ペレが全盛期のサントスで右ウインガーとして活躍した。まだ大半の有力選手が自国でプレーしていた時代で、世界屈指の実力を誇るサントスは、頻繁に世界ツアーに出かけた。
「小さい頃から周りの子と比べてテクニックに優れていた」というカネコは、ヒールリフトという技を編み出し一世を風靡する。当時ブラジルでは「狂ったハンカチ」「ランブレッタ」などと呼ばれた。後者はイタリア製の小型バイクで、希少で高価なものの象徴だったそうだ。
そのカネコの訃報が届いたのは、4月中旬のことだった。後年再会した王様ペレに「あの技だけはマネができなかったな」と言われたそうだが、サントスの後輩に当たるネイマールが使い始めるのも伝統なのかもしれない。
カネコは5歳で日本人の父と死別しているので、日本人の血は流れていても、完全にブラジルの文化しか知らなかった。つまりブラジルで「日本人が下手」だと思われていたのは、血ではなく、日常的にサッカーと縁の薄い国で育った環境に要因があったことの証明になる。裏返せば、環境さえ恵まれれば、日本人には独創的なアイデアを具現していく可能性が広がっているのだ。
だが環境は一朝一夕で手に入らない。今では日本の子どもたちも、野球よりサッカーに憧憬を抱く。しかし肝心な大人たちの変革の動きは鈍い。
2017年5月19日 6時30分
サッカーダイジェストWeb
東京Vの冨樫剛一前監督は「あの子、面白いボールタッチをするな」と、チビッ子たちのゲームを眺めていた。しばらくして休憩になると、スタンドにいたお父さんがピッチまで降りて来て告げる。
「建英、もういいぞ」
そしてこの後、冨樫氏は少年の本当の凄さを知る。父から許可を得た少年は、それまでとは逆の足でプレーを始めるのだ。面白いタッチをしていたのは不得意な右足で、利き足でボールに触れた途端に、ピッチ上が完全に意のままになったという。
やがて久保建英くんは、バルセロナに入団し、中学生になって帰国する。天賦の才は、最高の環境で研磨され、早くも15歳10か月と29日でJ1の公式戦にデビューするのだった。
かつてバルセロナのカンテラで監督経験を持ち、ジョルディ・アルバやボージャン・クルキッチらを指導してきたジョアン・サルバンス氏は、日本の現場に触れ語っていた。
「生まれ持った才能では、欧州と日本の子どもたちに差はない。違いを生んでしまうのは環境だ」
サッカー文化が根づく欧州には、身近に理想の手本があり、そこから逆算した効率的なトレーニングが日々更新されていく。そのうえで、頂点に辿り着くまで絶対に息の抜けない競争がある。
ジョアンは、バルセロナで仕事をする前に、イタリア、フランスなどを訪れ、他国の育成状況も見て回った。来日してみて、欧州と最も大きな落差を感じたのは、トレーニングに対する考え方だった。
「きっと日本にも効率的なトレーニングをしているクラブもあるのだとは思う。でも多くのアマチュアクラブ(部活)では、あまりに質より量にこだわりすぎている。グローバルに見て、ボールに触れない状況が10分間以上も続くトレーニングは、リハビリも含めてあり得ない」
逆に久保くんに限らず、才能に恵まれた選手に「環境」を与えれば、歴史的にも劇的な効果が表われてきた。釜本邦茂氏は西ドイツに、奥寺康彦氏はパルメイラスに短期留学をしただけだが、帰国すると周囲が目を見張る変貌を遂げていた。間もなく釜本氏は五輪得点王に輝き、奥寺氏はケルンとプロ契約を結び、当時世界最高峰のドイツで二冠に貢献する。
かつて「日本人はサッカーが下手」と言われてきたブラジルにも、それを否定するサンプルがある。日系2世のアレシャンドレ・カネコは、1960年代後半、ペレが全盛期のサントスで右ウインガーとして活躍した。まだ大半の有力選手が自国でプレーしていた時代で、世界屈指の実力を誇るサントスは、頻繁に世界ツアーに出かけた。
「小さい頃から周りの子と比べてテクニックに優れていた」というカネコは、ヒールリフトという技を編み出し一世を風靡する。当時ブラジルでは「狂ったハンカチ」「ランブレッタ」などと呼ばれた。後者はイタリア製の小型バイクで、希少で高価なものの象徴だったそうだ。
そのカネコの訃報が届いたのは、4月中旬のことだった。後年再会した王様ペレに「あの技だけはマネができなかったな」と言われたそうだが、サントスの後輩に当たるネイマールが使い始めるのも伝統なのかもしれない。
カネコは5歳で日本人の父と死別しているので、日本人の血は流れていても、完全にブラジルの文化しか知らなかった。つまりブラジルで「日本人が下手」だと思われていたのは、血ではなく、日常的にサッカーと縁の薄い国で育った環境に要因があったことの証明になる。裏返せば、環境さえ恵まれれば、日本人には独創的なアイデアを具現していく可能性が広がっているのだ。
だが環境は一朝一夕で手に入らない。今では日本の子どもたちも、野球よりサッカーに憧憬を抱く。しかし肝心な大人たちの変革の動きは鈍い。
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