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2015年元旦 「歎異抄」のこころ

2014-12-31 23:20:00 | 日記
2015年元旦 「歎異抄」のこころ

親鸞聖人の直弟子の一人、唯円坊が著したとされる「歎異抄」ほど、現代文に訳された本は少いと思います。しかし、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」というこの本の核心の部分は、一般常識とは違った意味で使われていると思います。人間は、煩悩具足の自身、自身の貪瞋痴の強さ、他を押しのけてしか生き延びていけない生の定めから、仏教の十善戒の、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見の一つとして、守ることなどできない自身の救い様のなさ、絶え間なく交錯する優越感と劣等感、ともすれば自慢をし、人の悪口を言う、などなど、意識すればするほど、自己嫌悪に陥ってしまいます。そうした自己破壊の末に、阿弥陀如来に身を委ねるしかないと気付いていく人が悪人であると定義されているのだと思います。それが意識できず、自身は善人であると思っている人が善人と言われているのだと思います。真宗では、この様に自身の罪の深さに打ちひしがれて、自身の罪の深さを悟ることを「機の深信」と言い、この様になってはじめて、阿弥陀如来に身を委ねる、(即ち阿弥陀如来の本願に身を委ねる)ことが出来るようになると思います。このことを「法の深信」と言います。「機の深信」と「法の深信」は直結していることを、「機法一体」と言います。
「歎異抄」の18条の後序にある、「聖人のおおせには、善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあるなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とあります通り、念仏のみがまことなのであります。常に心に念仏を唱えつつ、阿弥陀如来に全てを委ね生きるしかできないのです。この時、全ての束縛から離れ、自由人として、全ての人、全ての存在を、御同朋として生きていけるのです。妙好人の方々はこのような生活をなさっていらっしゃったし、現在の妙好人の方々も少しはいらっしゃると思います。
真宗の仏教徒としては、念仏のあるところにのみ、サンガ(samgha-僧伽)があり、必然的に、往相回向も還相回向も、そこで生まれてくるのだと思います。
真宗門徒としては、在日、在地球、在宇宙の浄土人として生きることが、法然上人の一枚起請文、親鸞聖人の正信偈、歎異抄、和讃、蓮如上人の御文さんの願いに応じていく道であると思います。
釈尊、七高僧、多くの祖師、師主知識、の方々、多くの先達の方々に感謝しつつ、

合掌
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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南無阿弥陀仏を唱えること (とらのこ ゆう)
2015-03-02 15:23:29
戦後70年近く経った今、
私たち日本人は
自分のことを[悪人ではなく善人で、
自分たちの考えは正義だ]、
そういうことを信じて疑わない人が
増えてきたのではないかと思います。

例えば、今、世間を騒がせている川崎の中学生殺人事件の加害者少年の残忍性や家庭環境について言及し、例えば、少年たちは、犯人の少年と自分とはかけ離れた人間であるとか、また、子供を持つ親は、あんな子供に育てた両親と自分とは別の世界に住む人間だと思わせるような、ネットの情報、マスコミの報道が目立つように思います。
でも、本当にそうなのでしょうか。
宋円さんの、このブログを拝読し、その思いがより強く去来しました。

私たちは、憧れと嫉妬心、愛情と憎悪、慈愛と攻撃、のように善と悪とがコインの表裏のように対をなし、常に揺らぐ心をもつ弱い人間です。
だからこそ、犯罪者の中に、自分の中にもある悪の共通点を見つめ、戒め、そんな卑小な私であることの許しを仏に乞うことが、南無阿弥陀仏を唱えることと共通しているように思います。
宋円さんは、どう考えられますでしょうか。
返信する
ありがたいお言葉でした (とらのこ ゆう)
2015-03-05 21:41:49
宋円さん、ありがとうございます。
とても、感動し、興味深く拝読させていただきました。

「心とは、心惑わす心なり。心に心、心許すな。」という山本玄峰老師の御言葉、とても心打たれたました。悟りの新境地を見つめておられる方にしか言いえない、尊いお言葉であると思います。


ー「心」とは、「自我」であって、この「自我」は「機会」や縁(原因を助けて結果を生じさせる作用)によっていか様にも発展する可能性があります。
ーこの言葉も、とても納得しました。
私自身の42年間も、
犯罪者、また同様に被害者となる可能性は、充分にあったわけですが、今こうして、平和な気持ちで暮らしていられることは、偶然ではなく、両親、きょうだい、祖父母、友人、ご先祖、自然など私を取り巻く全ての存在があってこそ。
わたしたち人間は、この世界に
感謝の気持ちを持って生きていくことが自然なことなのだと思います。
体調が悪かったり、うまくいかないことが続くと、なかなかそうは考えられないですが、そういう時こそ、宋円さんの仰る、
ー常に自分とは何かを追い求めていけば、あなたの心の奥底にある清浄無垢な「仏の光に照らされた心」に出会えると思います。
「衆生本来仏なり」であります。ー
という言葉が、支えになるように思います。
ありがとうございました。
返信する
とらのこ ゆう さんへ (宗円)
2015-04-25 17:23:00
とらのこ ゆう さんへ
貴方が、仰るように、全ての人間は、常に揺れ動く心を持つ弱い人間です。「心とは、心惑わす心なり。心に心、心許すな。」と山本玄峰老師に教えて戴きました。私達が普通言ってい
る「心」とは、「自我」であって、この「自我」は「機会」や縁(原因を助けて結果を生じさせる作用)によっていか様にも発展する可能性があります。「かっとなって人を殺す」など
ということを言っている犯罪者がいますが、誰でもその危険性があると思います。この「自我」即ち「自己愛(自分だけしか見えていない状態の自我)」の怖さに打ちひしがれ、阿弥陀
如来に全てを託していくこと(「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏」に帰依する(「南無」の意味))ということ、即ち「阿弥陀仏」に全てを託する ということです。)それを念仏
(佛を念ずる)というのです。口で言う念仏を 口唱念仏と言います。念仏は 佛を念ずる という意味ですから、心で唱えることだと思います。私は、今は、常住坐臥、念仏すること
を心掛けていますが、ここまで来るには長い年月を要しました。「自己愛」の怖さに打ちひしがれているとき、私は、妙好人の三戸独笑さんの言葉に目を開かれたのです。人のよって
どのようなことが機縁となるかは、千差万別だと思いますが、必死で追い求めていれば、必ず「自己愛」でない、自身の心の奥底にある、「如来の光に照らされた心」に出会えると思い
ます。しかし、浄土真宗の信者の私は、念仏を離れれば、それには出会えません。念仏を唱えるしかないのです。そこに道は開けるのです。それが死への道でも、それも苦にならないと
思います。如来と共に歩む道であるからです。常に自分とは何かを追い求めていけば、あなたの心の奥底にある清浄無垢な「仏の光に照らされた心」に出会えると思います。
「衆生本来仏なり」であります。
                                                                              宗円より
返信する
とらのこ ゆう さんへ (宗円)
2015-04-25 17:28:01
前回の私のあなたへのお答えに一部誤りがありましたので、訂正しました。
妙好人のお名前が、木戸独笑さんではなく、三戸独笑さんでした。訂正してお詫びします。

合掌
宗円より
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