もの想う鷲 (A thinking eagle)

自然・環境を科学してみる

西暦500年頃までのユーラシアの宗教的結びつき

2006-08-17 00:40:44 | 宗教(主として仏教)について
LondonのTimes Press社によって1978年に出版され、1988年に再版された"Atlas of World History"の中に、世界宗教について
興味ある記述があるので、ここに翻訳してご紹介します。

西暦500年頃までのユーラシア(ヨーロッパとアジア)の宗教的な結びつき

全ての世界の大宗教はアジアに発生した。そしてその中の3つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、回教)は、西アジアの極めて小さな地域に起こった。
同じ様に注目すべきは、世界の異なった地域での宗教的な天才を、年代で区切れば、BC6世紀、またはその近くの時代(ヤスパースの言う“宗教の軸となる時代”)になることである。

それは、中国では孔子、そして恐らく老子、イランではゾロアスター、インドでは釈迦、我々がディーテロ・インアと呼ぶ、ユダヤの中でも最も偉大な予言者、そしてギリシアのピタゴラスの時代であった。
恐らく世界的な文明の誕生が世界的宗教を必要としたのであろう。
恐らく、これらの新しい宗教は、その当時の社会における緊張や、精神のはけ口、及び 迷信的な多神教を超越する宗教 の 必要性 に対する反応であった。

ギリシアの思想家達が実際の社会を説明するために、単一の原理を探しているのと同じ時に、単一の精神的なものを信じる方向への動きがあったのである。
この動きの1つが一神教の成長である。

狭義の定義では決して世界的宗教ではないけれども、世界的宗教の中で最も古いものはヒンヅー教である。
それはインドの人々の宗教である。
即ち“ヒンヅー”というのは“インダス河の”という意味である。
ヒンヅー教は包括的であり、非常に複雑である。
それは、菜食主義、人間の生贄、難行苦行、及び 乱行である。
それは、創造されたものでなく成長し続けるものである。
外面観察のあらゆる豊かさを自己実現する教義遵守の儀式であるとともに、内的瞑想への献身であり、村人の最も単純な信仰であるとともに、哲学者の深遠な演繹理論を内包する。
ヒンヅー教は厳密な意味において、伝道宗教ではない。

ヒンヅー教内の1つの改革運動として始まった仏教は最も偉大な伝道宗教の1つである。
その伝道は成功し、アジアの多くの地域に広まったが、皮肉にも、現在はインドには事実上仏教徒はいない。
ゴータマ・シッダルタ、“宇宙の真理を体得した”という意味の称号 “仏陀”、は 恐らくBC6世紀~BC5世紀を生きたインドの小国の王子であった。(というのは、もう1つ、BC5世紀~BC4世紀という説がある)
彼は一念発起して城を出た。(仏教では“偉大なる放棄”という)。6年後彼は菩提樹の下で悟りを開いた。彼は涅槃、欲望を抹殺する境地、に達した。

仏教の歴史の中で最初の偉大な出来事はインドのアショカ王(紀元前274~232)の王政時代であった。
彼は仏教に改宗した人であり、改宗の後、高い位の人には稀な類の平和と高邁な主義の人であった。
彼の改宗は、ローマ皇帝コンスタンティンのキリスト教への改宗と好対照をなす。
仏教は初期にセイロン(現在のスリランカ)、と ビルマ(現在のミヤンマー)に伝播し、西暦1~2世紀には中国に、4世紀には韓国に、6世紀には日本に伝播した。
仏教は神に焦点を当てない点において世界宗教の中で特異である。
そのメッセージは、欲望を消滅させることを通しての苦しみからの解放である。
これが、仏教と社会とともに、仏教の焦点部分となる教義である。
仏教では1つの大きな分裂があった。それは始まってから500年位後に起こった。
それは、一般大衆向けの大乗仏教 と より保守的な小乗仏教への分裂である。
小乗仏教はセイロン、ビルマ、タイで強く、大乗仏教はさらに東の中国、韓国、日本で広く受け入れられている。
仏教は、東南アジアの海岸に沿って、そしてまた中央アジアを通るシルクロードによっても、伝播した。

中国では、先祖崇拝と自然の精霊崇拝の昔からの伝統があった。
BC5世紀位から少なくとも上流社会には、2つの哲学が支配的であった。1つは孔子(BC551~BC479)の倫理哲学であり、もう1つは人物が記録に明確に残っていない老子との関係が深い“道教”という宗教である。
“道教”は宇宙の道を意味する。
人のあるべき姿は、静寧な生活を通して、“宇宙の道”と調和することであるというのである。

日本においては、6世紀に、仏教は 伝統的な“神道”と精霊思想を凌駕し、漸く徳川時代の終わりに至って、“神道”が、日本の国家の本体を表すものとして復活した。

ユダヤ民族は伝統によってメソポタミアから移って来た、人口の少ない民族である。
彼らの確固とした歴史はモーゼという名の指導者の下でエジプトの圧制から脱出した時に始まった。
彼らがエジプトから脱出したには、神聖なる存在エホバ、または“主”の為である。
その“主”と彼らは誓約をしたのである。
即ち、彼らは、“主”の民であり、“主”は彼らの神であるという誓約である。
それは、彼らの法律である十戒の単純かつ深遠な道徳的要求と結びついた誓約である。
彼らは、食の規則、割礼、及びその他の宗教的儀式等で顕著な特色を持つ、排他的な民族である。

エホバは、彼らを、他所から連れてきて、民とした神であるという事実は、それ自身広い一般性を持つ考えであり、次々と現れた“予言者”が、彼らに対して、身をもって、倫理的道徳的正しさを保つべく、努力し続けた。

ユダヤ人は、頻頻と、他民族による政治的軍事的支配を受け、その結果として起こった彼らの“分散”は地中海の殆んどの地域、そしてさらに東方にも及んだ。
その後さらにキリスト教による迫害の結果、彼らは、さらに世界中に分散して行った。

ユダヤ教がキリスト教を産み、キリスト教は初めローマ帝国に広がり、後にさらに広範囲に伝播した。
回教もまたユダヤ教とキリスト教の伝統を受け継ぎ、モハメッドがモーゼやキリストを含む予言者の列に入っていると、回教は考えている。
回教もまた偉大な伝道宗教となった。
1つの方向では、回教はスペインを経由して北アフリカを席捲し、そしてスペインを経由してヨーロッパへ、もう1つの方向ではインドに達した。

もう1つの他の宗教も言及しなければならない。
これはペルシアに起こり、ゾロアスター、老子とともにはっきりと記録に残っていない人物、に関係している。それは人生を 光の力 と 暗黒の力 の 間の 戦場と考える。
そして、それは、今日では、インドの一派パルシスに代表されている。それは太陽神の形でローマ帝国に広まったが、キリスト教の成長によって追放された。

さらに世界宗教として永続しなかった民族的な宗教がいくつかある。
ローマ人によって採用され改作されたパンテオンは、空の神ゼウス(木星)や夫々が1つの役割を持った他の神々を作ったが、それらは征服された民族の神と一体になった。
ケルト民族(この民族の僧職の人たちは人の生贄を要求したという咎で抑圧された)、スカンジナビア民族(その神ウオータン(Wotan)、トール(Thor)、及びその他の神は、英語の週の曜日の呼び名となった)及び ゲルマン民族の全ては、シリア民族やアラブ民族や小アジアの民族と同じ様に、全て彼らの神を持った。
エジプトの女神イシスは遥かアフリカ西部にまで広まり崇拝されていた。
これらの神は、自身が取って代わられた宗教に影響を与えたり、その他の宗教の中に、行事の形として残っているものもあるが、最後には、すべて 消滅してしまった。

以前は別々であった世界の地域を結びつけたのは、結局粘着剤としての役目を果たした、世界宗教であった。




宗教の拡散 (添付図参照)

ナイル河、メソポタミア河、インダス河、及び 中国の大河で生まれた偉大な河の文明と偉大な世界宗教との間に何らか関係があるといっても、驚くことではない。しかし、関係があるといえども、そして、これら安定した世界文明がなかったならば、これらの世界的な宗教が生まれなかったであろうけれども、宗教的天才を生んだのは、河だけではない。

領土拡張は一般に、貿易ルートを辿った。
宗教は、貿易商、兵士、行政官、及び 普通の旅人によって、まれには慎重な伝道の目的を持って、同じ貿易ルートを使って広められていった。
仏教は東南アジアの海岸に沿って、そしてまた中央アジアのシルク・ルートによっても広まった。
ローマ帝国と中国の帝国は、注意をひきつける魅惑の中心であったが、平和な政府は、宗教の拡散を助けた。
キリスト教の作家は、ローマ帝国によってもたらされた平和は、キリスト教の伝播への神の意思であったと主張している。

添付図が4枚(1枚は凡例)があります。
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西暦500年頃までのユーラシアの宗教的結びつき(凡例)

2006-08-17 00:39:00 | 宗教(主として仏教)について
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西暦500年頃までのユーラシアの宗教的結びつき(図3)

2006-08-17 00:38:38 | 宗教(主として仏教)について
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西暦500年頃までのユーラシアの宗教的結びつき(図2)

2006-08-17 00:38:17 | 宗教(主として仏教)について
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西暦500年頃までのユーラシアの宗教的結びつき(図1)

2006-08-17 00:37:30 | 宗教(主として仏教)について
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仏教の教える呼吸法 (続編)

2006-08-17 00:28:27 | 宗教(主として仏教)について
前回の“仏教の教える呼吸法”に引き続き続編として以下を追加します。

月刊誌“大法輪”(“有限会社大法輪閣”発行)の2006年3月号に特集として“心と体をととのえる仏教の呼吸法”が出ています。これはヒンズー教が人類に与えてくれた知恵であり、東洋の知恵であると言えると思います。

釈尊がこのインドヨーガーの伝統の呼吸法、瞑想法をよりどころとして、修行され悟りを得られ、仏教を創始されたのですが、生涯にわたってこの呼吸法を実践されたことがよくわかります。

この特集は、インドヨーガーと仏教の呼吸法(釈尊の呼吸法、“天台小止観”の呼吸法、密教の阿字観・阿息観、白隠禅師の呼吸法、南無阿弥陀仏の呼吸法、南無妙法蓮華教の呼吸法、上部座仏教の呼吸法、チベット仏教の呼吸法、)はもとより、気功・太極拳の呼吸法、実効のあった整体師の方々の呼吸法も掲載されています。
是非一読をお奨め致します。

雑誌は本屋さんでは既に売り切れていると思いますが、本屋さんに、申し込まれれば、取り寄せて貰えると思います。
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仏教の教える呼吸法 (腹式呼吸)

2006-08-17 00:25:47 | 宗教(主として仏教)について
仏教の教える呼吸法(腹式呼吸)

私は大学時代から今日に至るまで46年間坐禅をして来ましたが、最近になって、坐禅をする時の呼吸法を行住坐臥行なえば健康に良いことが実感できるようになりました。
これも6年前頚椎ヘルニアになり整体師の先生に教えられて気づいたのです。
私の坐禅が如何にいい加減であったかを思い知ることになりました。
それ以来弱かった大腸も完治しました。
一人でも多くの方に伝えるべく、ここに私の知る範囲で、一番解りやすい方法をお伝えします。

私の持っている本に以下のものがあります。

ペリカン社叢書 “禅と日本文化”第7巻 “禅と身心論”の136ページ 平田重誠氏の“養生訣”の一節を引用して、著者は以下の如く纏めておられます。。
(著者は鎌田茂雄氏であり、その章のタイトルは“白隠禅師の調息法とその継承と発展”です)

臍下丹田(せいかたんぜん)に気を充実させれば、手足を軽やかにし、上半身も気が滞ることなく、丹田の力によって物を持ったり、事を行ったりすることが出来るようになる。それは天地間の大気を鼻より引き入れ、その大気を丹田から体全体に行き渡らせるのである。それによって外の大気、内の大気が1つとなり、生命体を保つことができるようになる。そして内外不二、大自然と自己とが一体となることができる。これこそが調息法の究極の目的である。

歩行する時重要なのは、足よりも下腹から進むようにすること。これは腹式呼吸によって息を吸うとき下腹を膨らませるからである。
さらに目で外のものを見るときには丹田で見るが如くすべし。眼で見るのではなく心で観るべし。
(宮本武蔵の“五輪の書”でも同じ様なことが書かれていると著者はいわれています)

これは、白隠禅師の調息法を継承発展させたものであると著者の鎌田茂雄氏は述べられています。


白隠禅師の“夜船閑話”は禅師が重症の結核になられ、医者や禅の老師からも見離され、白幽仙人から教わった“なんその法”(今で言う特殊な自己催眠法)でそれを完治したという話をのべ、坐禅のすばらしさをも説いた本ですが、この調息法についても詳しく述べられていますので、一読をお勧めします。なおこの“夜船閑話”は、抗生物が発見され大衆に使用されるようになるまでは(日本では1960年頃までと思います)結核患者必読の書物だったのです。何故ならこの“なんその法”はただですから。
またこの“なんその法”で結核を治された方もかなりおられると思います。

また行住坐臥、背骨は常に真っ直ぐにし正しい姿勢を保つことも、健康には勿論、仕事の姿勢としても大切なことです。また1日に1回、直立して両足を広げ、ゴルフクラブか細い棒を背中の後ろに回し、両腕の上腕と下腕の間の凹部で、水平に保持して、背骨を真っ直ぐにした状態で、(背骨を中心にして)100回往復Twistをすることをお勧めします。これによりあなたの背骨はより真っ直ぐになり、神経系統を整えます。これも整体師の先生に教えて戴きました。
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河川の再生

2006-08-16 23:55:50 | 徒然なる侭に
以下は2005年3月18日に書いた内容の再掲です。


会社の仕事を終えてから、近くの2級河川を約1時間散策しました。
青鷺、白鷺、川鵜、山ガラ、みそさざい、鴨、カラス、鳶、雀などがまだ川や岸で餌を捕っていました。
中州には萱や葭(よし)が茂り、手入れされぬままになっています。
かっては、石を取ればその下に白い海老がいた川も、川砂を採取した為に流れが緩くなり、各所に取水の堰堤が増えて、川底が簡単に大水だけでは、掃除出来なくなったのと、生活用水が未だ少し流れ込んでいるので、川床は昔とは大違いで再生するのは容易ではないと思われます。
来年は中州は県の許可を得て、1~2月に萱や葭を焼き、植物の多様性を復活する手始めにしたいです。
川は浅く、その気になれば、我々の小中学生時代にしたように、子供たちの遊び場に、老人たちの力で復活したいと希望が湧いてきます。
山、川、田畑の再生をし、豊かな自然を取り戻し、農業、酪農、などを行い、大抵の機械の修理は自分たちで部品を作ることの出来る、若者中心の会社を作ることを目標に着実に前進したいと思っています。
今日はこの辺で筆を置きます。
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マグロ漁船がアホウドリを絶滅に追い込む?その1

2006-08-16 23:52:41 | 野生動物保護
消滅しているアホウドリの不思議  (Reader’s Digest編集部作)
(Reader’s Digestの Asian Edition の 4月号(英語版)から翻訳)

以下を読まれて感じるところのある方は、日本のマグロ漁船がMr. Nigel Brothersが推奨している方法を採用して、アホウドリが災害に遭遇するのを最小限にするべく、協力されることを切望します。
添付の写真はReader’s DigestのAsian edition に出ていた写真です。
尚、本文、画像の掲載に関して問題がある場合はお知らせください。




この不思議な大洋を逍遥する鳥は数を急激に減らしていたが、誰もその理由を知らなかった。 
そこで Mr. Nigel Brothers が追跡した。

オーストリア行きの定期航行船のデッキから、私は、荒れたどんより曇った空の下で進み来る鉄のような灰色の(iron-grey)波を見つめていた。陸地から遠い、この侘しい大洋の真ん中に、突然一羽の巨大な鳥が雨のベイル(veil)の向こうに、出現した。

その羽は、霧と嵐の灰色と白の混ざり合った色合いをしており、その長い嘴は、暖かい紅色をしていた。
一方の黒い翼の先で、その鳥は、切り立った険しい角度の波の面をさっと切り、上に舞い上がり、我々の船の航跡を横切って華麗に円弧を描きながら飛んでいた。

我々は、大洋を生活舞台とする鳥(ocean birds)の中で最大且つ最も神秘的な一種である、殆ど目にすることのない、逍遥するアホウドリに発見されたのだ。

そのアホウドリが、陸に向かっている我々を追跡して来た5日間の間、私は一度たりとも、その3mの翼を羽ばたかせるのを、見たことがなかった。(訳者注:アホウドリは上昇気流に巧みに乗るから、翼を羽ばたく必要が無い。)

この世のものとも思えないこの大洋の真ん中で、この鳥は、一体なにをすることができるのだろうか? 私は訝った。
何処へ行っているところなのか?

ジャンボジェットによる旅行の前の時代には、未だ、アホウドリの生活や棲息過程は、人々を魅惑する謎であった。Cape Horn(訳者注:Chileでは Cabo de Hornosと書く)(訳者注:南極洋に面するチリーの南端の島、Isla Hermite(エルミテ島)にある港町) の船乗り達は、この鳥たちを、迷信的な親しみを持って、海に消えた仲間の魂だと考えていた。
この鳥たちの神秘は、Samuel Taylor Coleridgeによって、一羽のアホウドリを殺し、”どこもかしこも水ばかりなのに飲む水は一滴もない” 世界に、永遠に漂う運命になった船乗りについての、彼の詩 ”古き船乗りの詩(The Rime of the Ancient Mariner)” によって永遠のものとなった。

逍遥するアホウドリ達は、南極大陸の近くの、人の住む陸地から遠く離れた風の強い島にしか巣を作らない。

人の住む陸地からは、オーストラリアやニュージーランドの岬の様な2、3のところでしか、この鳥は一瞥することすら出来ない。
主として、波に洗われた大洋に浮かぶ死体や博物館の標本を調べて、博物学者達は、7種の”大きな”アホウドリ(その中でroyal albatross と wandering albatross(訳者注:はじめに述べた”逍遥するアホウドリ”)が最大の種である)と17種の小さい種類がいることを見出している。彼等の発見によれば、老齢の鳥の中には 人間と同じほど永く生き(既知の最も老齢のものは60歳以上であった)、生涯にわたって同じ相手を選ぶという。しかしこの鳥の神秘的な太洋航海の秘密を解く助けとなる手がかりは無かった。

オーストラリアのヲロンゴン(Wollongong)(訳者注:シドニーの南)のすぐ沖合いの太平洋の小さな海域が、アホウドリが群がる地球上の数少ない場所の一つである。毎冬この大きな鳥たちは南半球の到るところから飛んで来てこの海域で産卵し死ぬ無数の大きなイカたちを食べにやって来るのである。
ここで1970年代の初め、アマチュアの博物学者Lindsay Smithは彼の妻Janiceと2~3の友達とともに、金属製のボートから網で鳥を捕らえ、その足に番号札をつけて、オーストラリアのアホウドリの研究家Doug Gibsonの仕事を引き継ぐ決心をした。2~3年後、科学者達は、南極大陸近くの島々にあるオーストラリアから遠く離れたアホウドリたちの繁殖地で、番号札を付けられた鳥たちを見つけ始めた。しかしながら、どの様にアホウドリたちが地球の周りを旅するかについての証拠がはいって来ていたが、Smithと彼のティームはもっと深刻な神秘に直面していた。毎年目にするアホウドリが減っているのだ。初めは1日に30羽を捕らえていたのに、1986年には5倍の時間(5日)をかけてたったの12羽しか網で捕らえられなくなった。悲惨な便りがこの鳥の繁殖地から入って来ていた。博物学者達の報告では、Cape Horn の近くの英国領South Georgia島島では、ひどい減り方であり、多くの巣が見捨てられたままであるというのである。そこでは、どこかで、数千のアホウドリが消滅している―そして誰もその理由を知らないと Smithは思った。
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マグロ漁船がアホウドリを絶滅に追い込む?その2

2006-08-16 23:52:00 | 野生動物保護
続きです。

凍りつく様な強風に向かって頭を下げ、Nigel Brithers (一人の人の名であり、“Nigel 兄弟”ではない) は、オーストラリアのMacquarie Islandsの沼の多い草むらの上を、テクテク歩いていた時、突然後ろから、ビューッツと音がして何かが襲って来たので、彼は身を屈めた。小さな飛行機の大きさほどもある大きな鳥が彼の頭の上を低く掠めて飛んで来て、円弧を描いて彼の足元に降りた。あっけにとられて、その若い博物学者が膝をついていると、そのwandering albatrossは、その大きなゴムで出来たような足で、ヨチヨチと歩いて来て、魚を捌くナイフ(fishing knife)の様に大きく鋭い嘴で、彼の胸をつついた。Brothersは仰向けに倒れた が、その鳥は彼の胸に上って来て彼のふさふさした頭髪と顎鬚を嘴で整えたのである。

鳥や海への倦まぬ愛情を持ち、背が高く、筋骨逞しく強いBrothersは、彼自身、大洋の逍遥者(wanderer)の様なところがあった。学校の休暇をタスマニアの農場で過ごしている間に、Brothersは、熱狂的なアマチュアの博物学者となり、まだ生徒である間に、タスマニア政府の為のwildlife(野生の動植物)のfieldworkを始めた。1970年代の中ごろ、16ヶ月の間 wildlife ranger として、配属されて、海鳥を餌食にしていた、昔の船員が残して行った猫を、根絶する助けをした。タスマニアに帰って、Brothersは、marine lifeをモニターする仕事につき、毎年海岸に沿ってテクテク歩き、最も遠い沖合いの島々に航海した。彼自身の運命が、まもなく その華麗な大洋の航行者である鳥の運命と深く結びつくことに
なろうとは露知らず、しばしば あのwandering albatrossとの彼の不思議な遭遇を思い返した。

一方、この消滅しているアホウドリの不思議は、海鳥のエキスパートの間に 急速にホットな話題となった。24種のアホウドリの種の中で、21種が減少しており、多くの種が絶滅の危機に瀕していた。Brothersは、失われた鳥達の運命について、直感的なものを感じていた。
“私は何が起こっているか知っている。だから何としてもそれを証明する積もりだ。”
と、彼は友達達に語っていた。

彼が少年であった時以来、毎冬、錆びた白い漁船が、新鮮な野菜や燃料を求め、そして修理をする為にHobart港(タスマニアのCapital)に、どっと入港して来るのだった。それらは南半球の大洋を遊泳する、刺身の元になり、そして、海で最も高価な魚に入る、1kg 50ドルの価格の、青いひれのマグロ(bluefin tuna) の 漁をする日本の漁船団の一部であった。毎日 各漁船は、3000の えさを付けた釣り針 が付けられた100km長さの糸をセットしている。

何と多数の漁船、何と多数の釣り針、とBrothersは考えた。
これらの漁船の他に、そんなに多くの鳥をころすものが、何か あろうか?
他の科学者達も、同様な疑いを持っていたが、かれらは考えるだけだった。
答えを証明する為には、誰かがちゃんとした観察をして、数値を集めなければならない。

2年間、日本の漁船の1つに観測者として乗船する許可を得ようと努めた。1988年の冬かれの忍耐が実って、許可を得て、タスマニアの320km南で漁をしている、大きなマグロ漁船に、ゴムボートから乗り込んだ。その顎鬚を生やした若いオーストラリアの若者が、なぜ彼らの中に現れたのか、あるいは ノートと双眼鏡を手にして、雨としぶきの中で背中を丸めて、外の厳しいデッキの上で坐っているのか、乗組員達は、何も解らなかった。この特等席から、乗組員たちが、1日6時間の間、7.3秒に一回、引っ掛けのある釣り針に、魚や剣烏賊をえさとして付け、船尾からそれらを投げ込んでいるのを、Brothersは観察することが出来た。同時に数百の海鳥たちが、デッキの下の魚の加工工場から海に放出される魚の頭や内臓を取りに、急降下して来るのである。船尾での彼の孤独な監視を始めてすぐ、一羽の王様然としたwandering albatrossが、突然海面に急降下して浮かんでいる魚の1片をくわえるのを、Brothersは見た。これが、釣り針に付いた餌であると知らずに、その大きな鳥は、釣り針も餌も、一気に飲み込んだ。鳥が飛び去る過程で、釣り針についている糸が張って、アホウドリは海中に打ち付けられた。慌てて鳥は、激しく翼で水をかき、翼をばたつかせながら糸を引っ張った。しかしながら、事態を逃れられるわけはなく、すぐに糸に引っ張られて沈んで行った。その夜、乗組員達は Lindsay Smithの様な科学者や鳥のエキスパートたちがアホウドリの足に付けた番号つきの足輪で一杯になった引き出しをBrothersに見せた。乗組員の中には、それを戦利品(トロフィー)として自身の指に嵌めている者さえいた。次の2~3日の間に、同じようにして更に11羽のアホウドリが釣り針にかかり殺されるのを、Brothersは見た。

彼の観察に基づいて、南半球の大洋で、糸で釣る日本漁船によって投げ込まれる1億8百万(108 million)の釣り針は、最低でも、毎年 44,000羽-1時間に5羽-のアホウドリを殺していることになると、Brothersは計算した。Hobartのオーストラリア南極部門の科学者、Graham Robertsonは、“アホウドリが何処へ行こうと、凶悪な殆ど目に見えない生命の殺戮が、常に起こっている。それは空を空(から)にし、彼らの生存を危地に陥れている。”と言う。
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