創造的深化

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世代としての異性

2015-09-13 16:31:58 | 対幻想
 世代としての異性
異性とは雌雄の自己性以外の、雄または雌という共同の性概念を指している。本来、性愛であれば、異性同士の一対の性関係で成立するはずである。しかし、個人個人異性に対しての好みが働く。つがうには相手を異性として積極的に受け入れて受諾する評価と価値観の目安が働く。恐らく、始めて異性を好きになる場合と、数多くの相手との関係を持ち、異性のことが自分なりに了解できているつもりの個人にとっては、おそらく相手の選ぶ基準は、それだけでも異なってくるに違いない。それは同一人物が時間を経て、異性の経験知を蓄積し、異性にたいする自分の好みと志向の健康が理解できてきて、確認しながら相手をそれらの経験知からさらに確認し深めてみようとする判断や、瞬時に動物的な衝動でかぎ分ける訓練の経験知を持つか、その嫌な経験から異性にたいするトラウマを持ってしまうか、今度はうまく関係を構築したいと慎重にしかも素直に原点回帰するのかもしれない。
 仮に年上の世代が、年下の若年層に自分の若い同年齢の頃の思いを自己撞着させて自己移入しようと思う。あるいは、それはとても無理だと、自分と年頃が同年代の異性への思いを実現しようと思う。あるいは、自分の伴侶への思いをさらに強めて夫婦の絆を強め、維持しようと思う。また、若年層の若者が、異性の相手は同年齢に近いことを決めて、相手を決めようと思う。あるいは、世代や年齢などはまっかく関係なく、異性として相手を選ぼうと思う。こうした、性の幻想はすでに現在では、個人の自由意志に任されるようになっている。例えば、幼稚園、学校などでは、現在の日本は年齢による学年の壁を作ることで、一定の基準を設けた学習内容で横の時間軸で輪切っている。この壁は学校という囲われた世界の中では大きな制約として機能する。しかし、現在は、家庭の中での個人が家制度の崩壊、儒教的家族観の崩壊などの要因から、より個人的、個別的になっている。また、社会あるいは他の個人との出逢いが、新しい出逢いの場の拡散と共に、学校の外との無学年の非学校社会、世代などが無化されている無世代社会との関わりを強く持てるようになってきた。こうした背景は、異世代間の性愛を容易に可能にした。相手を年名例でこだわることも、相手を収入や職業でこだわることも、あるいは血液型や背の高さやセンスでこだわることも、すべては同じ対幻想の固定観念にほかならない。つまり、ひとたびこけらの固定観念を無化すると、いかなる相手も自己の性愛の相手となりうることになる。
 「女性は性の専門家になりうる。」とは、身体機能から簡単に分かることだが、この世代を超えた性愛は、容易に援助交際や性の商品化、性の擬似行為を売買する多様な性風俗へと少女達を向かわせる。18歳から22歳の女性の4人に1人は、さまざまな手段を媒介にして性の売買に、何らかの形で関わっているという。つまり、倫理やモラルなど、男女の間の関係性の規範や抑圧がなくなり、個人が自由に振る舞える状況になってきている。もはや低年齢化自体も問題視されなくなっているし、そうした行為や風俗業への拡散は現実化している。同世代との「性の性愛」という幻想自体が崩壊したい以上、極論としては金銭になりさえすれば、どんなことでもやりかるない層もあらわ利敵手いるということだ。より商品として高く売れる場所へと移動し、あるいは適応するだけであり、情報の共有や情報媒体の進化により、さらにきわどくずるがしこく立ち回ることを学ぶに違いない。
 人間にとって、もっとも重要な精神形成期は乳胎児期と、少年少女期の二回ある。問題は、こうした低年齢の少女達が自らの性を、金銭が支払える大人達の相手となることで、自らの身体を性行為のための売買として商品化していくことにある。いずれは風俗業へと流れていくとして、精神形成期の最も重要な少女期に、あまりにも性体験を偏向させ、それを人間関係、あるいは異性関係間の考え方の核として対人備蓄してしまうと、本来あるべき姿があるとすれば、その心を傷つけ、痛めつける付けることで、こころの歪みや不快ダメージを与え、それが心的病理となることもありうる。非常識の日常が、常識の日常として常態化し、「多くの傷」を負うことは間違いない。そのダメージは、心の傷として具体的には見えないが、ときには異常な行為となって噴出し、あるいは関係妄想として苦しむかもしれない。またそうして植え付けられた関係意識や行為の固着や性愛の変態化などの多様な沈下鬱積は、周囲への関係行動や考えにあらわれ、家庭を持った場合には夫婦関係、子どもとの関係などにも心的病理として悪影響をもたらすことが想像できる。


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