もの想う鷲 (A thinking eagle)

自然・環境を科学してみる

日本の政治経済的課題 (その14)

2009-06-19 12:40:23 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その14- - -課題2(貧弱な社会の福利厚生からの脱皮-その1/3))

著者は言う。”私的裕福と貧弱な福利厚生は、アメリカの低率の税金の結果を描写する言葉であった。しかしこの言葉は、アメリカ以上に日本にぴったりの表現である。家はウサギ小屋といわれるように狭いが、近代設備は世界で一番揃っている。子供も他国の子供達が羨むほどの近代機器(テレビ、ビデオ、カメラ、電話等)を持っている。がしかし自然に触れる機会は、東京の様な大都会では殆ど無い。日本人は良い公的な福利厚生施設を持っていない。東京の電線の20%しか地下に埋設されていない(ロンドンのそれは100%である)。東京の一人当たりの公園面積は、ロンドンのそれの1/14である。大都会の労働者の殆どは着席者1人に立っている人2人という込み合った電車に乗って、長距離を長時間かけて通勤している。日本の高速道路システムはどうなっているのか。車1台当たりの道路面積は4 m2しかないので、My Carを使えば交通の大渋滞を引き起こすのである。おまけに会社の近くに家を持つには土地の価格が高すぎるし、会社にはそんな大容量の駐車場は無い。”

著者の言っていることは正しいと思います。日本の人口密度はアメリカの11.5倍(25倍)、フランスの4.5倍(12倍)、イギリスの2.0倍(6倍)、ドイツの2.1倍
(6倍)、であるので、特に大都会の住宅はウサギ小屋と言われており、家が狭いのは仕方が無いことだと思います。(カッコ内の倍率は居住可能面積での人口密度の倍率)先進国は、大都会でも、立派な広い公園、散歩道、ジョギングコースを持っているのは、訪問された方々には、周知の事実です。しかし日本には、人口密度の
高さの元である、国土の67%の森林と多くの水の綺麗な川があり、島国故の、また森林の作り出すミネラル豊かな水に支えられた 内海、湾、外洋があります。これからは、これらをフルに活用して、農業、林業、水産業を振興して21世紀の間に、他の先進国の真似のできない、工業、農業、林業、水産業 のバランスのとれた、自然と共生する、環境にやさしい国に再生できると私は考えます。

著者は続けます。
”公的支出は、経常支出(警察、防衛部隊、公的教育、医療サービス、など)、資本支出(道路、鉄道、港を作ったり、公園を提供する、など)、及び 社会保障関係支出(病気や失業の手当て、と老齢者の年金の支払い、など)に分かれる。政府がこれらのことに支出できる額は課税と社会保障への拠出から得られる歳入と借り入れしようとし且つ借り入れできる額によって制限される。1950年以来奇跡の経済成長のおかげで、急速に収入が増えて来たので歳入は急速に増加した。したがってGNPに占める公共支出の割合を増やす為にこの税収の増加は使うことができたであろうが、日本はそれをしなかった。そうではなく、日本は、税率をだんだんと下げて行き、公的支出は比較的に安定して、GNP比20% の少し下に留まった。しかし既に述べた通り、実質GNPは着実に脅威の成長を遂げたので、同じ比率で、公共支出も着実に増加した。インフラストラクチァへの支出が最優先された。空港、道路、水供給設備としてのダム、電気供給、などが公共支出の大部分を占めたのである。新幹線はこの時期の冠たる成果である。他方、社会保障は無視されたのである。
なすべきことが多くあったので、一般的な福利厚生は犠牲となった。国のすべてのエネルギーは経済の再建と近代化に捧げられたのである。日本人自身が、国が個人を保護するには、まだ国は貧しすぎると考えたのである。”
”この卑屈さは、不文律の社会契約であった。税率が低かったので、個人は、貯蓄か労働かで、自身を守ることを期待された。老人といえども仕事はすぐに得られた。産業界は、国際基準でも、素晴らしく効率的で、生産性も高かったが、サービス部門は故意に庇護され非常に非効率であったし今でもそうだ。石油スタンドを見れば良くわかる。(訳者注記:最近はセルフサービスが普及してきたが、前は、2~3人の人が1台の車のサービスをしていた。)産業界に働く人達が、サービス部門の人達に恩恵を分け与えたのである(代替の社会保障)。誰もが国から慈善金をもらうことを望まなかった。”
”1949年のドッジ計画(Dodge Stabilization Plan)によって、歳入で歳出を賄うことを、政府は義務付けらていたのである。1965年までは、政府はこれを守り抜いた。したがって、1965年までは、個人の貯蓄は産業界への投資に回されたのである。日本をして、戦争で砕かれた経済を再建させ西洋に素早く追いつかせたのは、この安価で豊富な資本の供給であった。当時はこの犠牲は充分に価値のあるものに思えたのである。低い税率は高率の貯蓄を意味した。高率で高額の貯蓄が高額の投資をまかない、その投資は、多くの仕事と急速な成長を生み出したのである。”

”1965年が日本の戦後の発展の分水嶺であった。色々の力が経済に変化を強制すべく押し寄せたのである。産業界の、投資への資本の需要は、ついに飽和したので、経済成長は、1965年のリセッションで、鈍化した。ここで過剰貯蓄が発生したのである。ブレーキが外された時、低い利子率と容易な貸し出し枠でも経済に点火できなかったのである。利益と収入は先細りになり、税による歳入は落ち込んだ。歳入=歳出の均衡予算は政府に経費節減か増税か-何れもリセッションを悪化させる行動-の選択を要求した。小さな予算赤字は、それが、名目GDPの成長率より早くない速度で、公共部門の赤字を増やすのであれば、問題は無い。負債の対GDP比率は不変だからである。公的部門の部分に投資する為に借りるのは意義がある。財政赤字は国の物理的資産の増加で釣り合っているからである。全ての公的業務の支出を税から賄うのは、明日の納税者が享受する便宜を今日の納税者が支払うことを意味する。明日の納税者もそのコストのいくらかの部分を担うことを期待されて良い。即ち、負債の利子の形で。”
”投資を現状の税からできることに限定することは、経済を歪める。過剰な個人の貯蓄があるときには、それは厄介な国際収支の黒字を作り出すから、貧弱な社会の厚生福利をなくするために、それを借りることは意味のあることである。”
”多くの議論の後に、政府はこの論理を採用することを決定した。1965年に、国債の発行を禁じた ドッジ計画を 廃棄し、政府は予算の赤字を許されたのである。しかしながら、この借金は、資本支出のみを賄うことに限定した。政府は、その全ての経常支出は、相変わらず、税金から支払わなければならなかった。政府は、
所謂 ”建設国債”として知られたものを発行し始めたのである。次の10年間は、この国債は、各年とも、GDPの0.5%から2%の慎ましやかなものだった。しかしながら、累計の国債発行額は、1965年のGDPの0%から1974年にはGDPの11%になった。政府支出は、予算赤字を通して、過剰な個人の貯蓄を使用して、1970年代の初めまで、急速な成長の継続を可能にした。しかしこの借金は高い公的支出よりはむしろ歳入減少を補ったのであり、貧弱な社会の福利厚生の矯正には、少ししな使用されなかったのである。時代は変化していた。戦後世代の年長者達は、前述の「代替の社会保障」を受け入れた。家族システムは依然強固であった。人々は、国が個人の面倒を見るよりは、お互いに助け合うことを期待した。しかし労働者が田舎から町に移動するにつれて、家族の絆は薄れていった。さらに、日本経済を再建し現代化することに専心して努力した、戦後世代の若年者達は、彼らの努力の報酬を期待した。彼等は、芽生えてきた日本の大都会における公害を含む、生活の貧弱さに抗議した。なかんずく、大都市とその郊外の給料生活者達は、政府からより公正な処遇を要求した。政府与党である自民党はこれらの問題を認識するのが遅かった。その結果として、政府への国民の支持は落ちてきた。その支持率は1958年の58%から1972年には47%に落ちた。地方政府、特に大都市とその郊外、は 社会主義政党の手に落ちた。1970年の初期には、自民党による政治の独占は終わるかに見えた。何かがなされなければならなかった。”

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