もの想う鷲 (A thinking eagle)

自然・環境を科学してみる

日本の政治経済的課題 (その14)

2009-06-19 12:40:23 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その14- - -課題2(貧弱な社会の福利厚生からの脱皮-その1/3))

著者は言う。”私的裕福と貧弱な福利厚生は、アメリカの低率の税金の結果を描写する言葉であった。しかしこの言葉は、アメリカ以上に日本にぴったりの表現である。家はウサギ小屋といわれるように狭いが、近代設備は世界で一番揃っている。子供も他国の子供達が羨むほどの近代機器(テレビ、ビデオ、カメラ、電話等)を持っている。がしかし自然に触れる機会は、東京の様な大都会では殆ど無い。日本人は良い公的な福利厚生施設を持っていない。東京の電線の20%しか地下に埋設されていない(ロンドンのそれは100%である)。東京の一人当たりの公園面積は、ロンドンのそれの1/14である。大都会の労働者の殆どは着席者1人に立っている人2人という込み合った電車に乗って、長距離を長時間かけて通勤している。日本の高速道路システムはどうなっているのか。車1台当たりの道路面積は4 m2しかないので、My Carを使えば交通の大渋滞を引き起こすのである。おまけに会社の近くに家を持つには土地の価格が高すぎるし、会社にはそんな大容量の駐車場は無い。”

著者の言っていることは正しいと思います。日本の人口密度はアメリカの11.5倍(25倍)、フランスの4.5倍(12倍)、イギリスの2.0倍(6倍)、ドイツの2.1倍
(6倍)、であるので、特に大都会の住宅はウサギ小屋と言われており、家が狭いのは仕方が無いことだと思います。(カッコ内の倍率は居住可能面積での人口密度の倍率)先進国は、大都会でも、立派な広い公園、散歩道、ジョギングコースを持っているのは、訪問された方々には、周知の事実です。しかし日本には、人口密度の
高さの元である、国土の67%の森林と多くの水の綺麗な川があり、島国故の、また森林の作り出すミネラル豊かな水に支えられた 内海、湾、外洋があります。これからは、これらをフルに活用して、農業、林業、水産業を振興して21世紀の間に、他の先進国の真似のできない、工業、農業、林業、水産業 のバランスのとれた、自然と共生する、環境にやさしい国に再生できると私は考えます。

著者は続けます。
”公的支出は、経常支出(警察、防衛部隊、公的教育、医療サービス、など)、資本支出(道路、鉄道、港を作ったり、公園を提供する、など)、及び 社会保障関係支出(病気や失業の手当て、と老齢者の年金の支払い、など)に分かれる。政府がこれらのことに支出できる額は課税と社会保障への拠出から得られる歳入と借り入れしようとし且つ借り入れできる額によって制限される。1950年以来奇跡の経済成長のおかげで、急速に収入が増えて来たので歳入は急速に増加した。したがってGNPに占める公共支出の割合を増やす為にこの税収の増加は使うことができたであろうが、日本はそれをしなかった。そうではなく、日本は、税率をだんだんと下げて行き、公的支出は比較的に安定して、GNP比20% の少し下に留まった。しかし既に述べた通り、実質GNPは着実に脅威の成長を遂げたので、同じ比率で、公共支出も着実に増加した。インフラストラクチァへの支出が最優先された。空港、道路、水供給設備としてのダム、電気供給、などが公共支出の大部分を占めたのである。新幹線はこの時期の冠たる成果である。他方、社会保障は無視されたのである。
なすべきことが多くあったので、一般的な福利厚生は犠牲となった。国のすべてのエネルギーは経済の再建と近代化に捧げられたのである。日本人自身が、国が個人を保護するには、まだ国は貧しすぎると考えたのである。”
”この卑屈さは、不文律の社会契約であった。税率が低かったので、個人は、貯蓄か労働かで、自身を守ることを期待された。老人といえども仕事はすぐに得られた。産業界は、国際基準でも、素晴らしく効率的で、生産性も高かったが、サービス部門は故意に庇護され非常に非効率であったし今でもそうだ。石油スタンドを見れば良くわかる。(訳者注記:最近はセルフサービスが普及してきたが、前は、2~3人の人が1台の車のサービスをしていた。)産業界に働く人達が、サービス部門の人達に恩恵を分け与えたのである(代替の社会保障)。誰もが国から慈善金をもらうことを望まなかった。”
”1949年のドッジ計画(Dodge Stabilization Plan)によって、歳入で歳出を賄うことを、政府は義務付けらていたのである。1965年までは、政府はこれを守り抜いた。したがって、1965年までは、個人の貯蓄は産業界への投資に回されたのである。日本をして、戦争で砕かれた経済を再建させ西洋に素早く追いつかせたのは、この安価で豊富な資本の供給であった。当時はこの犠牲は充分に価値のあるものに思えたのである。低い税率は高率の貯蓄を意味した。高率で高額の貯蓄が高額の投資をまかない、その投資は、多くの仕事と急速な成長を生み出したのである。”

”1965年が日本の戦後の発展の分水嶺であった。色々の力が経済に変化を強制すべく押し寄せたのである。産業界の、投資への資本の需要は、ついに飽和したので、経済成長は、1965年のリセッションで、鈍化した。ここで過剰貯蓄が発生したのである。ブレーキが外された時、低い利子率と容易な貸し出し枠でも経済に点火できなかったのである。利益と収入は先細りになり、税による歳入は落ち込んだ。歳入=歳出の均衡予算は政府に経費節減か増税か-何れもリセッションを悪化させる行動-の選択を要求した。小さな予算赤字は、それが、名目GDPの成長率より早くない速度で、公共部門の赤字を増やすのであれば、問題は無い。負債の対GDP比率は不変だからである。公的部門の部分に投資する為に借りるのは意義がある。財政赤字は国の物理的資産の増加で釣り合っているからである。全ての公的業務の支出を税から賄うのは、明日の納税者が享受する便宜を今日の納税者が支払うことを意味する。明日の納税者もそのコストのいくらかの部分を担うことを期待されて良い。即ち、負債の利子の形で。”
”投資を現状の税からできることに限定することは、経済を歪める。過剰な個人の貯蓄があるときには、それは厄介な国際収支の黒字を作り出すから、貧弱な社会の厚生福利をなくするために、それを借りることは意味のあることである。”
”多くの議論の後に、政府はこの論理を採用することを決定した。1965年に、国債の発行を禁じた ドッジ計画を 廃棄し、政府は予算の赤字を許されたのである。しかしながら、この借金は、資本支出のみを賄うことに限定した。政府は、その全ての経常支出は、相変わらず、税金から支払わなければならなかった。政府は、
所謂 ”建設国債”として知られたものを発行し始めたのである。次の10年間は、この国債は、各年とも、GDPの0.5%から2%の慎ましやかなものだった。しかしながら、累計の国債発行額は、1965年のGDPの0%から1974年にはGDPの11%になった。政府支出は、予算赤字を通して、過剰な個人の貯蓄を使用して、1970年代の初めまで、急速な成長の継続を可能にした。しかしこの借金は高い公的支出よりはむしろ歳入減少を補ったのであり、貧弱な社会の福利厚生の矯正には、少ししな使用されなかったのである。時代は変化していた。戦後世代の年長者達は、前述の「代替の社会保障」を受け入れた。家族システムは依然強固であった。人々は、国が個人の面倒を見るよりは、お互いに助け合うことを期待した。しかし労働者が田舎から町に移動するにつれて、家族の絆は薄れていった。さらに、日本経済を再建し現代化することに専心して努力した、戦後世代の若年者達は、彼らの努力の報酬を期待した。彼等は、芽生えてきた日本の大都会における公害を含む、生活の貧弱さに抗議した。なかんずく、大都市とその郊外の給料生活者達は、政府からより公正な処遇を要求した。政府与党である自民党はこれらの問題を認識するのが遅かった。その結果として、政府への国民の支持は落ちてきた。その支持率は1958年の58%から1972年には47%に落ちた。地方政府、特に大都市とその郊外、は 社会主義政党の手に落ちた。1970年の初期には、自民党による政治の独占は終わるかに見えた。何かがなされなければならなかった。”

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日本の政治経済的課題 (その13)

2008-01-12 14:25:20 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その13- - -課題1(脱税大国ーその5/5(纏め)))

脱税大国の総括をします。今までに著者は”日本の税法は、Shoup派遣団の作った単純で実際的で優雅で公正な税制から、政治家と官僚の恣意的な改変により、複雑で非実際的で、奇怪で不公正なものになってしまった”と述べています。この本が出版された翌年EU(European Union-欧州連合)が発足し、壮大な、民主主義、市場主義、ネットワークとガバナンスの実験を展開し、その過程で、21世紀の国家や世界が目指すべき方向を示してくれています。1年前にInternetで公表された 大前研一氏の"EUに対抗する日本作り”(http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/68/)の中で、大前氏は今後の日本の税制の目指すべき方向を提言されています。私も大前研一氏の意見に賛成です。大前氏の提言されている税制は、付加価値税(現在の消費税と同じようなもの)と資産税の2本建てであります。
付加価値税は現状の5%で据え置き(GDP(またはGDI)の5%なので現状でも540兆円×0.05=27兆円)、資産税は金融資産(1500兆円)と固定資産(2000兆円)に1%課税され、35兆円あり合計すれば62兆円あり、これだけで現状の国家予算に匹敵する額になります。所得税はEUでは、20%台に落ちてきており(企業の誘致合戦になるので各国とも下げざるを得なくなってきている)将来は零(0)に収斂するだろうというのです。大前氏は道州制の主張者であり、私も賛成です。現在の地方産業の担い手は、殆どが江戸時代の各藩の殖産興業の成果であることを考えれば、各々の道州が自身が決定する方が遠くの連邦政府が画策するより遥かに実際的で有効な施策が出来ると考えます。連邦政府は道州の拠出する予算で(例えば10%の6兆円)で外交と軍備等を行えばよいというものです。

日本の大衆も漸く政治に関心を持ってきており、民主主義がこれから実現出来る体制になってきたと思います。法外の高利の金利がやっと法律で禁止されたので、多重債務者も根絶できる体制になってきました。
次は資産税を徴収する為に、国民総背番号制にして、全ての金融資産をこの背番号が無ければ、開設できなくすることです。この様にして貯金口座と株券や債券の取引口座を管理すれば、脱税できなくなります。
固定資産は、管理は今でも出来ているでしょうから、脱税は出来ないと思います。その次に中小企業の倒産時の生活権の確保を法律で行った上で所得税と消費税を、全ての会社(家族企業を含めて)に適用することです。

著者の述べる日本の脱税の体質は、日本人の宗教性が明治維新によってなくなってしまったことが一番の原因ではないかと考えます。復古神道が明治維新の中心思想となり、西洋文明崇拝と仏教と儒教を廃した体制に問題があったと考えます(廃仏棄釈)。西洋はキリスト教が衰えたりとはいえ、未だ強く庶民にも受け継がれています。日本の政治家や官僚が、法律を恣意的に改悪していった姿は、国会中継で我々は毎日のように見ています。日本の大衆はやっと目覚めたと言うのが現状だと思います。

仏教は宗教というより哲学なのです。もっと学校教育に哲学として教えるべきです。輪廻転生は釈迦の説くところではなく、釈迦の根本思想は因果応報なのです。これは永遠の真理です。この日本の現状を変えるのには、長期間が必要と考えます。明治維新以来140年が経っているのですから。

所得税は脱税し易いですが、消費税(付加価値税)と資産税は上記のようにすれば脱税できなくなります。

しかしながら、この日本人の脱税体質は、地球人としては落第です。このままでは現在の環境問題を到底解決できないでしょう。国際法で、全ての製品はメーカーが回収し、さらに各部品はそれらのメーカーに返却され、高いリサイクル率を法規で定め、違反すれば厳しい罰金を課すようにしなければ、環境問題は解決しないでしょう。公害は矯正されるどころか、深く静かに潜行しているのです。産業廃棄物の廃棄場所で何が起きているか、見てください。山は荒廃し、地下水は汚染され、惨憺たる状態です。したがって物価は上がるでしょう。。先進国では、職業は、後進国の発展で減り、収入は減るでしょう。後進国での車が増えれば、先進国がその分減らさなければならないでしょう。その中で生活していかなければならないのです。こうしなければ、人類は絶滅への道をひた走ることになるでしょう。(海鳴社刊行の粟屋かよ子著 ”破局(人類は生き残れるか)” を参照ください)
釈迦の言う ”山川草木悉有仏性”を体現し、自然との共生を図らなければ、ならないのです。いうなれば、人類が、釈迦の言う ”一切は空”という哲学を理解し実践しなければ、”人類は、 ’考える葦’ であったが故に絶滅した" と1億年後の、考えることの出来る生物に、言われるかもしれません。

少し話がそれましたが、環境問題は本当に大きな問題だと思います。それを思えば、日本人の脱税体質の脱却位は軽々と卒業しなければなりません。
皆様はどの様に考えられるでしょうか。
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日本の政治経済的課題 (その12)

2007-10-25 23:49:45 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その12- - -課題1(脱税大国ーその4/5))

脱税大国の締めくくりに入ります。我々日本人は、1人1人が心して身の回りから脱税をなくす努力をしなければならないと思います。税制を公正なものするように政府に圧力をかけ、見守ると同時に、各人が脱税をなくす努力をしなくてはならないのです。株を購入する時でも、証券会社の人は子供の名前にする様に奨めます。土地を売る時には司法書士は2通の契約書を準備しています。生活の隅々までこの様な状態ではだめだと思います。国の財政を立て直すにはこれしかないのです。日本は破産状態なのです。勿論国会議員や官僚は率先してこの様にしなければならないのは論を待ちません。彼らにはまず税を公正なものする責任があります。政治家は、Primary Balance をいつ達成するか、Manifestに明言しその実現に全精力をつぎ込んで欲しいです。官僚は自身のことよりも、Primary Balanceを達成する為に何をすべきか考えるべきです。国債の償還期限が来て支払いが出来ないと、すぐ国債を発行するような今の状態を何と考えるのですか。そしてメディアも新聞も何故この様なことを報じないのですか。サラ金から金を借りる多重債務者と同じことをしているのですよ。脱税者からはその脱税額の5倍を取るとかして、まず脱税すれば大損をするようにすべきです。国民総背番号制(ID制)にして全ての資産(貯金を含めて)をIDと関連付けにする必要があります。今の国会議員の資産公開など何の意味があるでしょうか。妻子のIDの資産まで公開しないと意味を持たないはずです。所得税の問題に関連して、中小企業の連鎖倒産については、彼らの生活権を確保する最低限の資産確保を法律で確保し、債権者から守る様にしないと先進国とは言えないでしょう。その上で税制も大会社と同じにすべきです。
また農業については、自由化自由化とアメリカは騒ぎますが、彼らの農業は持続可能な農業ではないのです。10,000年かかって土地が蓄えた地下水を50年で使ってしまう様な農業なのです。50年先にはもう農業は出来ない土地になってしまいます。政府はもっとアメリカに糺すべきです。持続可能な農業なら競争しても構いませんがこんな破天荒な農業と自由競争できないと。また夫々の土地には、その気候、風土に合い、その居住者で耕作者でもある人たちが営々として育て上げた作物があるのです。採算だけで作物を選ぶやり方は間違っていると。
今までの著者の言の中に多くの問題点が指摘されています。ここでは政府の税制改革について纏めています。ここで日本政府の導入した消費税については、初めて詳述していますが、それ以外は、今までに著者が述べたことを総括しているだけです。

"政府がその財政赤字をなくすために、歳入を増やす必要が出てきた1970年代末期から、税制改革の圧力は高まってきた。政府は、累進所得税方式には手をつけないで、法人税をさらに上げた。所得、大会社とその従業員に厳しく、消費、経営者、と農民にやさしいという不公平は増大した。したがって、非常に不公正な税システムからさらに歳入を増やすということは、政府にはできなくなった。明らかな解決策は、新しい販売税を課すことであった。その最初の試みは、1970年代の末であった。大平首相は付加価値税を導入する計画を発表した。これは大企業とその従業員を喜ばしたけれども、自由民主党の全ての他の支持者からの怒りを買った。付加価値税そのものは悪いのではなかった。問題なのは、その徴収の過程で,税務官が商店経営者や小規模経営者の真実の収入を発見してしまうことであった。付加価値税はインボイスシステムに基づいて働く。税は製造と販売の各段階とサービスにかけられる。会社は売るときに税を請求し、購入品に対して税を支払う。かれらはその差を政府に支払う。しかしながら彼らが支払った税を取り戻すには、その主張を証明するために購入のインボイスを提出しなければならない。各社は購入する全てのものに適切なインボイスを要求する動機がある。だから各社は販売する全てのものに適切な伝票を出さなければならない。このシステムはそれ自身で機能するのである。ただ最終の消費者だけが税を取り戻すことが出来ず、伝票を要求しない。しかしなお商店経営者は彼が売った物を示す為にインボイスを出さなければならない。付加価値税は会社に適切な帳簿を保管することを強要する。全ての取引について紙の記録が保管されなければならない。これは脱税者がもっとも望まないものである。大平首相は自民党と議会で付加価値税を導入すべく戦った。彼は国民にその可否を問い、総選挙を要求したが、その遊説の中で他界した。この問題は、中曽根首相が税改正を再び提案した1987年まで棚上げされた。中曽根首相の努力も挫折した。三度目の正直で、首相を継いだ竹下氏が1988年に成功したが、それは違った方法で徴収される販売税に付加価値税を変更したから成功したのである。1989年4月に発効した販売税は企業会計に基づいて課税されている。大会社は、所得税の為に準備するのと同じ、彼らの会計 に基づいて販売税を算定される。彼等は彼らが徴収する販売税を1年に2度に分けて支払うから、この税システムから利する。その間に税を使えるからである。年売上高5億円未満の会社は、彼らの売り上げの80%に相当する購入品に販売税を支払ったと仮定され、残りの20%に対して3%の税を支払う。年売上高3000万円以下の会社は販売税を免除されているが顧客からは販売税をとっている。1988年の税改正は個人所得税も大幅にカットした。累進課税率のクラスの数は10%~50%の5の段階に減らされた。地方税率のクラスの数も減らされた。税の控除も単純化され増やされた。被雇用者の税負担も減らされたが、インフレ分を償うだけであった。法人税は1990年から後37.5%に減らされることになった。しかし1991年度は湾岸戦争の寄付の為に法人税カットはその分戻された。1980年代に税を改正するために大きな政治的な戦いがあったにもかかわらず、泰山鳴動して鼠一匹であった。全体としての税システムは変わっていない。販売税が徴収した追加的な歳入も、物品税の撤廃や他の間接税の削減により失われた分を補ったに過ぎない。1988年は、税の歳入の36%は個人所得税からであった。法人税から35%、消費税からは25%であった。1991年は、個人所得税から41%、法人税から31%、消費税から24%であった。新しい税も脱税を少しも減らすことにはならなかった。それどころか、それは、一般大衆を犠牲にして、経営者、商店経営者、個人営業者に更なる利益をもたらした。怪物の所得税システムは手付かずのままである。マル郵システムの撤廃は、郵便貯金者の匿名性を温存するように細工された。同様に、株式市場からのキャピタルゲインは投機家達の匿名性を温存した。農家は引き続き特別の税の優遇をうけている。より多くの土地を開発の為に解き放つことを奨励するようなこともしなかった。脱税を防ぐ手立てもなんらなされなかった。1980年代の初めと比較しても、歳入を増やす手立ては何らなされていない。1989年以降税改正の圧力は減ってしまった。好調な経済による多額の税からの歳入が予算を健全な黒字に押しやった。高い税率から追加的な税の歳入を増やす必要は外見上は消えた。しかし、国際収支と同じく、バブル経済は税の問題を直すよりも不透明にした。経済が減速するにつれ、税によるさ歳入は減り、税改正の必要が再び襲ってくるであろう。政治的な闘争はすぐに再開され、今まで以上に、血なまぐさいものになるであろう。”と。
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日本の政治経済的課題 (その11)

2007-10-25 23:47:33 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その11- - -課題1(脱税大国ーその3/5))

著者は続けます。

”Shoup教授は、死亡時の贈与と遺産に関しての税金を導入した。その年の贈与と遺産に関する税金は、納税者が前年にいくら受け取ったかによっていた。日本人はこの考え方を捨ててしまい、日本人しか考えられないようなを怪物を作り出した。非の打ち所の無い論理で、間違った仮定から馬鹿げた結論に行ってしまった。彼らの論理に従えば、遺産に関する税は受け取る人の富によって決まるというのである。富裕な人ほど多く払うべきだというのである。結局 ’お父さん’ のお金はその一番貧しい家族に行くべきであると家族が同意し、税金が払われてから、それを分かち合うということになってしまった。1958年に導入された現在の方法はこのずるい方法を回避する為に考え出された。人が亡くなれば、彼の資産は、生きている彼の親族に分割される。全ての親族は、親族の数と故人との親密さによって変わるが、法律によって決められた分け前にあずかる。それぞれの遺産を受け取る人によって払われる税金は、累進的に計算される。遺産に関して支払われるべき税金は個々の税金の総和である。この計算によって出てきた平均の税率が、誰であろうと、どんなに多く受け取ろうとも、実際の受益者に適用される。贈与に関しては、受け取った人が払う。贈与税は一年間に受け取った額に関する年額の税金である。死の3年以内の贈与は死者の遺産の一部と計算される。公的事務所を持っている政治家への贈与は、彼がそれを私的なお金として、保管しても税を免除される。贈与税は何ら問題を提起していない。税徴収官の知る限りでは、日本人は吝嗇な国民である。実際はそうではない。しかし現金は容易に隠されるから、贈与税は簡単に回避できる。相続税はまた別問題である。人が死んだ時に残される富の大部分は、不動産である。株券や現金と違って、所有権は容易に隠されない。1980年代の末の様に、土地や家の価格が高騰している時には、全く普通の人でも大資産を残すことができる。東京や大阪の近くでは、小さな家でも2億5千万円に評価されるのが普通である。東京の小さな水田- -たくさんあるが- -も同じように高価に評価される。遺言検証の為に、家については、公開市場の50%下の価格で評価されるという救助策がとられた。しかしながら相続税は支払わなければ、罰せられるし、大抵の人にとっては不可避である。さらにそれは6ヶ月以内に支払われなければならない。大富豪のみが相続税を支払わずに済む。自分の証券に関して多額のローンが有るようにしてあの手この手で相続税を逃れるのである。彼らは会社の帳簿をいじくるのである。このような選択肢は通常の俸給生活者にはない。彼等は財産を売って、死んだ時に遺産を残さない様にする。しかし、土地や建物のキャピタルゲインは税金を支払わなければならない。10年以上保有された財産の様な長期にわたるキャピタルゲインは税金が比較的に安い。一方短期的なキャピタルゲインは、最低52% または 累進課税の最高税率の110%のいづれか高い方で課税される。1989年の税改正も、控除を2倍にしたけれども、相続税を軽くすることに少ししか役立ってはいない。しかし同時に遺言検証の評価は市場価格の70%に上げられた。1979年と1989年の間に死者が残した不動産の価格は5倍になった。相続税を免れるのは困難であるけれども、誰もがそうしようと最善を尽くす。1989年に監査された11,247件のうち、98.6%が不正をしていた。85歳で亡くなった東京の弁護士の遺族は、6億2千3百万の脱税で逮捕された。多くの証券と貯金通帳が、遺族の夫々の箪笥の中に、金と白金が遺族の1人の経営する病院の中で、発見されたのである。”と。

”Shoupの付加価値税は導入されなかった- -商店経営者が反対したのである。地方政府の所得税がそれに替わった。しかしながら、1980年代後半には、間接税は、日本の歳入の約1/4であった。消費税は、日本の政治家と官僚の大好きな複雑さ、厳しさ、及び 行き当たりばったりの出来事的な支離滅裂さ という特徴を持っている。物品税は、ただ分類するだけでも2ページに亘る項目のリストの基づいて、メーカー あるいは 小売業者 の売値のパーセンテージとして課税された。 リストは明らかな奢侈品を含んでいた- -毛皮のコート、宝石、自家用車、モーターボート、及び ヨット。 また、家庭用冷蔵庫、空調器、机上ランプ、テレビ、ラジオ、カーペット、家具、置時計、腕時計、洗濯機、ハンググライダ、化粧品、ソフトドリンク、コーヒー、ココア、お茶も含んでいた。ゴルフボールは課税された。テニスボールは課税無し。ウォータースキーは課税された。雪上スキーは課税されなかった。税率は5~30%であった。通常の物品税はアルコール飲料、タバコ、石油、及び乗用車の登録料金、の消費税も含んでいた。しかしまた砂糖、トランプや花札、劇場チケット、パチンコ機械、ホテルのルーム使用と食事、公衆浴場での入浴にも特別な税金があった。これらの税金、カテゴリ、及び税率の支離滅裂ぶりは政治家が製造の関係者のグループに有利に計らい、あるいは輸入を制限し国内製品を優遇するために詳細が調整されたということを物語っている。前者の一例が1986年に明るみに出た。すなわち、2人の国会議員が、一人は5百万円、もう一人は2百万円 の賄賂を 撚糸機協会から取ったとして起訴されたのである。問題は、この2人の国会議員が通産省の官吏に賄賂を渡し撚糸機協会に有利な計らいをするように頼んだのだった。官僚は少なくとも、官吏である間は、不正をしてはならないと考えられている。この2名は元通産省の官吏であった。このうちの1名は撚糸機協会の会長であった。”
”日本では脱税をしても社会的に汚名を負うことはない。多くの日本人が悩むのは、自分は他人よりその機会が少ないということである。大会社とその従業員は脱税の出来るものを殆ど持たない。従業員は給料から税金を源泉徴収される。大会社は適切な帳簿を保持しなければならない。こうした従業員は彼らの所得の90%を申告していると思われる。医師、弁護士、小企業の経営者、芸術家、音楽家、のような人達は彼らの所得の60%を申告しており、農業従事者は40%を申告していると考えられている。これらの数字、90-60-40は、広く引用されており、”クロヨン”として日本人のよく知るところである。脱税者を逮捕すべく真剣な努力がされている。1988年度に、国税庁は168,962件の脱税ケースを追跡したが、その結果は、7240億円、1件あたり平均4,500,000円、の収入の過少申告であった。これはサラリーマンのその年の平均収入3,700,000円を超えていた。脱税の悪玉リストのトップに座っているのは、パチンコ店経営者であった。平均3,800万円の収入の過少申告であった。多くのパチンコ店経営者はその地域のヤクザであり、その地域の政治家と密接な関係を持っていた。二番目に座るのは病院であり、開業医と産婦人科医は夫々14番目、15番目であった。葬儀屋は6番目、バーの経営者は8番目であった。不動産業者、サラ金、魚の仲買人、ラブホテル経営者、は 夫々に13位までに名を連ねている。逮捕されれば、逃れることは殆ど出来ない。1987年と1988年度では95%が起訴され有罪になった。しかし容易い逃げ口がある。国税庁に疑われていると気づけば、申告が誤っていたと認め、訂正し、それに基づいて税金を払う手である。慣例的に、このような支払いがなされた場合は、さらに追及されることはなかった。これを利用して、1991年に日本の4大証券会社は大口の顧客に、彼らの証券取引での損失を弁償しようとした。彼等はこの損失を営業経費として課税所得からそれを控除したのである。この場合は、国税当局が彼らの知っていることをメディアに流し、証券スキャンダルにしたのである。”と。
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日本の政治経済的課題 (その10)

2007-09-30 21:18:41 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その10- - -課題1(脱税大国ーその2/5))

丁度運の悪いタイミングで、日本の脱税大国の縮図が、最も象徴的に出てきました。皆様の多くの方が、ご存知かと思いますが、立花隆氏のインターネット記事の "メディア ソシオ-ポリティクス(http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/)" の第116回(政界を大混乱に巻き込んだ阿部首相電撃辞任の真相) 及び 第117回(週間現代が暴いた”阿部スキャンダル”の真相) に出ています。 政治家は殆どの人が同じ穴の狢だと思います。庶民より遥かに多額の脱税をしていると思います。庶民の目が厳しくなり、徐々に隠せなくなってきたと言うのが現実だと思います。早く法律を公正で簡単にしていく一方で、脱税には厳罰(脱税額の5倍以上)を課し、日本の隅々から脱税を排除し、税収を増やし、道州制を採用し、トータルとして、今より遥かに小さな政府にして、中央、地方の政府の出費を減らし、Primary Balance(税収で国政と地方政治を賄う)を達成して、国債を減らして行かなくてはなりません。それでもPrimary Balanceが達成出来ない場合は、消費税値上げも止むを得ないと思いますが、消費税値上げは最後にすべきです。前書きはこの位にして脱税大国(2/4)に進みます。著者は続けます。

”1988年迄、所得税システムは、利子収入を優遇して、貯金の奨励策を含んでいた。納税者は、既に述べたように(日本の政治経済的課題 (その9)で既述)、35%の分離課税を利子収入に関して支払う選択が出来た。しかし一銭も支払わずにすむ方法があった。これが ’マル優システム' であり、小額の貯金に関して税を免除するものであった。各人は、利子に税金を払うことなく、任意の銀行で300万円まで貯金できた。
また、郵便貯金を1口座、利子に税金を払うことなく、300万円まで貯金を持てた。彼はまた自身が働く会社の株を購入するべく500万円まで基金として会社に貯金し得た。そして自身の家を購入するべく、利子に無税で500,000円の郵便貯金を持ち得た。合計すれば、11,500,000円の、利子に無税の、貯金が持てたのである。これが ’マル優システム' で、郵便貯金は1口座、300万円まで貯金を持てたので、その利子を報告する義務は無い。法規制は、'一人の国民は無税の郵便貯金を1口座で300万円までの貯金を持つことが出来る' というものであったが、それを実施する方法がなかった。印鑑と偽名で多くの郵便局の支店で一つづつ口座を持てた。誰も貯金者の身元をチェックしなかった。各郵便局支店は個々に経理処理をしたので、都会では、貯金者は大胆に自身の名前を使って、貯金している多くの支店で  ’マル優システム' の私の唯一の口座ですと言って、多くの利子に無税の ’マル優システム'  の口座を持っても、通用したであろう。何故なら都会の人たちは ’隣は何をする人ぞ’ で少し離れたところでは人も名前も判らないからである。1987年日本には23,673の郵便局が有り、そのうちの20,000の郵便局が銀行と同じ業務を行っていた。日本の郵便局の貯金システムは世界の中でも最大の、300兆円の貯金を持つ '銀行' である。日本の最大の銀行である第1勧業銀行は425の支店を持っている。郵便局の貯金システムは日本の全ての地方銀行を全部合計したよりも、多くの支店と貯金額を持っている。それは13の都市銀行を合計したのと同じ額の個人貯金を持っている。’法律では誰も2つ以上の’マル優システム' の利子に無税の口座を持ってはならない’ となっているのに、日本の人口の124,000,000人(しかも口座を持つ資格のある成人はそのうちいくらであろうか)が、400,000,000の’’マル優システム' の利子に無税の口座があったのである。この様に1人が多くの’マル優システム' の口座を持ったのは、貯金による利子への税を避けるために、使用されたと考えるのは間違いである。郵便貯金は利子が安かったので、貯金を一つに纏めて大銀行に預けて、利子を貰い税金を払った方が、利子に税を払わない多くの’マル優システム' の口座を持つよりも、得なのであった。利子に税を払わない多くの ’マル優システム' の口座を持つ主たる理由は公表出来ない収入を蓄え隠す為である。大蔵省(現在は財務省)は人々に税金を払わせるのに関心をもつ唯一の省である。しかしその努力はしばしば妨害される。郵便システムは郵政大臣の管轄下にあり、大蔵省から独立している。日本では大臣といえども、自身の省の仕事でも、他の大臣にこうせよと言うことは出来ない。首相ですら法律を作り出すことは出来ない。1982年大蔵省の管轄下の国税庁が貯金の口座所有者を調査すると提案したが、郵政大臣がその様な情報を郵便局が開陳するのは違法であると言い、国税庁の提案を妨害した。妨害を受けた国税庁は、引き続いて貯金者の身元を確認すべくグリーンカードを発行し貯金をする時はいつもそれを使うことを提案した。貯金はグリーンカードに基づいて確認しようというのである。この提案も妨害された。最近では、大蔵省の税務委員会が証券取引を含む全ての金銭取引の口座において身元番号を使うことを提案した。各口座は氏名と住所の両方で身元確認をするという提案である。この提案も実現しそうにない。 この ’マル優システム' は1988年に廃止になり、その代わりに、郵便貯金口座からの利子には、20%の源泉徴収税がかけられる様になった。ただし源泉徴収は貯金者の匿名性を維持しているので、郵便貯金は依然として脱税の安全な隠し場所となっている。
大抵の政治家は脱税に関して良く精通し、関心も深い。郵便貯金システムによって徴収された基金は政府の公共工事の為の安い融資となる。大臣達は誰がそれを受けるか決定する。約18,000の地方郵便局長の仕事は父から子供に引き継がれて行き、多くは1870年代から続いている。これらの郵便局長はその地域の権力を持つ個人であり自由民主党の政治家と密接な関連を持っている。多くの国会議員は ’郵政族’に属し、郵便局の利益をライバルの利益から守り、その見返りに多くの献身的な努力を得ている。結局、郵便局長は、誰が多くの違った口座にお金を塩漬けにしているということを良く知っている。郵便局長達は、議員たちの保護に対して公正な見返りとして、彼らの国会議員の友達の為に政治的に献身してくれると期待出来るのである。また彼らは選挙の時には、選挙民に投票を勧誘してくれるのである。” と。

”Shoup教授は裕福な経営者からの反対にも拘らず富裕税を提案した。SCAPが去った後、この富裕税は廃止された。キャピタル・ゲインは収入でありそれ故に課税される。しかし貯金者を励まして貯金させ産業界に安い融資を提供する為に、株式市場の証券取引に関するキャピタル・ゲインを日本は例外として扱った。課税されるのは、1年間に30の株取引をする人、あるいは会社株120,000株以上を売った人だけが課税された。このキャピタル・ゲイン税は1989年まで実効があったが事実上殆ど実績を上げられなかった。毎年このキャピタル・ゲイン税を申告したのは100名以下の人であった。これは驚くには当たらない。日本の法律では、名義株主が代理をしている本人の名を明らかにすることを義務付けてはいない。顧客が要求通りに払ってくれれば、顧客が誰であろうと、stock-broker(証券会社)には構わないのである。取引き口座を開くのに、いくら多くの偽名を使っても構わないのである。日本人は氏名と住所と辿られるのではなく、誰が誰を知っている というネットワークを通して辿られるのである。大きなstock-broker(証券会社)は金持ちの重要な顧客を助けて、その多くの支店で多数の取引口座を設けさせていたのである。株式市場でのキャピタル・ゲインに効果的に課税することが出来ないから、人々は配当をつぎ込んすぐ同一株を買い増す。配当は源泉徴収され、税金が高いので、そうする方が得であり、また会社も成長が早く、会社の株も早く値上がりする。それが株主に帰ってくるのである。これが他よりも東京証券取引所の株価の(price/earning) ratio ((株価/1株当たりの会社の利益)の比率)が高い一因である。アメリカやイギリスでは稼ぎの80%もの配当を払う会社があるのに日本では慣例的に利益の25~30%の配当である。個人にとっては配当を使いたいという誘惑よりキャピタル・ゲインの早い株にしがみ付きたいという誘惑の方が大きいのである。キャピタル・ゲインの脱税で逮捕された例は少ししかない。1988年のある日本の経済雑誌の観察によれば、’1987年度の株取引に関する脱税の件数は前年の3件から23件に増えた’ という記事が出ている。その中で、ある実業家の起訴の例が論じられており、それによると、彼は1983~1986年の間に27億円のキャピタル・ゲインの申告をしなかったというのである。彼は31の証券会社に404の取引口座を持っていた。彼の逮捕は1988年の初めであり、リクルート・コスモスの事件の2~3ヶ月前であったが、もしリクルート・コスモスの事件がなかったなら大きな事件として世間を騒がせたであろう。政治家達は、彼らは屡、受益者であったから、株の取引に関してのキャピタル・ゲインの税を真剣に施行しなかった。違法なキャピタル・ゲインは彼らにとって重要な基金であった。1989年の税改正の一部として、証券取引からの申告されたキャピタル・ゲインは26%の税を受けることになった。しかし納税者は彼が売った株の総額に1%の源泉徴収税を払う選択権が与えられた。キャピタル・ゲインが4%以上ならばこのほうが税額が少ないので、大抵の人は後者を選ぶだろう。重要なのは、後者は株取引をしていることを税徴収の当局に知られずに済むのである。政治的な腐敗のに必要な匿名性が維持されたのである。したがって、この税の改正も人々が不正蓄財をするのを減らすことはなかった。"

”Shoup教授の法人に対する税システムは単純であった。法人の種類や大きさに拘らず、最大35%の税が各会社の純利益に課せられた。会社は課税所得から資本財の正常な償却費を控除できた。土地や其の他の資産は周期的に再評価されその価値が上がった場合には、キャピタル・ゲインに対して税を課された。これは当然のことであったが、日本の当局者は経済の発展を制御する為に便利な税制を望んだ。SCAPが帰ってすぐ彼らは一般の税率を42%に上げた。内部留保よりは配当には低い分割税率であった。1980年代後半には実質税率は53%であった。高い税率が全ての会社に適用されたのではない。小さな会社は低い率であった。1953年~1960年代の半ばまで、石油化学の製造と輸出からの収入は税を免除された。大きな控除は、投資を刺激した。予算を特別な基金、例えば、将来のボーナスの支払い、リスキーな行動、不良債権、返品での損失、価格変動、日照りなどの為に使えば、それらは、課税所得から控除出来た。これらの無税の準備金は会社が直接に貯めることを奨励した。1970年初頭には、特別の控除が税収を10%減らした。また土地と其の他の資産の再評価は中止された。

会社は土地を売り、キャピタル・ゲインを実現した時にキャピタル・ゲイン税を払う。しかしながら、株は、現在所有している株を取引した場合は、常に再評価される。このような処理はその古い保有株に新しい価格を確立するが、この問題は、会社のために株を保有する特別な ’特金’ ファンドを使うことによって骨抜きにされた。このシステムの効果は莫大な広さの未使用の土地を棚上げにする結果となった。これも日本の株式の
(price/earning) ratioを上げる一因になっている。1970年代の半ばまで、これらの特別の救助策とともに法人税も徐々に下げられていった。その故に大会社への税負担は減った。しかし第1次オイルショックに見舞われ国家予算が実質赤字に陥った時には、会社は政府の最も容易な目標となった。法人税は上げられ多くの救助策は廃止されるか減らされた。多くの雑多な救助策や控除の全てが廃止されてしまった訳ではない。省エネルギー、公害対策、と開発を支援する為に特別な対策は残された。1987年までに特別な処置の為の損失計上、控除や税の優遇処置は半分になり税収の5%になってしまった。会社が蓄えをする元手がなくなったわけではないが、減ってしまった。”と。
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日本の政治経済的課題 (その9)

2007-09-17 01:38:55 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その9- - -課題1(脱税大国 - その1/5))

著者の精細な研究は前回の1990年で終っていますが、最後に述べている日本の資産インフレの評価はかなり甘かったようです。当時の日本の資産の高値ぶりは、土地だけを見ても、現在の2倍近く(29,000円/坪)、アメリカの100倍でした。従って日本全土を売れば、アメリカが4個買えるという異常振りでした。こんな状況が続くわけはなく、皆様もご存知のように、この間に湯水のように貸し付けた銀行は、多額の不良貸付を持つ結果になり、同時進行していた製造業の空洞化や、デフレ経済の下で、その収拾に15年を要したのでした。その間、株式は低迷し、日経株価指数は2003年には7,600円にまで落ち込みました。 国債残高は166兆円(1990年末)から499兆円(2005年末)に増え,政府が国債を乱発して事態収拾にあたった様を物語っています。この資産インフレに警鐘を鳴らした人は、政界、財界、学会、マスメディアにもいなかったと思います。影で儲けた人は、冷静に事態を観察しながら、黙って儲けを増やすことに専念したのかもしれません。著者の言う、前回の最後のところで触れました ”全てを持つ1/3の日本人” のことです。実際の”全てを持つ日本人”は遥かに少ないと思いますが。

前回までの8回で、著者の日本歴史の政治経済的な概説と1945年~1990年末までの日本の政治経済情勢の時局の詳細な分析を見てきましたが、世界各国が相互に密接に絡み合った現在の政治経済的な情勢がよくわかります。アメリカは豊かな資源と、独創的な人々に支えられ豊かな国民所得の基に世界をリードしていますが、政治的には、嘗ての独立当時のような優れた政治家が姿を消し、豊かな財源を浪費、迷走している様子がよく見えました。自由競争とGlobalizationの理念のもとに世界をリードしていますが、多くの問題を起こしています。ヨーロッパは、自由を庶民が支配階級から勝ち取った過去の豊かな歴史を持ち、また絶えざる抗争の中で多くの激しい戦争を経験した苦い経験を生かすべく、戦争をなくするという目標に向かって、Robert Schumanの唱えた、United States of Europe、を達成するべく着々と目標に向かっています。壮大な夢に向かって進むヨーロッパ連合(European Union)は、2007年で加盟国は27ヵ国に達し、将来の地球国家への夢を感じさせる道を歩んでおり(キリスト教という共通の宗教を持っている優利な点は有りますが)、日本もヨーロッパ連合を参考にして、アジアでの政治的経済的な統合の試みをリードするような役割をして欲しいと思います。しかしながら、国家としてはまだまだ多くの問題点を持ち、それをまず修正しなければならないと思います。国と地方の債務は約810兆円(国債残高547兆円地方債263兆円)、これは日本の国民所得(GDPまたはGDI)540兆円の150%に相当します(ビジネス社発行の森木亮氏著の”日本は破産する”から)。これはECに加盟できる条件の2.5倍の国の借金です(ECに加盟する為には、国債残額は国民所得の60%以内でなければならない)。もう破産寸前の状態の様です。このような多額の借金をどうして返済できるのでしょうか?金利が5%(これが正常な利子率です)ならば、税収がすべて、利子で消えてしまうのですから。

今回は著者の述べる日本の最大の問題点- -脱税大国- -について考えて見ます。これは1990年までの記述ですからその後の改革で少しは修正されてはいると思いますが、未だ大部分は変わっていないと思います。(私は門外漢ですからその後の改革については、残念ですが言及する力がありません。ご了承下さい。)
著者は言います

”1949年4月、Carl A. Shoup教授の率いる7人のアメリカ人が、崩壊の瀬戸際にあった日本の古い税制を調査すべく日本を訪れた。同年8月に提出されたShoup Mission の報告書はそれ以後の日本の税制の基礎となった。アメリカ人はボストンティーパーティ以来 間接税を嫌ってきた。したがってShoup派遣団の提案が、税収の大部分が 消費よりは収入と利益に対する税から来る様に計画したのは少しも驚くには当たらない。納税者の所得が高ければ高いほど税率が高くなる、累進的所得税システムは、一般的に、低所得の納税者に最も重くなる、間接税よりもより公正であると見られている。しかし累進的所得税システムは、消費に対する税に
比較して2つの欠点がある。消費税をとる店の数以上に課税すべき所得を持つ人の方が多い、ということと、取引がその取引の航跡として記録やしるしを残すところで、あるいは納税者が信じがたいほど正直である、ところでのみ所得税は有効である、という2点である。現金が殆どの取引で使用される日本では、これらの2点は利かないのである。また日本人は信じがたいほど正直でもなかった。Shoup派遣団に公正を期すれば、彼らは現在大抵のヨーロッパの国で行われている付加価値税と同じ線上の付加価値税も提案した。これは地方政府の費用を賄う為に指示された。Shoup提案の残りの部分は幅広いベースの中立的なシステムであり、そこでは税
率は低く免除は少なく小額であった。結論としてShoup派遣団は1980年代のイギリス、アメリカ、ニュージーランド、や世界各地の供給側の改革者達が理想としていた種類の税制を日本に与えたのである。全てのShoupの提案はSCAP(Supreme Commander of Allied Powers)に受け入れられ、日本政府によって1950年に制定された(付加価値税は延期されたが)。Shoup派遣団が作り出し、SCAPが日本に課した税システムは革命的であった。アジアの国で現代的な税制を持っている国は無かった。未だ嘗てこれだけの多額の課税が消費にではなく収入に課されたことはなかった。これだけ多くの人々が直接に政府に対して税を払うことを期待されたことは嘗て無かった。中国式の文字システムと現金を使うアジアの国で税の責務を決めるのに、書かれた記録にこんなにも頼る税制を持った国は嘗て無かった。SCAPは1952年に去った。彼らが去るや否や、日本人は税制をいじくり始めた。Shoup派遣団の提案した素晴らしい税制は、日本の政治家達の目的に合うように歪められた。
すなわち、政治家達は彼らの支持者の為に、多くの、各種の救助策や控除を提供して、愛顧を買った。
官僚は活動を規制し彼らが選んだ線に沿って産業発展を制御する為に税をいじくった。
Shoup派遣団は5ヶ月かけて単純で、実際的で、優雅で、公正な税システムを日本に与えた。それ以来日本人は数百万のman-hourをつぎ込んで、その税制を、複雑で、非実際的で、奇怪で不公正なものにしてしまった。その混乱を解きほぐす作業はやっと始まったばかりだ。” と。

勿論1950年から1970年にかけての脅威の成長はこれらの政治家や官僚の税制をいじくったことによって達成されたという面は確かにあると思いますが、これからこの歪をなおして、単純で実際的で公正なものにして行かねばなりません。
著者は続けます。

”Shoupの単純な税制は虐殺された。彼のシステムは、全ての収入源から全ての収入を、キャピタル・ゲインも含めて、加算して、単純な個人的な控除を控除して、残った額に対して、2,3の段階の累進率にし一番上の率もそんなに高くならない様にして、課税するのであった。日本人はこれを、収入の種類 と 国、県、市の段階によって、16の異なるシステムにしてしまった.通常の収入は、雇用所得、年金、営業収入、利子と配当、キャピタルゲイン、木材産出による収入、ギャンブルから得た収入、等の10の異なった種類に分割された。 それぞれの収入は、それぞれの控除を受ける。営業費用は各タイプの収入別に定義されている。課税所得は各
タイプの収入別にそれぞれの控除を差し引いて別々に計算される。個々の課税対象収入は合計されて課税対象額となり、個人的な控除が差し引かれ、累進課税率が適用される。1989年までは、所得の段階は15段階あり、これに対して累進的税率が10.5%から70%まで上がっていく。この計算が中央政府に対する所得税責務である。同じ所得が県税と市税を受ける。県税は2%、3%、4%の率である。市の所得税は7段階で3%~12%である。段階や控除は、中央政府、県、市とそれぞれ異なる。3つのタイプの収入はこのシステムには統合されない。すなわち、賞金やギャンブル、退職金、材木収入である。各々は別々の税処遇を受ける。
例えば木材収入は、収入の1/10に対して累進的税率をかける。その税額を5倍にしたものが合計税額である。。
納税者は利子と配当は通常の課税所得から外す選択が出来る。この場合は35%の一律税率であり、累進税率の高い高額所得者に有利である。日本の税単位は、配当収入を除いて、個人であって、家族、言い換えれば世帯ではない。上述のような税制の為に、納税者は収入を、自身から、家族構成員に、1つのカテゴリーから他のカテゴリーへ、とシフトして控除を最大限にし、税率を最小化する。営業収入から控除する項目ごとの費用の控除は特に寛大である。それと対照的に雇用収入に対しては、少しの低い標準の控除しか許されていない。一方雇用収入が営業収入に転換出来る会社のステータスは容易に取得できる。有限会社は10,000円の払い込み資本で設立できる。組合や無限責任会社は払い込み資本無しで設立できる。その結果全ての小さな店の経営者、専門職の人、自身を雇っている人は、このような会社を設立している。それによって彼らは寛大な営業支出を控除する事が出来るだけでなく自身と、妻と、他の家族構成員に雇用収入を支払うことが出来るのである。そして彼らは彼らの収入のそれぞれに標準の控除を得るのである。最後に家族の収入の各々に累進税率が適用されるのである。その結果は、当たり前なのだが営業費用は莫大になりえる。巧くやれば、小さな会社は一銭も会社として税金を払わなくて済むのである。1985年には、日本の半分以上の会社が赤字であった。”と。
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日本の政治経済的課題 (その8)

2007-08-16 12:47:22 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その8- - -1980年代(その3))
この本(JAPAN,THE COMING COLLAPSE)は1991年2月6日に序文が書かれていますので、1990年末までの日本を精細に研究したものです。しかし発刊されたのは1992年なので、1991年度も一部言及されています。従って精細な分析の部分は今回で終わりになります。しかしながら更に日本の問題点を厳しく追及するのに、300ページの中の180ページを割いていますので、この関連Blogは、更に10回位は続ける積りです。
著者は続けます。
”政府借入金は(前回の末尾参照)、それに基づいて銀行が信用枠(借り手の限度額)を膨張させることの出来るベースを提供する。1887年のドルを支えるべく行ったG5の中央銀行の公的な為替市場への介入がヨーロッパと日本の通貨供給量を大幅にに増やしたのである(日本では、1987年2月から1990年初めまで従来よりも、年率2%アップのmonetary supply growthを維持した(即ち従来の年率8%増加から年率10%増加を、この約3年間の期間、キープした))。それはアメリカ人に彼らの問題を是正するよりも無視する余裕を与えた。もしドルの下落が、それ以上に続いていたら、彼等は 利子率を上げるか、その予算赤字にもっと早く取り組まざるを得なかったであろう。その結果は悲劇的であった。株式市場の株価と資産価格は1980年代初めから上がり続けていた。1986年の終わりには、市場は適正な価格であった。しかし1987年の通貨過剰が投機に火をつけたのである。株式市場はブームに乗り、資産価格は高騰した。1886年12月から1987年8月の間にウオール・ストリートの株価は、1991年まで上がることのないピークである、43%上がった。東京市場は、1987年10月までに42%上った。1986年の底値からの反動で値上がりした石油価格に弾みをつけられ、インフレは加速し始めた。1987年初秋までには、各国の中央銀行は心配し始めていた。ドイツ連邦銀行に先導され、彼らは投機過剰を抑えるために利子率を上げた。アメリカ連邦準備制度理事会も余儀なく後を追った。国債市場は暴落し、国債の売り上げは上った。アメリカの長期国債の利益と過大評価された株価での利益とのギャップは広がった。投資家は恐れ1987年10月19日、バブルは弾けた。ウオール・ストリートは暴落し、その影響下で、世界の残りの市場を下方へ引きずって行った。東京市場は1日で15%下落した。この1987年の株価暴落に日本の果たした役割には、大いに興味がある。それは、現在、世界の資本市場の間に存在する密接な相互関連を実証している。1986年のサミットで、日本は巨大な貿易黒字を出し国際経済を混乱させているとして各国から非難された。1987年ベニスでのサミットで更なる非難を受けないように、日本政府は、GDPの2%アップに相当する、6兆円の公共投資と減税のパッケージを発表した。日本はなお予算赤字の削減と戦っていた。幸運にも、公共投資を削減し予算を均衡させる対策の婉曲語であった、所謂、 ’行政改革’ の一部として、日本はNTTの民営化に乗り出していた。その故に、このリフレーションのパッケージのコストはNTT株の第2回目の販売で取り戻されることが出来たであろう。第1回目の1,950,000株は1987年2月に販売された。提示価格は1株1,200,000円(8,000ドル強)であり、それは会社のP/E Ratioで計算した株価の130倍であった。東京市場の株価の平均のP/E Ratioは34であったので、NTT株は、極めて過大に値付けされていると見られた。しかしながら、8百万人の日本人が、2兆3,400億円を支払う約束をすることになる、応募をしたのである。この株を買うべく奔走した、日本の主婦達、と大抵の大会社の投資家達は、そうするのが愛国的だと感じたのである。彼らはまたその株価は値上がりすると見込んでいた。もしNTT株が直ちに割増金を生むまでに上らなかったら、大蔵省と大手のブローカは大いに面目を失墜したであろう。株値は急騰した。1987年4月には株価は1株3,200,000円で取引された。一階で、それらを入手出来た人たち、即ち株のブローカの人たちの常連客にとっては、2ヶ月で160%の儲けであった。この価格では、NTT全体で3400億ドルになった。それは、ドイツの会社の何れの株よりも、ブラジル、メキシコ、とアルゼンチンの合計対外債務よりも、オーストラリア、ニュージーランド、ポルトガルとギリシアの合計のGNPの年額よりも、多額であった。第2回目のNTT株の販売は、1987年11月9日に予定されていた。その発行価格は1株2,550,000円(18,000ドル)であった。その購入の為に準備すべき現金の額は、5兆7000億円、350億ドル、であり、日本政府の全ての7月の会計予算の殆どをカバーするに十分な額であった。10月日本の投資家達は、現金を引き出して箪笥に入れるべく奔走した。ドルは不安定に見えた。そこで現金を作る最良の方法は、アメリカからお金を日本に持ち帰ることであった。かくしてこの株価暴落が起こったのである。現在の(1990年当時)財務長官のNicholas Brady氏、は当時、ニューヨーク投資銀行、Dillion、Reed & Co.の会長であった。彼はレーガン大統領に、調査団を率い、この株式市場の崩壊を調べ、何がその原因であるかを調べるように依頼された。1988年4月、年金のファンド・マネージャの会議で彼は次の様に語った。

’人々は、”一体10月19日に株式市場を崩壊させたのは何か- -アメリカの双子の赤字か、ロステンコフスキーの税金の立法か、そのどちらか。”と私に尋ねる。引き金は、それらのうちの何れでもない。実際の引き金は、日本人が、彼ら自身の理由から入ってきて、莫大な額のアメリカ国債を売り、その結果、30年満期の国債の金利が上がった。それが10%になったとき、人々は”株で得られるリターンの4倍だ。またインフレになる。”と感じた。私には、10月19日を起こさせたのはこれだと思う。即ち 日本人がドルに対して持った心配 が その原因である’と。

確かに日本人が引き金を引いたけれども、彼等は銃に弾丸を込めていなかった。1987年10月の株式市場の崩落は、ドルを支えるべく、5カ国の中央銀行が、市場に介入した直接の帰結である。その厳しさが人々の1929年の記憶を呼び起こした。人々はそれが1930年台の様な不況の前兆であると心配し、エコノミストはそうした心配を憂鬱な予想で大きくした。政府はリセッションの恐れが大きくなるにつれて、インフレの心配を忘れた。”
”世界中で市場が値崩れをする中で、するべきことはただ1つであった。すなわち、全ての国が、通貨供給の増加を抑制する努力を緩めたのである。憂鬱な予言は根拠がないことが判明した。1980~1982年のリセッションからの緩慢燃焼の回復がその第2次に入ろうとしていた。これまでは、景気回復は、低下する貯蓄と増加する消費によって、支えられて来た。投資の回復は、弱かった。1980~1982年のリセッションは、その後遺症として過剰な遊休プラントと設備を残し、失業率は高く、労働力は豊富であった。これらのプラントと設備の使用率が、更なる投資がペイするまでの高さになったのは、この緩慢燃焼の回復の5年目になってからであった。遅ればせながら、投資はブームになり、丁度エコノミスト達が回復が停止するだろうと予測した丁度その時に、回復を支え補強したのであった。1988年は素晴らしい年になった。日本のGNPは6%増加した。イギリスとアメリカは4.5%上った。遅い動きのフランスとドイツはそれぞれ4%増加を達成した。この年度は1980年代では、1984年度に次いで、2番目に成長率が高い年となった。”
”アメリカとヨーロッパは誤りを認識した。彼等は 1988年初めに 通貨政策を引き締め、利子率を上げた。日本は例外であった。その経常収支の黒字は1987年には870億ドルに達した。貿易の報復への圧力が強くなった。11月に大統領選挙を控え、アメリカ議会はいやなムードであった。議会は、1988年4月に、悪名高い’スーパー301条’を含む 総合貿易法案(Omnibus Trade Bill)を通した。この条項は、不公正な貿易慣行の故にアメリカとの二国間で大きな貿易黒字を記録している国に対して大統領が制裁を課することを要求している。(アメリカに対して大きな貿易黒字を出しているということは大抵の議員によって不公正な貿易の確かな証拠とみなされた)大統領はこの法案にサインし、1988年8月に法律となった。悪化する貿易摩擦の為に、日本は、他の国よりも1年長く安価で容易な通貨政策を維持する気になった。成長と貿易収支への結果は満足のいくものとなった。アメリカ経済が減速するにつれて、日本の経済はブームとなった。アメリカの実質GNPは1989年は2.5%に落ち、1990年には1%以下となった。日本の成長は4.9%から5.4%に加速した。なお良いことに、1990年には、アメリカの経常赤字が900億ドルに減る一方で、日本の経常黒字は1990年には360億ドル、GNPの1%に縮小した。日本のブームは日本の問題を解決する様に見えた。すなわち、貯蓄は落ち込み、投資は増えた。アウトプットは急速に上がり、貿易収支の黒字は縮小した。日本は急速成長路線に戻った。1987年と1990年の間に、日本は貨物列車経済から機関車経済に変わったのである。国内需要はこの3年間に亘って、平均6%上った。しかしこのうち1%は高い輸入に回され、他国の成長を助けたのである。したがって日本のアウトプットは平均5%上った。しかし不運にも、この成長は不健全なベースに基づいていた。それは、資産価格インフレによってもたらされたのである。東京株式市場の株価は、1987年10月の崩落に続く2年間の間に、120%上った。日経指数は、崩落後の底値の17,387から1989年の12月の終わりには38,915に上ったのである。資産の価格は殆ど同じ位急速に値上がりし、住宅と商業資産価格は1986年~1989年の間に2倍になっている。値上がりする株価と資産価格は全てを持つ1/3の日本人を努力なしで更に裕福にしたのである。彼等は収入から貯蓄することに意義を見出さなかった。少ししか持たない2/3の日本人もまた、貯蓄することに意義を見出さなかった。彼等は自身の家を買うのに十分な貯蓄を持たなかった。全ての日本の消費者は買い物競争をしたのである。個人の富が増加する一方で個人の貯蓄は減少した。家庭の純貯蓄は1986年の可処分所得の16.1%から、1990年の13.8%に低下した。会社もまた我を忘れて、消費に走ったのである。全体の投資は1987年と1990年の間で、約40%上った。プラントと設備への投資は3年間に約50%上った。GDPに占める全投資の割合は、18%から23%に上った。通貨は借りるのに殆どコストがかからなかったので、資本消費は急に増加した。会社もまた、株式市場と土地への投機で、多くの利益を出した。投資計画はどの様に融資を受けるかを考慮することなしにその望ましさに基づいて決定された。お金は、製造部門の管理者と人事部門に関する限りは拘束とはならなかった。円は強くなったので、日本の製造者達は上級マーケットを狙うこと、すなわち、殆ど価格に関係なく、入手できる工学的に最も進んだものだから売れるというものを製造することが絶対条件となった。そしてブームが運動量を持ってくるにつれて、労働力が不足になってきた。安い資本が労働力に替わって使われた。最後には、全ての新しい資本投資の1/4は、賃金アップにに等しいものであった。すなわち、新しい寮設備、Swimming pool、スポーツ・アリーナが若い労働者の為に作られた。一連の新しい社用車が上級取締役の為に購入された。資本の生産性は落ちた。そうとしても、日本の投資ブームは、国内市場に供給するために使用されないとしても、きっと、再び輸出を増やすことに切り替えられるであろう能力を追加したのである。投機のバブルは1990年の初めに破裂した。東京株式市場は、年初の40%株価ダウンの状態で、1990年を終えた。最も悪かったのは、日経指数が、1990年10月1日、20,221、1989年12月のピーク値(38,915)の殆ど半分になった時であった。資産価格は安くなったが、少しばかり下がっただけで、1989年5月に利子率が上り始めた後でさえ、そして特に株式市場が崩壊した1990年を通して、安易な投資の支出は続いたのである。お金は利子が高く、借りにくくなったというメッセージが浸透するのに長い時間がかかった。国内需要が十分に下がったのは1991年になってからであった。そうなったときには、過剰貯蓄の昔からの問題が再び出現した。日本の貿易収支の黒字はまた急速に膨張を始めた。90億ドルの湾岸戦争支援の支払いにもかかわらず、日本の経常収支の黒字は1991年度は1,200億ドル,GNPの3%となった。”



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日本の政治経済的課題(その7)

2007-07-14 18:11:39 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その7- - -1980年代(その2) )
1982年から1987年まで日本の首相の座にあった中曽根氏を抜きにはこの時代を語れません。著者は以下のように続けます。
”アメリカの国際収支の悪化はアメリカ経済が1980年~1982年の二重底のリセッションから回復している時に起こった。増加した貿易保護主義に対する政治的圧力は抑えられたままだった。日本は国内経済の運営の仕方を改善するように求められたが、守らない約束をしてそれらの要求を巧くかわすことが出来た。確かに日本の首相の任期は外国の批判をかわす能力に依存した。中曽根康弘氏は多くを約束し、少ししか実行しない練達の技術を持っていた。1982年11月に首相になってから、彼はレーガン大統領と大変に良い友人関係を作り上げた。所謂 安-ロン ”犬” と ”子馬” (dog-pony) のショーが始まったのである。中曽根首相は、根は、改革主義者であった。このことが、彼が守ることの出来ない約束に信認を与えた。しかし彼の外国での修辞と国内での現実との間には大きな乖離があった。その一例が前川レポートであった。1984年10月に、首相の私的な諮問機関として、前日銀総裁の前川春雄氏を座長とする財界と学会の権威者17名からなる ”経済構造調整研究会” を発足させ、第1回答申は、1985年4月に出され、 ”内需拡大と市場開放” と銘打って、”日本は、その経常収支の大幅な黒字を徐々に減らして国際調和に貢献していく為に、経済運営と国のライフスタイルに関する伝統的な政策において、歴史的な転換をするべきである” と 総括的な方向性を提言した。首相の目的は、自由民主党の政策委員会に慣例的にアドバイスをしていた保守的な官僚を無視することにあった。しかしながら、その推奨するものは、広範囲な一般化 と 敬虔な希望 以外のなにものでもなかった。中曽根首相はこれによって、アメリカ議会がその気配を見せていた貿易保護主義の報復から日本を守る息つきのスペースを確保しようとしたのだっだ。アメリカ経済が回復しドルが強い間はこれで良いと思われた。ドルが高値を付けて暴落すると情勢は激変した。第2回答申は、1987年4月に答申されたが、この情勢の変化を反映していた。 それは詳細な推奨事項を総括的なリストで提案していた。これらの推奨事項は、自由民主党の正規の政策作成委員会の中で更に研究された。しかし日本政府に対して公正を期せば、1880年代の後半には経済の動きを変えるための努力がなされた。税制改革は1987年に導入され、竹下首相(1987年11月に就任)は国会で常に3%消費税を通そうとしたことも一因となって1989年に首相の座を、失った。金融の規制緩和は、真剣ではあったが、速度の遅い改革が行われたもう1つの分野であった。これは1970年代に始まり、国際的な資本の動きに関する国内及び外国への規制の撤廃を既に包括していた。日本からの資本の自由な流れが、1981年~1985年のドルの強さを主に支えたのである。国内的には、日本の金融市場は1980年代の殆どに亘って、強く規制され、厳しく仕切りが嵌められれていた。アメリカ人は、日本国内での低金利と低いリターンの為に、日本の資本が外国に流れ、円を弱くし、ドルを強くしたと言った。円はその結果過小評価され、日本からの輸出品は不公正に安かった。レーガン大統領が、1983年11月に日本を訪問したとき、中曽根首相は、日本がどの様に、そして、何時、その金融市場を自由化するかについて議論すべく、特別の ”円-ドル為替問題”グループを編成することに合意した。安-ロン がこの問題を取り上げたが、アメリカの側では、副大統領のジョージ・ブッシュの管轄であり、一応の協定がなされたのである。即ち1984年に日本の副大臣とアメリカの国務長官の下の財務長官との間に、日本の資本市場の改革に関して、協定が成立した。金融の規制緩和に向けてのこの進歩が、1980年代末に日本を襲った投機危機を実質的に作り出したのである。”
次に1985年3月~1987年2月に起こった未曾有の円高の問題を著者は、取り上げます。
”此処で言う ’円高’とは、ドルが260円/ドル で極大になった後、1985年3月に始まった円が強くドルが下がり続ける期間の円高を言っている。この1985年は夏と秋の間は、ドルは、なだらかな下降線を辿っていた。1985年9月にニューヨークのプラザホテルで会合していたG5(アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリス)の財政担当の大臣達がドルを管理して秩序立って下げていくことに協力することに合意した。アメリカの予算と貿易収支の赤字が、余りにも大きいので、個人の投資家は既に神経を尖らせていた。そこで、G5が彼らの決定を突然公表した時は、ドルの降下は、”秩序立った”ものとは程遠い急激なものとなった。1887年2月には、ドルは円に対して殆ど半分の140円/ドルとなった。円のこの急激な価値上昇は、日本の実業家や輸出業者達の間にパニックを起こさせた。1986年アメリカの経常収支の赤字は、量的には、増加を停止し、減少し始めた。増加していた輸出が日本経済に与えた刺激は、無くなった。ものを作り利益を上げることは極めて難しくなった。成長は突然鈍り、日本国中、リセッションの恐れが広がった。政府は更なる特別の金融パッケージで応じた。しかしながら、各年度の正規予算が非常に厳しく、暫時の対策は経済が受けるデフレーションの程度を減らしただけであった。レフレーション(reflation)(インフレを起こさない程度に通貨を膨張させること)の主たる重荷は金銭の膨張に置かれた。1985年3月~1987年2月に亘って、ドルは一直線で値下がりしたのである。アメリカ当局も心配しなかったわけではない。1985年~1986年の世界の石油価格の低下はインフレの増加を押さえた。ドルが降下している奈落の底が見えなかったのである。ドルが下がりすぎるのではないかと心配したのは、日本だけではなかった。1987年2月にパリのルーブル宮殿で会合していたG5の財政担当の大臣達はドルを支える時が来たと判断したのである。彼らは、ドルは根底にある経済のファンダメンタルズに広範囲に合致した範囲に落ちたと、言ったのである。彼らがこの驚くべき結論にどのようにして達したかは1つの秘密である。アメリカが、ドル安の下で、国際収支の赤字を無くするには、国内需要を減らして、国内の資源を自由にすることが必要である。アメリカ人達はそうしなかった。そして議会は予算赤字を制御下に置くという限定的な行動をとった。その故に貿易収支の改善は僅かであり、ドルの下落によって生じたアメリカの貿易条件の悪化を相殺するには十分でなかった。即ち、輸入価格は輸入量が減るより素早く上がり、その故に輸入の支払額が上がったのである。その故にアメリカの経常収支の赤字は、1986年には1450億ドル、1987年には1620億ドルに増大したのである。外国の個人の投資家はこの支払いのギャップを埋めるに十分なお金をアメリカに貸すのを渋った。彼らは、そうするにはアメリカが金利を高くするという見返りを要求した。これなくして、例えG5の国々が束になっても、ドルの下落を停止できるとは、彼らは信じていなかった。しかしながら、連邦準備制度理事会(The Federal Reserve Board)は、純粋に国内的な考慮に基づいて、利子率政策を決定するのであり、外国からのそうする様にとの圧力の為に、レートを上げる意図は全く無かった。外国投資家たちが、尚ドルは過大評価されている信じて、ドルをボイコットした時、これらG5の国の中央銀行が、外国人個人投資家たちが間違っていることを証明するために、出てきたのである。1987年2月~1987年10月までに、これらの中央銀行は、世界の外国為替市場で、彼らの所有する円、ドイツ・マルク、フラン、ポンドを売り、1000億ドルのドルを買ったのである。アメリカの双子の赤字(アメリカの財政の赤字と経常収支の赤字)は、かくして、日本、ドイツ、フランス、イギリスの政府の借入金によって融資されたのである。”
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日本の政治経済的課題(その6)

2007-05-27 21:30:43 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その6- - -1980年代(その1) )
ここで、第2次オイルショックを経て1980年代に入ります。著者は続けます。
”1970年代が終わりに近づいた時やっと時代は落ち着いて来た様に見えた。過剰な生産能力は徐々に減らされ投資は回復していた。成長は加速し国際収支の黒字は減少し始めた。インフレは適当なレベルに下げられ来て、もう一度国家予算の赤字を減らすことを考え始めることが可能であった。しかしながらこの時にまた不幸な運命が介入することになった。イラン革命とイラク-イラン戦争が石油の供給を大幅に減らしたのである。1979年から1980年にかけて石油の価格は3倍になった。世界経済は10年間に2度目の石油価格ショックに襲われたのである。1980年代は為替市場と財政市場の混乱の著しい時代であった。この10年間の初期の3年間は(1970年代の後書きとも言うべき)第2次の石油価格の上昇に支配された。この時期、日本経済は第1次の石油価格の上昇の時期より遥かに巧く、また他の大国よりも巧く、機能した。中間期の3年間は、日本は、アメリカのレーガン大統領の供給者側の経済学(supply-side economics=Reaganomics)(供給側重視の経済学)によって箍(たが)をはずされた:即ち日本経済は再び急速なアメリカの需要の成長に引っ張られたのである。しかし1985年にドルはピーク(260円/ドル)に達し、1987年には、ドルの価値は円に対して半分(130円/ドル)になってしまった。
これを境にアメリカは世界を牽引することが出来なくなった。日本は、貿易戦争を恐れてその構造的貿易黒字の是正に循環的なリフレーション(*日本の政治経済的課題 (その5)の注記参照)という緩和策で対応した。日本の国家予算の赤字は心配なほど大きく、リフレーションの重荷は、安価なお金の上に投げられたのである。1980年代の後期には日本経済は、貸し出し限度額が大幅に上げられ、今までかってなかった様に簡単にお金は借りられ金利も安くなったのである。これが”バブル”経済を生み出し、”バブル”経済は1990年に破裂し、多くの著名人のスキャンダルを露呈したのである。”
この時代の分析を著者は以下の様に続けます。
”第2次オイルショック”が襲った時、日本は、第1次オイルショックの時より遥かに良く備えが出来ていた。1978年のボンのサミットで、日本とドイツはその経済を刺激して世界の経済成長を進行させる様に説得された。その年日本は、輸出金額は1%以下の増加で、輸入金額は8%増加したにも拘らず、約6%のGNP成長を成し遂げた。(日本政府の経常収支の黒字の減少はGNPのほぼ1%を切り落としたのに)
1979年の経済サミットでは、日本はもう悠々としていた。1979年の中頃には、日本政府は上昇しているインフレーションを抑える為に会計的にも、金銭的にもブレーキをかけるのが安全だと感じていた。1970年にGNPの4.6%に達していた予算の赤字に取り組むべく、18年間で最も厳しい予算を作成した。この時期を得たデフレーションが日本経済を第2次オイル価格上昇に備えさせたのである。第2次オイル価格上昇は第1次よりは緩いものであった。第1次の場合は、1972年と1974年の間で石油価格は5倍になった。第2次は1978年と1980年の間でそれは2倍と少しであった。しかしその最初の値上がりは(1978年)にはもっと高かったので、日本の輸入価格への影響は同じように高かった。高い石油価格は、価格に転嫁されるのではなく、主に、低い利益と2回目となる実質賃金の減少によって吸収されたのである。1973年のオイル価格上昇に続く2年間で卸売り価格、消費者価格と時間当たり賃金は約40%上がった。第2次オイル価格上昇に続く2年間で卸売り物価は22%、消費者物価は14 %、時間当たり賃金は約13%上がった。円の交換レートは暫く下がったがその後回復した。1972-1974年の日本のインフレーションは英国とほぼ同じくらい悪かったが、ピークの1年は25%になった。1978年-1980年の日本のインフレーションはドイツよりも良く10%以下であった。高いオイル価格のコストを低い賃金と利益で吸収して、日本の輸出はより競争力がついた。貿易条件が悪化して日本の経常収支はなお赤字であったが貿易収支は大きく改善した。結果として、行動は力強く、経済はリセッションに陥ることなく、成長が少し緩くなっただけであった。他の国は日本の良い運営状態を敬服はしなかった。そして特に彼らの市場への日本の侵入を嫌った。例えば日本の自動車の輸出は1980年の4月までの12ヶ月で50%増えた。一方アメリカとイギリスの自動車の生産は1/3減った。ヨーロッパとアメリカは、もし日本が ’自主的に’ 減らさなければ、日本の自動車を締め出すと脅した。自主的な自動車の輸出規制は受け入れられた。そして1981年5月から日本はアメリカに輸出される自動車の数を制限したのである。従って日本の自動車業界は上層の市場を狙った。直ちに彼らは台数は少ないがより高価な車を輸出し始め、継続して輸出の金額を増やしたのである。他の製品にも同様な事を行うことになり、1982年の初めには、日本は、アメリカとヨーロッパへの輸出の1/3は何らかの自主規制を受けていると主張した。輸出はなお増加した。日本はアメリカとヨーロッパを第3世界から締め出した。そこで外国からの攻撃は日本の閉ざされた輸入市場に向けられた。1981年12月には、日本の通産相 河本敏夫は、'日本は貿易戦争の瀬戸際にある' と警告していた。1982年~1984年に亘って実施予定のGATTラウンドの関税削減の年度毎の予定は、1982年の4月1日に前倒しにされた - - がこれだけでは十分でなかった。1982年6月のベルサイユサミットでのトラブルを心配して、日本は更なる貿易自由化対策を提供した。いや諸外国を鎮静させる対策と言ったほうが良いかもしれない。そのパッケージは1983年4月からの119項目に関する関税カットと更に96項目に関しての関税の撤廃を含んでいた。日本は、”輸入手続きは簡素化され輸入は加速されるであろう。輸入の分配に制約を加えることはしないように努める。貿易上の不平を解決する為にはオンブズマンを任命し、外国は 日本が将来の規則を作るときには、発言権を持つようにする。”
巧みな言葉だった。また印刷物も良くそれがもっと効いた。貿易の自由化対策は、輸入の増加を加速するのに殆ど役立たなかった。そこで外国の非難は、日本の輸入現場の最前線の貿易障害から国内経済の不公正なやり方に,焦点を移した。ロナルド・レーガンがアメリカ大統領に当選し、1981年にホワイトハウスに供給側の政策をもたらした。
アメリカの新しい行政府は減税に乗り出したので、レーガノミックス(Reaganomics)は、厳しく押し詰められた日本の救済になった。供給者側経済論者は、この政策は急速な成長とより高い貯蓄を奨励し、その故に税による歳入を増やすと主張した。出費の削減と合わせて、行政府は1983-1984年までに連邦予算を収支均衡にすると予測した。大抵のアメリカ人と同じ様に、供給者側経済論者は、外国のことについては考慮せず、減税がドルとアメリカの国際収支に及ぼす影響を無視した。これは致命的な間違いであった。この減税は、税引き後の借金のコストを下げ、貸し出し限度額の引き上げの需要を増やした。連邦準備銀行は、その強力な議長のフォーカー(Paul Volker)の下で、マネーサプライの増大を抑え、インフレーションと戦う為に利率を高くした。レーガンの安易な減税策とフォーカーのタイトな財政策とが組み合わされた。これが、1980年に為替市場の制御が排除された日本からではないが、外国からの資金の流入を呼び込んだ。ドルの価値は急上昇した。1980年の第3四半期から1981年の第1四半期の間に他の通貨に対して平均60%上がった(しかし円に対しては20%だけだった)。アメリカの製造者は、世界市場から価格の点で追い出され、外国からの輸入が押し寄せた。1981年と1985年の間に
、アメリカの経常収支は、GNPの0.2%(70億ドル)の黒字からGNPの3%(1220億ドル)の赤字になった。経済成長は、楽観的に、年率5%と予測されていた。国内需要は4%を少し下回って、悪化した貿易収支のせいで、GNPの成長は3%に達しなかった。1981年~1985年の間のアメリカ人の異常な消費の1/4は追加的な輸入に費やされた。したがってこの消費によって作られた収入の1/4は外国人によって稼がれたのである。この収入への税金は外国へ逃げてしまった。それは、輸出がドルの強さによって急に増大したドイツと日本の政府に行ったのである。アメリカの歳入は減ってしまったのである。アメリカの連邦予算の赤字は消えうせるどころか、1980-1981年のGNP比2.8% (740億ドル)から1984-1985年のGNP比5.3% (2120億ドル)に膨張した。もしドイツと日本の政府がこの僥倖的な税の増大を消費に回していたら、全てはうまく行ったであろう。ドイツと日本の需要が増大し彼らの増大した輸出に見合う輸入に通じたであろう。アメリカの収支の悪化も少なくなっていたであろうし、生産と収入ももっと早く増え、歳入ももっと上がったであろう。しかし日本とドイツの予算の赤字は、1980年代のはじめの期間は、大きく口を開いていた。アメリカの会計的な放漫さが、両国をして罰されることなく緊縮財政を施行することを可能にした。急増した輸出が、公的予算カットのデフレ的な衝撃を差し引いたのである。レーガンの供給者側の理論に基づいた減税はアメリカ経済を歪めた。過大
評価されたドルは、アメリカの製造者の販売に打撃を与え、税引き後の借金のコストの低下を帳消しにしたのである。産業界は新しい設備増大への投資を控えるようになった。外国との競争に影響されないサービス・セクターは、強いドルに助けられた。オフィスビル、ショッピング・モール、ホテル、レジャー用の巨大な複合施設、の様なものへの投資は急増加した。これらは輸出を生み出したり輸入を減らす為には、殆ど役立たなかった。アメリカが、貿易赤字によって蒙った負債を埋め合わせる 能力 は増やされることはなかったのである。マクロ経済の点では、レーガンの対策は、国内投資に比較して国内貯蓄の深刻な不足を生んだ。サービス産業の投資は増えた。個人の借金は増えた。個人貯蓄は減少した。家庭の可処分所得に対する貯蓄の比率は、1981年の7.7%から1985年の4.5%に落ちた。予算赤字の増大は政府支出を増やした。国家の貯蓄は、全体として、GNPの18.8%から15.8%に減少した。不十分なアメリカの貯蓄は、アメリカの経常収支の悪化を通して、過度のドイツと日本の貯蓄の為の はけ口を提供した。この4年間(1981年~1985年)の間に日本の経常収支の黒字は、GNP比0.4% (50億ドル)から3.7% (500億ドル)に増大した。国内需要は年率3%上がり、実質GNPは輸出先導の成長のお陰で年率4%上がった- - アメリカが経験した需要と成長の鏡像(アメリカはマイナスで日本と正反対であった)であった。即ちアメリカの酔っ払いを、健全でない(酔っ払った状態の)日本が支えたのである。”
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日本の政治経済的課題(その5)

2007-05-06 21:40:15 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その5- - -1970年代の総括 (3))
著者は続けます。
"1973年10月6日エジプトとシリアがイスラエルを不意打ちして、Yom Kippur War が勃発した。アラブ石油輸出機構(OAPEC)は素早く対応した。最初に、アラブの主義を支持しなかった者には石油の供給を停止し、次に石油の価格を5倍にした- -(第1次オイルショック)。日本に及ぼす影響は悲劇的であった。日本はそのオイルの99%を中東から輸入し、そのエネルギー供給の90%を石油に依存していた。石油が値上がりするや恐慌と大混乱が起こった。日本人の秩序正しい振る舞いはこの危機の中で崩壊した。自己よりグループを優先する倫理は突然 '全ては自分自身の為にある'という観念に取って代わられた。品薄であると噂になったものは、恐慌買いにより、本当に品薄になった。トイレットペーパーと洗剤は小売店で品切れになってしまった。人々はお金を引き出すべく銀行や貯金機関へと走った。製造者達は、好機到来とばかりに、故意に市場への供給を差し控え恐慌買いを誘発させ、かくして価格と利益を膨らませたのである。石油会社は価格協定連合を形成し、他の業界の会社は違法なカルテルを組んだのである。集約すれば、彼らは市場に出す殆ど全ての商品に対して、この売り手市場という新奇な情勢を利用するべく奔走した。非常に競争的な買い手市場で、最善を尽くして、お互いの首を絞めあってきた- -それは過去20年間の特色であった- -彼等は、過去とは違って、消費者から利益をむしりとることに共通の利益を、突然発見した。
'独占禁止法やカルテル防止法などくそ食らえだ。これこそ一生に一度の好機である。’
幾月かは、この考え方は正しいかのように見えた。政府は彼等を懲戒したり罰したりすることは何もしなかった。しかしそれは後から来るのだった。当座は、政府はどうしたら良いか分からなかったのである。石油価格の上昇は価格に対しては、インフレ的であるが、需要に対してはデフレ的である。それはインフレーションを直接に増加させるが、他方では、日本人のポケットからお金を取り、アラブの石油を産出している種族長に、それを渡すことによって、日本人の実質所得を減らしたので、消費者の支出は激減した。この第1次オイルショックは日本経済の前進しようとする足を踏みつけ、日本経済が既に進みかけていた良からぬ方向に更に推し進めたのである。1974年4月までの1年間は消費者価格のインフレーションは26%に達した。1974年の賃上げ闘争--いわゆる春闘--はしたがってひどいものになった。労働組合が、労働者は会社の利益の分配にあずかるべきだと賃上げを要求したことだけではなく、労働者と雇用主との間の協調体制が、大企業が品物不足の情勢を悪用して消費者を搾取したやり方を労働者が知っている為に、崩れてしまったのである。会社は労働者のインフレ的な賃上げ要求に逆らう根拠を持たなかったのである。会社が売り手市場の中で消費者からむしりとったのと同じように、結果を省みず、労働者は単に彼らの折衝力を悪用したのである。脅威の成長の時代には、膨張した利益を労働者と分け合うことが全般的に実質生活水準を上げたが、この一時に偶然に訪れた投機的な利益を分け合うことは全く違っていた。これらの利益は、増加した製造能力、販売、及び生産性という永続的な基礎を持つものではなく、一度限りの利益であった。それらは蒸発してしまうものであったが、賃金は定着するものであり、永続して労働コストを上げるものである。これらの余分のコストは、価格に転嫁されるか、あるいは雇用の減少によって吸収されるかされるであろうことは不可避であった。驚いたことに、彼等が暴利をむさぼったことに政府は見て見ぬふりをするのではないということを会社は発見するのである。彼らは、なかんずく政府の会計と財政の放漫さによって引き起こされたインフレーションの身代わり山羊として名指しにされたのである。1974年2月公正取引委員会の役人が、いくつかの石油精製会社の事務所に捜査令状で立ち入り、違法な価格カルテルを操作した罪で数人の社長が起訴された。同様な立ち入りが貿易会社と洗剤の会社でも行なわれた。暫くして国会がインフレーションを議論したとき騒ぎが起こった。野党は暴利をむさぼった会社は処罰され、納税者は消費者搾取で得られた過度の利益を償われるべきであると主張した。その結果、野党は政府をして、降って沸いた僥倖である異常な利益に税金を課す '特別の暫定会社利益税法' を通させた。産業界は、労働組合に対して出したのに続いて、納税官にも、その過剰利益を支払うことを強要されたのである。石油価格の高騰は田中首相の野心的な2桁成長率の成長を継続するという野心を打ち砕いたのである。インフレを抑制することが第1の優先事項となった。1973年12月、日本銀行はその公定歩合を2%上げて記録的な9%にした。さらに不動産会社、建設会社、及び貿易会社などの問題の業界に関して特別な貸し出し限度額の制限を課すべく '窓口指導' が行われた。トイレットペーパーや液化石油ガスからビニールクロライドに至る主要な製品に関して価格統制が導入された。1974年度の予算は緊縮予算となり、1972年と1973年に入れられた壮大な公共投資計画は停止されたり延期されたりした。システムは突然ストップした。石油価格の上昇に引き続いて起こった円レートの低下とそれが惹起した国際収支の赤字により事態は更に悪化し、会社はエネルギー、原材料、及び賃金の高コストに直面していた。国内市場も国際市場も崩落したのでこれらのコストをもはや価格に転嫁出来ないことに彼らは気づいた。経済はリセッションに入ったので、土地価格、原材料価格、証券市場の株価も大暴落した。熱心に進めてきた財テクの投機の結果は、厄介な実現損失となって現れた。生産は落ち込み統計的な失業指数は、あまり上がらなかったけれども、労働時間の減少や、強制された長期休暇の形で、隠れた失業指数は急激に増加した。1975年、日本の実質GNPは、第2次大戦後初めて前年比マイナスを記録した。日本の成長の船は、石油ショックという魚雷を受けて、大打撃を受け、田中内閣は船とともに沈んだ。田中首相は、62%の支持(1990年に海部首相に抜かれるまでは今までの最高の支持率であった)を受けて登場したが、2年後の1974年12月たった12%の支持率(1989年竹下首相と宇野首相はこれより下回ったが)で、首相の座を去った。1976年には実質GNPは急激に回復した。そしてその後は安定した一定の率(約5%)で成長を続けるのである。1960年代は成長は平均、年率11%であったが、1970年代の後半はやっと平均、年率5%であった。輸出がなかったらこの数値はもっと悪かったであろう。オイルショックは貿易の条件を日本に不利にした。1973年から1976年の間で日本の輸出価格は50%しか上がっていないのに、輸入価格は130%上がった。不変の輸入額を輸出で賄うためには、輸出を25%増やさねばならなかった。1974年も1975年も日本は輸出をその様に増やす手立てがなかった。リセッションに苦しんでいたのは日本だけではなく、その外国市場もまた崩れていた。さらに、経済がリセッションに移行しているので輸入量も減ったが、輸入価格上昇を埋め合わすことは出来なかった。他の工業国と同じ様に、日本も国際収支の赤字に突入したのである。1972年から1974年の間に、日本の経常収支は、GNP比2%の黒字から1%の赤字に落ち込んだ。1975年には、輸出が回復したからではなく、輸入が落ち込んだから、経常収支は均衡に戻った。しかしながら1975年の終わり頃から日本の輸出は再び力強く増加し始めた。石油ショックのリセッションの深さに驚いたアメリカとイギリスはりフレーション政策(*注記参照)を余りにも短期に激しくやり過ぎたが、日本とドイツはりフレーション政策をやったが少なすぎたし遅すぎた。したがって日本はアメリカのこのりフレーション政策の恩恵にあずかることが出来た。日本の会社は、いつもの様に、国内市場が停滞すると攻撃的な輸出に打って出る。今回は円の弱さに助けられた。その結果、1976年には日本の国際収支は黒字に転じ、日本は1978年までこの黒字を継続した。一方 アメリカは、1975年の黒字から、1978年には少しの赤字に陥った。日本もドイツも、アメリカの膨張政策にただ乗りしたと、諸外国に見られたのである。アメリカは世界の諸国を引っ張っていたので、'機関車経済' と呼ばれた。日本は1976年からづっと、全ての国際会議と特に先進7カ国首脳会議において、ただ乗り国として非難された。1977年の暮れ、日本は1978年度は7%の成長率とすることに合意させられ、1978年のボンのサミットはこの目標が達せられるかどうかの議論で多くの時間が費やされた。1975年からスタートして日本の財政政策は膨張的になった。田中首相は1970年代の初めの多額の赤字予算の為に厳しく非難されたが、彼を引き継いだより保守的な首相継承者は更に多額の赤字予算を組んだのである。1975年から1978年までに遂行された経済刺激策は国の国債額を大きく膨らます結果となった。予算赤字の性格もまた変化した。石油ショック後公共投資は厳しくチェックされる一方で、社会保障の出費は急激に増加し始めた。1980年代に国の赤字予算を抑制する時が来たときに、公共投資は低く抑えても、削減の一番難しいのはこの最も多額の社会保障費であった。”
*注記
リフレーション政策(reflation policy):インフレーションにならない程度に、通貨を膨張させて景気を良くする政策。
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