もの想う鷲 (A thinking eagle)

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日本の政治経済的課題(その6)

2007-05-27 21:30:43 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その6- - -1980年代(その1) )
ここで、第2次オイルショックを経て1980年代に入ります。著者は続けます。
”1970年代が終わりに近づいた時やっと時代は落ち着いて来た様に見えた。過剰な生産能力は徐々に減らされ投資は回復していた。成長は加速し国際収支の黒字は減少し始めた。インフレは適当なレベルに下げられ来て、もう一度国家予算の赤字を減らすことを考え始めることが可能であった。しかしながらこの時にまた不幸な運命が介入することになった。イラン革命とイラク-イラン戦争が石油の供給を大幅に減らしたのである。1979年から1980年にかけて石油の価格は3倍になった。世界経済は10年間に2度目の石油価格ショックに襲われたのである。1980年代は為替市場と財政市場の混乱の著しい時代であった。この10年間の初期の3年間は(1970年代の後書きとも言うべき)第2次の石油価格の上昇に支配された。この時期、日本経済は第1次の石油価格の上昇の時期より遥かに巧く、また他の大国よりも巧く、機能した。中間期の3年間は、日本は、アメリカのレーガン大統領の供給者側の経済学(supply-side economics=Reaganomics)(供給側重視の経済学)によって箍(たが)をはずされた:即ち日本経済は再び急速なアメリカの需要の成長に引っ張られたのである。しかし1985年にドルはピーク(260円/ドル)に達し、1987年には、ドルの価値は円に対して半分(130円/ドル)になってしまった。
これを境にアメリカは世界を牽引することが出来なくなった。日本は、貿易戦争を恐れてその構造的貿易黒字の是正に循環的なリフレーション(*日本の政治経済的課題 (その5)の注記参照)という緩和策で対応した。日本の国家予算の赤字は心配なほど大きく、リフレーションの重荷は、安価なお金の上に投げられたのである。1980年代の後期には日本経済は、貸し出し限度額が大幅に上げられ、今までかってなかった様に簡単にお金は借りられ金利も安くなったのである。これが”バブル”経済を生み出し、”バブル”経済は1990年に破裂し、多くの著名人のスキャンダルを露呈したのである。”
この時代の分析を著者は以下の様に続けます。
”第2次オイルショック”が襲った時、日本は、第1次オイルショックの時より遥かに良く備えが出来ていた。1978年のボンのサミットで、日本とドイツはその経済を刺激して世界の経済成長を進行させる様に説得された。その年日本は、輸出金額は1%以下の増加で、輸入金額は8%増加したにも拘らず、約6%のGNP成長を成し遂げた。(日本政府の経常収支の黒字の減少はGNPのほぼ1%を切り落としたのに)
1979年の経済サミットでは、日本はもう悠々としていた。1979年の中頃には、日本政府は上昇しているインフレーションを抑える為に会計的にも、金銭的にもブレーキをかけるのが安全だと感じていた。1970年にGNPの4.6%に達していた予算の赤字に取り組むべく、18年間で最も厳しい予算を作成した。この時期を得たデフレーションが日本経済を第2次オイル価格上昇に備えさせたのである。第2次オイル価格上昇は第1次よりは緩いものであった。第1次の場合は、1972年と1974年の間で石油価格は5倍になった。第2次は1978年と1980年の間でそれは2倍と少しであった。しかしその最初の値上がりは(1978年)にはもっと高かったので、日本の輸入価格への影響は同じように高かった。高い石油価格は、価格に転嫁されるのではなく、主に、低い利益と2回目となる実質賃金の減少によって吸収されたのである。1973年のオイル価格上昇に続く2年間で卸売り価格、消費者価格と時間当たり賃金は約40%上がった。第2次オイル価格上昇に続く2年間で卸売り物価は22%、消費者物価は14 %、時間当たり賃金は約13%上がった。円の交換レートは暫く下がったがその後回復した。1972-1974年の日本のインフレーションは英国とほぼ同じくらい悪かったが、ピークの1年は25%になった。1978年-1980年の日本のインフレーションはドイツよりも良く10%以下であった。高いオイル価格のコストを低い賃金と利益で吸収して、日本の輸出はより競争力がついた。貿易条件が悪化して日本の経常収支はなお赤字であったが貿易収支は大きく改善した。結果として、行動は力強く、経済はリセッションに陥ることなく、成長が少し緩くなっただけであった。他の国は日本の良い運営状態を敬服はしなかった。そして特に彼らの市場への日本の侵入を嫌った。例えば日本の自動車の輸出は1980年の4月までの12ヶ月で50%増えた。一方アメリカとイギリスの自動車の生産は1/3減った。ヨーロッパとアメリカは、もし日本が ’自主的に’ 減らさなければ、日本の自動車を締め出すと脅した。自主的な自動車の輸出規制は受け入れられた。そして1981年5月から日本はアメリカに輸出される自動車の数を制限したのである。従って日本の自動車業界は上層の市場を狙った。直ちに彼らは台数は少ないがより高価な車を輸出し始め、継続して輸出の金額を増やしたのである。他の製品にも同様な事を行うことになり、1982年の初めには、日本は、アメリカとヨーロッパへの輸出の1/3は何らかの自主規制を受けていると主張した。輸出はなお増加した。日本はアメリカとヨーロッパを第3世界から締め出した。そこで外国からの攻撃は日本の閉ざされた輸入市場に向けられた。1981年12月には、日本の通産相 河本敏夫は、'日本は貿易戦争の瀬戸際にある' と警告していた。1982年~1984年に亘って実施予定のGATTラウンドの関税削減の年度毎の予定は、1982年の4月1日に前倒しにされた - - がこれだけでは十分でなかった。1982年6月のベルサイユサミットでのトラブルを心配して、日本は更なる貿易自由化対策を提供した。いや諸外国を鎮静させる対策と言ったほうが良いかもしれない。そのパッケージは1983年4月からの119項目に関する関税カットと更に96項目に関しての関税の撤廃を含んでいた。日本は、”輸入手続きは簡素化され輸入は加速されるであろう。輸入の分配に制約を加えることはしないように努める。貿易上の不平を解決する為にはオンブズマンを任命し、外国は 日本が将来の規則を作るときには、発言権を持つようにする。”
巧みな言葉だった。また印刷物も良くそれがもっと効いた。貿易の自由化対策は、輸入の増加を加速するのに殆ど役立たなかった。そこで外国の非難は、日本の輸入現場の最前線の貿易障害から国内経済の不公正なやり方に,焦点を移した。ロナルド・レーガンがアメリカ大統領に当選し、1981年にホワイトハウスに供給側の政策をもたらした。
アメリカの新しい行政府は減税に乗り出したので、レーガノミックス(Reaganomics)は、厳しく押し詰められた日本の救済になった。供給者側経済論者は、この政策は急速な成長とより高い貯蓄を奨励し、その故に税による歳入を増やすと主張した。出費の削減と合わせて、行政府は1983-1984年までに連邦予算を収支均衡にすると予測した。大抵のアメリカ人と同じ様に、供給者側経済論者は、外国のことについては考慮せず、減税がドルとアメリカの国際収支に及ぼす影響を無視した。これは致命的な間違いであった。この減税は、税引き後の借金のコストを下げ、貸し出し限度額の引き上げの需要を増やした。連邦準備銀行は、その強力な議長のフォーカー(Paul Volker)の下で、マネーサプライの増大を抑え、インフレーションと戦う為に利率を高くした。レーガンの安易な減税策とフォーカーのタイトな財政策とが組み合わされた。これが、1980年に為替市場の制御が排除された日本からではないが、外国からの資金の流入を呼び込んだ。ドルの価値は急上昇した。1980年の第3四半期から1981年の第1四半期の間に他の通貨に対して平均60%上がった(しかし円に対しては20%だけだった)。アメリカの製造者は、世界市場から価格の点で追い出され、外国からの輸入が押し寄せた。1981年と1985年の間に
、アメリカの経常収支は、GNPの0.2%(70億ドル)の黒字からGNPの3%(1220億ドル)の赤字になった。経済成長は、楽観的に、年率5%と予測されていた。国内需要は4%を少し下回って、悪化した貿易収支のせいで、GNPの成長は3%に達しなかった。1981年~1985年の間のアメリカ人の異常な消費の1/4は追加的な輸入に費やされた。したがってこの消費によって作られた収入の1/4は外国人によって稼がれたのである。この収入への税金は外国へ逃げてしまった。それは、輸出がドルの強さによって急に増大したドイツと日本の政府に行ったのである。アメリカの歳入は減ってしまったのである。アメリカの連邦予算の赤字は消えうせるどころか、1980-1981年のGNP比2.8% (740億ドル)から1984-1985年のGNP比5.3% (2120億ドル)に膨張した。もしドイツと日本の政府がこの僥倖的な税の増大を消費に回していたら、全てはうまく行ったであろう。ドイツと日本の需要が増大し彼らの増大した輸出に見合う輸入に通じたであろう。アメリカの収支の悪化も少なくなっていたであろうし、生産と収入ももっと早く増え、歳入ももっと上がったであろう。しかし日本とドイツの予算の赤字は、1980年代のはじめの期間は、大きく口を開いていた。アメリカの会計的な放漫さが、両国をして罰されることなく緊縮財政を施行することを可能にした。急増した輸出が、公的予算カットのデフレ的な衝撃を差し引いたのである。レーガンの供給者側の理論に基づいた減税はアメリカ経済を歪めた。過大
評価されたドルは、アメリカの製造者の販売に打撃を与え、税引き後の借金のコストの低下を帳消しにしたのである。産業界は新しい設備増大への投資を控えるようになった。外国との競争に影響されないサービス・セクターは、強いドルに助けられた。オフィスビル、ショッピング・モール、ホテル、レジャー用の巨大な複合施設、の様なものへの投資は急増加した。これらは輸出を生み出したり輸入を減らす為には、殆ど役立たなかった。アメリカが、貿易赤字によって蒙った負債を埋め合わせる 能力 は増やされることはなかったのである。マクロ経済の点では、レーガンの対策は、国内投資に比較して国内貯蓄の深刻な不足を生んだ。サービス産業の投資は増えた。個人の借金は増えた。個人貯蓄は減少した。家庭の可処分所得に対する貯蓄の比率は、1981年の7.7%から1985年の4.5%に落ちた。予算赤字の増大は政府支出を増やした。国家の貯蓄は、全体として、GNPの18.8%から15.8%に減少した。不十分なアメリカの貯蓄は、アメリカの経常収支の悪化を通して、過度のドイツと日本の貯蓄の為の はけ口を提供した。この4年間(1981年~1985年)の間に日本の経常収支の黒字は、GNP比0.4% (50億ドル)から3.7% (500億ドル)に増大した。国内需要は年率3%上がり、実質GNPは輸出先導の成長のお陰で年率4%上がった- - アメリカが経験した需要と成長の鏡像(アメリカはマイナスで日本と正反対であった)であった。即ちアメリカの酔っ払いを、健全でない(酔っ払った状態の)日本が支えたのである。”
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日本の政治経済的課題(その5)

2007-05-06 21:40:15 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その5- - -1970年代の総括 (3))
著者は続けます。
"1973年10月6日エジプトとシリアがイスラエルを不意打ちして、Yom Kippur War が勃発した。アラブ石油輸出機構(OAPEC)は素早く対応した。最初に、アラブの主義を支持しなかった者には石油の供給を停止し、次に石油の価格を5倍にした- -(第1次オイルショック)。日本に及ぼす影響は悲劇的であった。日本はそのオイルの99%を中東から輸入し、そのエネルギー供給の90%を石油に依存していた。石油が値上がりするや恐慌と大混乱が起こった。日本人の秩序正しい振る舞いはこの危機の中で崩壊した。自己よりグループを優先する倫理は突然 '全ては自分自身の為にある'という観念に取って代わられた。品薄であると噂になったものは、恐慌買いにより、本当に品薄になった。トイレットペーパーと洗剤は小売店で品切れになってしまった。人々はお金を引き出すべく銀行や貯金機関へと走った。製造者達は、好機到来とばかりに、故意に市場への供給を差し控え恐慌買いを誘発させ、かくして価格と利益を膨らませたのである。石油会社は価格協定連合を形成し、他の業界の会社は違法なカルテルを組んだのである。集約すれば、彼らは市場に出す殆ど全ての商品に対して、この売り手市場という新奇な情勢を利用するべく奔走した。非常に競争的な買い手市場で、最善を尽くして、お互いの首を絞めあってきた- -それは過去20年間の特色であった- -彼等は、過去とは違って、消費者から利益をむしりとることに共通の利益を、突然発見した。
'独占禁止法やカルテル防止法などくそ食らえだ。これこそ一生に一度の好機である。’
幾月かは、この考え方は正しいかのように見えた。政府は彼等を懲戒したり罰したりすることは何もしなかった。しかしそれは後から来るのだった。当座は、政府はどうしたら良いか分からなかったのである。石油価格の上昇は価格に対しては、インフレ的であるが、需要に対してはデフレ的である。それはインフレーションを直接に増加させるが、他方では、日本人のポケットからお金を取り、アラブの石油を産出している種族長に、それを渡すことによって、日本人の実質所得を減らしたので、消費者の支出は激減した。この第1次オイルショックは日本経済の前進しようとする足を踏みつけ、日本経済が既に進みかけていた良からぬ方向に更に推し進めたのである。1974年4月までの1年間は消費者価格のインフレーションは26%に達した。1974年の賃上げ闘争--いわゆる春闘--はしたがってひどいものになった。労働組合が、労働者は会社の利益の分配にあずかるべきだと賃上げを要求したことだけではなく、労働者と雇用主との間の協調体制が、大企業が品物不足の情勢を悪用して消費者を搾取したやり方を労働者が知っている為に、崩れてしまったのである。会社は労働者のインフレ的な賃上げ要求に逆らう根拠を持たなかったのである。会社が売り手市場の中で消費者からむしりとったのと同じように、結果を省みず、労働者は単に彼らの折衝力を悪用したのである。脅威の成長の時代には、膨張した利益を労働者と分け合うことが全般的に実質生活水準を上げたが、この一時に偶然に訪れた投機的な利益を分け合うことは全く違っていた。これらの利益は、増加した製造能力、販売、及び生産性という永続的な基礎を持つものではなく、一度限りの利益であった。それらは蒸発してしまうものであったが、賃金は定着するものであり、永続して労働コストを上げるものである。これらの余分のコストは、価格に転嫁されるか、あるいは雇用の減少によって吸収されるかされるであろうことは不可避であった。驚いたことに、彼等が暴利をむさぼったことに政府は見て見ぬふりをするのではないということを会社は発見するのである。彼らは、なかんずく政府の会計と財政の放漫さによって引き起こされたインフレーションの身代わり山羊として名指しにされたのである。1974年2月公正取引委員会の役人が、いくつかの石油精製会社の事務所に捜査令状で立ち入り、違法な価格カルテルを操作した罪で数人の社長が起訴された。同様な立ち入りが貿易会社と洗剤の会社でも行なわれた。暫くして国会がインフレーションを議論したとき騒ぎが起こった。野党は暴利をむさぼった会社は処罰され、納税者は消費者搾取で得られた過度の利益を償われるべきであると主張した。その結果、野党は政府をして、降って沸いた僥倖である異常な利益に税金を課す '特別の暫定会社利益税法' を通させた。産業界は、労働組合に対して出したのに続いて、納税官にも、その過剰利益を支払うことを強要されたのである。石油価格の高騰は田中首相の野心的な2桁成長率の成長を継続するという野心を打ち砕いたのである。インフレを抑制することが第1の優先事項となった。1973年12月、日本銀行はその公定歩合を2%上げて記録的な9%にした。さらに不動産会社、建設会社、及び貿易会社などの問題の業界に関して特別な貸し出し限度額の制限を課すべく '窓口指導' が行われた。トイレットペーパーや液化石油ガスからビニールクロライドに至る主要な製品に関して価格統制が導入された。1974年度の予算は緊縮予算となり、1972年と1973年に入れられた壮大な公共投資計画は停止されたり延期されたりした。システムは突然ストップした。石油価格の上昇に引き続いて起こった円レートの低下とそれが惹起した国際収支の赤字により事態は更に悪化し、会社はエネルギー、原材料、及び賃金の高コストに直面していた。国内市場も国際市場も崩落したのでこれらのコストをもはや価格に転嫁出来ないことに彼らは気づいた。経済はリセッションに入ったので、土地価格、原材料価格、証券市場の株価も大暴落した。熱心に進めてきた財テクの投機の結果は、厄介な実現損失となって現れた。生産は落ち込み統計的な失業指数は、あまり上がらなかったけれども、労働時間の減少や、強制された長期休暇の形で、隠れた失業指数は急激に増加した。1975年、日本の実質GNPは、第2次大戦後初めて前年比マイナスを記録した。日本の成長の船は、石油ショックという魚雷を受けて、大打撃を受け、田中内閣は船とともに沈んだ。田中首相は、62%の支持(1990年に海部首相に抜かれるまでは今までの最高の支持率であった)を受けて登場したが、2年後の1974年12月たった12%の支持率(1989年竹下首相と宇野首相はこれより下回ったが)で、首相の座を去った。1976年には実質GNPは急激に回復した。そしてその後は安定した一定の率(約5%)で成長を続けるのである。1960年代は成長は平均、年率11%であったが、1970年代の後半はやっと平均、年率5%であった。輸出がなかったらこの数値はもっと悪かったであろう。オイルショックは貿易の条件を日本に不利にした。1973年から1976年の間で日本の輸出価格は50%しか上がっていないのに、輸入価格は130%上がった。不変の輸入額を輸出で賄うためには、輸出を25%増やさねばならなかった。1974年も1975年も日本は輸出をその様に増やす手立てがなかった。リセッションに苦しんでいたのは日本だけではなく、その外国市場もまた崩れていた。さらに、経済がリセッションに移行しているので輸入量も減ったが、輸入価格上昇を埋め合わすことは出来なかった。他の工業国と同じ様に、日本も国際収支の赤字に突入したのである。1972年から1974年の間に、日本の経常収支は、GNP比2%の黒字から1%の赤字に落ち込んだ。1975年には、輸出が回復したからではなく、輸入が落ち込んだから、経常収支は均衡に戻った。しかしながら1975年の終わり頃から日本の輸出は再び力強く増加し始めた。石油ショックのリセッションの深さに驚いたアメリカとイギリスはりフレーション政策(*注記参照)を余りにも短期に激しくやり過ぎたが、日本とドイツはりフレーション政策をやったが少なすぎたし遅すぎた。したがって日本はアメリカのこのりフレーション政策の恩恵にあずかることが出来た。日本の会社は、いつもの様に、国内市場が停滞すると攻撃的な輸出に打って出る。今回は円の弱さに助けられた。その結果、1976年には日本の国際収支は黒字に転じ、日本は1978年までこの黒字を継続した。一方 アメリカは、1975年の黒字から、1978年には少しの赤字に陥った。日本もドイツも、アメリカの膨張政策にただ乗りしたと、諸外国に見られたのである。アメリカは世界の諸国を引っ張っていたので、'機関車経済' と呼ばれた。日本は1976年からづっと、全ての国際会議と特に先進7カ国首脳会議において、ただ乗り国として非難された。1977年の暮れ、日本は1978年度は7%の成長率とすることに合意させられ、1978年のボンのサミットはこの目標が達せられるかどうかの議論で多くの時間が費やされた。1975年からスタートして日本の財政政策は膨張的になった。田中首相は1970年代の初めの多額の赤字予算の為に厳しく非難されたが、彼を引き継いだより保守的な首相継承者は更に多額の赤字予算を組んだのである。1975年から1978年までに遂行された経済刺激策は国の国債額を大きく膨らます結果となった。予算赤字の性格もまた変化した。石油ショック後公共投資は厳しくチェックされる一方で、社会保障の出費は急激に増加し始めた。1980年代に国の赤字予算を抑制する時が来たときに、公共投資は低く抑えても、削減の一番難しいのはこの最も多額の社会保障費であった。”
*注記
リフレーション政策(reflation policy):インフレーションにならない程度に、通貨を膨張させて景気を良くする政策。
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