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日本の政治経済的課題(その7)

2007-07-14 18:11:39 | 政治・経済関連
日本の政治経済的課題 (その7- - -1980年代(その2) )
1982年から1987年まで日本の首相の座にあった中曽根氏を抜きにはこの時代を語れません。著者は以下のように続けます。
”アメリカの国際収支の悪化はアメリカ経済が1980年~1982年の二重底のリセッションから回復している時に起こった。増加した貿易保護主義に対する政治的圧力は抑えられたままだった。日本は国内経済の運営の仕方を改善するように求められたが、守らない約束をしてそれらの要求を巧くかわすことが出来た。確かに日本の首相の任期は外国の批判をかわす能力に依存した。中曽根康弘氏は多くを約束し、少ししか実行しない練達の技術を持っていた。1982年11月に首相になってから、彼はレーガン大統領と大変に良い友人関係を作り上げた。所謂 安-ロン ”犬” と ”子馬” (dog-pony) のショーが始まったのである。中曽根首相は、根は、改革主義者であった。このことが、彼が守ることの出来ない約束に信認を与えた。しかし彼の外国での修辞と国内での現実との間には大きな乖離があった。その一例が前川レポートであった。1984年10月に、首相の私的な諮問機関として、前日銀総裁の前川春雄氏を座長とする財界と学会の権威者17名からなる ”経済構造調整研究会” を発足させ、第1回答申は、1985年4月に出され、 ”内需拡大と市場開放” と銘打って、”日本は、その経常収支の大幅な黒字を徐々に減らして国際調和に貢献していく為に、経済運営と国のライフスタイルに関する伝統的な政策において、歴史的な転換をするべきである” と 総括的な方向性を提言した。首相の目的は、自由民主党の政策委員会に慣例的にアドバイスをしていた保守的な官僚を無視することにあった。しかしながら、その推奨するものは、広範囲な一般化 と 敬虔な希望 以外のなにものでもなかった。中曽根首相はこれによって、アメリカ議会がその気配を見せていた貿易保護主義の報復から日本を守る息つきのスペースを確保しようとしたのだっだ。アメリカ経済が回復しドルが強い間はこれで良いと思われた。ドルが高値を付けて暴落すると情勢は激変した。第2回答申は、1987年4月に答申されたが、この情勢の変化を反映していた。 それは詳細な推奨事項を総括的なリストで提案していた。これらの推奨事項は、自由民主党の正規の政策作成委員会の中で更に研究された。しかし日本政府に対して公正を期せば、1880年代の後半には経済の動きを変えるための努力がなされた。税制改革は1987年に導入され、竹下首相(1987年11月に就任)は国会で常に3%消費税を通そうとしたことも一因となって1989年に首相の座を、失った。金融の規制緩和は、真剣ではあったが、速度の遅い改革が行われたもう1つの分野であった。これは1970年代に始まり、国際的な資本の動きに関する国内及び外国への規制の撤廃を既に包括していた。日本からの資本の自由な流れが、1981年~1985年のドルの強さを主に支えたのである。国内的には、日本の金融市場は1980年代の殆どに亘って、強く規制され、厳しく仕切りが嵌められれていた。アメリカ人は、日本国内での低金利と低いリターンの為に、日本の資本が外国に流れ、円を弱くし、ドルを強くしたと言った。円はその結果過小評価され、日本からの輸出品は不公正に安かった。レーガン大統領が、1983年11月に日本を訪問したとき、中曽根首相は、日本がどの様に、そして、何時、その金融市場を自由化するかについて議論すべく、特別の ”円-ドル為替問題”グループを編成することに合意した。安-ロン がこの問題を取り上げたが、アメリカの側では、副大統領のジョージ・ブッシュの管轄であり、一応の協定がなされたのである。即ち1984年に日本の副大臣とアメリカの国務長官の下の財務長官との間に、日本の資本市場の改革に関して、協定が成立した。金融の規制緩和に向けてのこの進歩が、1980年代末に日本を襲った投機危機を実質的に作り出したのである。”
次に1985年3月~1987年2月に起こった未曾有の円高の問題を著者は、取り上げます。
”此処で言う ’円高’とは、ドルが260円/ドル で極大になった後、1985年3月に始まった円が強くドルが下がり続ける期間の円高を言っている。この1985年は夏と秋の間は、ドルは、なだらかな下降線を辿っていた。1985年9月にニューヨークのプラザホテルで会合していたG5(アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリス)の財政担当の大臣達がドルを管理して秩序立って下げていくことに協力することに合意した。アメリカの予算と貿易収支の赤字が、余りにも大きいので、個人の投資家は既に神経を尖らせていた。そこで、G5が彼らの決定を突然公表した時は、ドルの降下は、”秩序立った”ものとは程遠い急激なものとなった。1887年2月には、ドルは円に対して殆ど半分の140円/ドルとなった。円のこの急激な価値上昇は、日本の実業家や輸出業者達の間にパニックを起こさせた。1986年アメリカの経常収支の赤字は、量的には、増加を停止し、減少し始めた。増加していた輸出が日本経済に与えた刺激は、無くなった。ものを作り利益を上げることは極めて難しくなった。成長は突然鈍り、日本国中、リセッションの恐れが広がった。政府は更なる特別の金融パッケージで応じた。しかしながら、各年度の正規予算が非常に厳しく、暫時の対策は経済が受けるデフレーションの程度を減らしただけであった。レフレーション(reflation)(インフレを起こさない程度に通貨を膨張させること)の主たる重荷は金銭の膨張に置かれた。1985年3月~1987年2月に亘って、ドルは一直線で値下がりしたのである。アメリカ当局も心配しなかったわけではない。1985年~1986年の世界の石油価格の低下はインフレの増加を押さえた。ドルが降下している奈落の底が見えなかったのである。ドルが下がりすぎるのではないかと心配したのは、日本だけではなかった。1987年2月にパリのルーブル宮殿で会合していたG5の財政担当の大臣達はドルを支える時が来たと判断したのである。彼らは、ドルは根底にある経済のファンダメンタルズに広範囲に合致した範囲に落ちたと、言ったのである。彼らがこの驚くべき結論にどのようにして達したかは1つの秘密である。アメリカが、ドル安の下で、国際収支の赤字を無くするには、国内需要を減らして、国内の資源を自由にすることが必要である。アメリカ人達はそうしなかった。そして議会は予算赤字を制御下に置くという限定的な行動をとった。その故に貿易収支の改善は僅かであり、ドルの下落によって生じたアメリカの貿易条件の悪化を相殺するには十分でなかった。即ち、輸入価格は輸入量が減るより素早く上がり、その故に輸入の支払額が上がったのである。その故にアメリカの経常収支の赤字は、1986年には1450億ドル、1987年には1620億ドルに増大したのである。外国の個人の投資家はこの支払いのギャップを埋めるに十分なお金をアメリカに貸すのを渋った。彼らは、そうするにはアメリカが金利を高くするという見返りを要求した。これなくして、例えG5の国々が束になっても、ドルの下落を停止できるとは、彼らは信じていなかった。しかしながら、連邦準備制度理事会(The Federal Reserve Board)は、純粋に国内的な考慮に基づいて、利子率政策を決定するのであり、外国からのそうする様にとの圧力の為に、レートを上げる意図は全く無かった。外国投資家たちが、尚ドルは過大評価されている信じて、ドルをボイコットした時、これらG5の国の中央銀行が、外国人個人投資家たちが間違っていることを証明するために、出てきたのである。1987年2月~1987年10月までに、これらの中央銀行は、世界の外国為替市場で、彼らの所有する円、ドイツ・マルク、フラン、ポンドを売り、1000億ドルのドルを買ったのである。アメリカの双子の赤字(アメリカの財政の赤字と経常収支の赤字)は、かくして、日本、ドイツ、フランス、イギリスの政府の借入金によって融資されたのである。”
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