Kameの独り言

思いついたことをありのままに

敗戦記念日 念ずれば花ひらく

2014年08月15日 13時01分06秒 | 仏教

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敗戦記念日
 
このところ、心が尖ったり荒んだり安らぎを感じない日がつづく。
自分は何なんだろう。人って何を感じているのだろう。
8/8の自転車事故以来へこんでいる。


以前から始めたいと思っていた弘法めぐりの第一歩。
三河弘法の遍照院からはじめの一歩。
戒壇めぐりと奥の院の八十八ケ所霊所を参拝する。
「念ずれば花ひらく」坂村真民(お四国の詩人)の碑も拝見した。

新四国、お四国など大仰な遍路はできないが、近くで参拝するお寺で御朱印を頂いてまわる。

岡崎城の中の八千代本店さんで、ひさしぶりに田楽を頂く。





大黒祭

2011年02月07日 10時43分30秒 | 仏教

大黒祭

昨日の愛知県知事選、名古屋市長選、住民投票のトリプル選挙の

壮絶な戦いの結果で、愛知県知事は大村秀彰氏(50)、

名古屋市長は河村たかし氏(62)、名古屋市議会は解散。

新しい愛知県の政治が始まることになった。

菩提寺で大黒祭がこの時期開催される。

多くの檀家が参集して、家内安全・心願成就を祈祷していただき

お札を頂戴して祀る。

よくゴルフをご一緒した近所の寺のご住職にお会いした。

当時はまだ若いお坊さんだったが、すっかり落ち着いたご住職になられた。


南無

2007年10月13日 13時33分08秒 | 仏教

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無観世音大菩薩、南無地蔵菩薩、南無大師遍照金剛)等々、私たちは日常、南無ということばを言い馴れているし、聞き馴れています。
南無とはサンスクリットの「ナーム」で、それを漢字で音写したものです。ナームは「帰依する」ということです。すべてを任すということです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀様に帰依しますということで、浄土宗(じょうどしゅう)、浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)、時宗(じしゅう)などは、六字(ろくじ)名号(みょうごう)といって、このことばを祈りのことばとして、それを称(とな)えることによって、すべての罪も許され、浄土に迎えられると信じます。
南無妙法蓮華経と称えながら太鼓を叩いて勇ましく祈るのは日蓮宗(にちれんしゅう)です。日蓮が釈迦の説かれたお経の中で妙法蓮華経が最もすばらしいとして、それを信仰の中心に据(す)えたからです。
南無観世音は、観自在大菩薩(観音さま)に帰依しますということで、観音さまは現世(げんせ)で我々を幸せに導いて下さると信じ、宗派にとらわれず多くの人々の信仰の対象になりました。
南無大師遍照金剛は、真言宗の人々が称えます。この大師は弘法(こうぼう)大師(だいし)(空海(くうかい))のことです。四国八十八か所の巡礼の時は各札所(ふだしょ)で、必ず、巡礼たちはこれを称えて祈ります。「南無」の会というのが出来て、宗派にとらわれず、僧侶が集まって、仏教を広める運動をして、多大な成果を収めています。「南無」という語はすっかり大衆にとけこんでいて、日本語のように思っているひとさえいます。
中国の求道の心篤い僧侶たちが、国禁を犯して、ヒマラヤの雪山を越え、命がけの苦難の旅をつづけてインドに渡り、そこで仏教を学び、多くの経典を持ち帰りました。
それを中国語に訳したものが、今、私たちが読んでいる漢訳経なのです。それが中国から朝鮮を経て日本に伝えられました。また多くの日本の僧侶たちが命がけで、中国に渡り、経典を写し、持ち帰りました。

南無にこめられた熱い祈り

南無(なむ)ということばにこめられた祈りの熱さは、そうした人々の命がけの尊い努力がこもっています。何宗によらず、信仰の行きつく最後のところは同じだと思います。
「信は任すなり」といいます。任すとは、自我を捨て去って、全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)を仏に捧げ、どうともして下さいと身を投げだして、お任せすることなのです。
 私たち凡夫(ぼんぷ)のはからいなど、たいしたことはありません。人間は生きている上で、考えられないような様々な災難や苦労に遭(あ)います。その時、自分の信じる仏に「南無」といって命も運命もお任せしてしまえば、そしてそれが出来ればどんなに気が楽になることでしょう。そこから必ず道が開けて来るのです。


三世

2007年10月13日 13時26分46秒 | 仏教

 仏教ではこの世を現世(げんせ)と呼びます。私たちは現世に今、生きているわけですがこの現世に生まれる前に、すでに魂があって生きていたと考えます。生まれる前の時間を過去世(かこぜ)と呼びます。過去世は長い長い、無限の時だったと考えます。
 過去世から、私たちは選ばれて現世に生まれるわけですが、生まれたとたん、過去世の記憶は失っていますので、どんな暮らし方を過去世でしてきたか覚えていません。
 現世で、八十年か百年生きたら、私たちは必ず死にます。死んでも、魂は生きつづけていきます。死んだ後の世界を来世(らいせ)と呼びます。来世は過去世と同じく、やはり無限のはるかな時間を持っています。

悠久の時にはさまれた現世

私たちの今生きている現世は、悠久(ゆうきゅう)の過去世と悠久の未来にはさまれたほんの短い時間です。せいぜい長くて百年ばかりです。
たとえていえば、サンドイッチのパンにはさまれてたハムよりも薄い短い時間です。
その短いこの世で、私たちは、あれこれと悩み、煩悩に苦しみ、病苦に責められ、死んでいくのです。
どんな金持ちになろうと、出世栄達しようと、死んであの世に行く時は、財物も名誉も何ひとつ持っていくことはできません。この現世だけがすべてだとしたら、なんとはかないむなしい人生でしょう。
私たちが、この世だけの生き物だとしたら、本当につまら
ない。人間はどこから来て、どこへ行くのか、あらゆる哲学
はここから生まれています、あらゆる芸術もそれを追求しつ
づけてきました。
仏教は過去世(かこせ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)という三つの世を人間は行きつ
づけると考えたのです。これを三世(さんぜ)の思想といいます。
私たちはこの世での快楽だけに満足しようとしたり、この
世で苦労に不平不満を吐いたりしますが、悠久(ゆうきゅう)の三世(さんぜ)の時
間の中では、現世(げんせ)なんて、ほんの一つの点にすぎないものだ
と思えば、心にゆとりが生まれます。
この世の苦労は、来世でよりよい生活が出来るための修行
だと思えば耐えることができるでしょう。
私が出家して横川(よかわ)の行院(こういん)で行をしていた時三(さん)千仏(ぜんぶつ)礼拝(らいはい)という一番厳しい行がありました。
三千仏の名を称(とな)えながら一日に三千回五体(ごたい)投地礼(とうちらい)をするの
です。三千仏とは何かといえば、過去世(かこぜ)、現世(げんせ)、来世(らいせ)の三劫(さんごう)に出現する三千の仏陀(ぶつだ)だと教えられてきました。三千の仏名はとても覚えられず、教師から口移しに称えながら、無我夢中で五体投地礼をつづけたものです。
三千の仏名はすべて忘れましたが、あの苦しさと、終わったあとの爽快感(そうかいかん)だけは、三十年後の今も、なまなましく身にも心にもありありと残っています。


愛別離苦

2007年10月13日 13時23分40秒 | 仏教

 人生では、生老病死の四苦(しく)の他に、まだ四つの苦があります。愛別離苦(あいべつりく)、怨憎(おんぞう)会苦(えく)、求(ぐ)不得苦(ふとくく)、五蘊(ごうん)(五陰(ごおん))盛苦(じょうく)といわれますこの四つと前の四苦を合わせて四苦(しく)八苦(はっく)と呼んでいます。
 愛別離苦とは、愛する人と別れる苦しみです。生別もあれば死別もあります。肉親に死別することも、友人や愛人に死別することもみんな悲しく苦しいことです。また老人が死ぬのは順縁(じゅんえん)といってあきらめもつきますが、自分より若い子供や孫に死なれるのは逆縁(ぎゃくえん)といって、これほど辛いことはありません。
 逆縁にあった母親が気が狂うほど嘆(なげ)き悲しむのは、慰めようもありません。もっと辛いのは、愛する人に自殺されることです。また愛するものが殺されることです。不況のためか年に三万人が自殺している昨今です。残された家族の苦痛はどんなに深いことか。
 北朝鮮の理不尽な拉致によって、家族が引き裂かれ、別れなければならなかった悲劇は、まだ解決を見ないまま、私たちの前に存在しています。生きていれば、いつ、私たちにふりかかってくるかわからない愛別離苦です。
 怨憎会苦(おんぞうえく)は、それと反対に、怨み憎む(うら にくむ)ものとこの世で会わなければならない苦しみです。
 どうしても好きになれない横暴な上司や、生意気な部下と毎日顔を合わせ、厭々(いやいや)仕事をしなければならない場合もあります。
しまいにはいやな気持ちが嵩(こう)じてノイローゼになってしまいます。
 子供の不登校なども、いじめっ子に会うのが原因という場合も多いのです。
 求不得苦(ぐふとくく)というくるしみもあります。これは欲しいものが手に入らないという苦しみです。
 自分はあの人が好きで、こんなに需(もと)めているのに、相手は自分の方をちっとも向いてくれず、他の女と仲良くなってしまったというのも求不得苦です。
 もっと大きな家が欲しい。車を買い替えたい。ブランドのハンドバックが欲しい。ダイヤが欲しい。あの豪華な着物が欲しい。しかし、お金がなくて、何も買えない
 そんな物をプレゼントをしてくれる男が欲しい。しかし一向にあらわれない。人間の欲望は限りなくあるので、欲しいものも限りなくあります。そのほとんどが手に入らないのが、現実の世の中です。それが、苦しい。

欲望が敵(かな)えられない苦しみ

 五蘊盛苦(ごうんじょうく)という苦しみが残っています。五蘊とは人間の体を構成
している五つの要素をさします。つまり、人間の体や心の中で欲望
が燃えさかり、それが敵(かな)えられないので苦しむことです。
 体のかもしだす苦しみといえます。過食(かしょく)、アルコールの依存症(いぞんしょう)、薬物(やくぶつ)依存(いぞん)、セックスの苦しみ、すべて五蘊(ごうん)盛苦(じょうく)です。
 この四つを、前の四苦(しく)と合わせて四苦(しく)八苦(はっく)というのです。
 生きているかぎりついて廻(まわ)るこの世の苦から逃れるには、仏(ぶつ)、法(ぽう)、
僧(そう)の三法(さんぽう)に帰依(きえ)して、八正道(はっしょうどう)を実践するしかないと仏教は教えています。


生老病死

2007年10月13日 13時16分20秒 | 仏教

 釈迦(しゃか)は、この世は「苦の世」だと断定されました。この世はまず、生(しょう)、老(ろう)、病(びょう)、死(し)という四苦(しく)があると教えられました。
 生まれる時のことを覚えている者はいません。でも、狭い産道を通ってくる時、苦しくなかったとは言えません。鉗子(かんし)で頭をはさまれたり、逆子(さかご)で出てきたり、また帝王(ていおう)切開(せっかい)でこの世に生まれてきたり、色々怖いめにあいます。それに苦の世と定められたところに生まれてくるのだから、生まれるということが苦にちがいありません。
 さて、生まれたその瞬間から、人間は老いに向かって歩き出します。いやだといっても、人はすべて老いるのです。体が弱り、不自由になり、目が薄く、耳は聞こえなくなり、肉は落ち、しわが出来ます。頭も鈍くなります。
誰だって老いを恐れ、いやがります。
また生きていたら、さまざまな病気になります。どんな丈夫な人でも、伝染病(でんせんびょう)がはやれば防ぎきれません。SARS(さーず)のような得体(えたい)の知れない病気に脅え(おびえ)なければなりません。
交通事故や天災や人災、戦災で、死なないまでも、ひどいけがや病気になることもあります。長生きしても痴呆(ちほう)になったり寝たっきりになるのは、苦痛でしかありません。
そして人生の最後は、一人残らず死への旅立ちです。
死は誰も経験したことのないない未知のものです。あの世とは果たしてあるのか、ないのか、誰にもわからない。地図のない国への旅立ちは不安と恐れがあるばかりです。また死に至るまでの病苦はたまらない。
生きるということは、これら四つの苦しみで成り立っているのです。
この四苦は、人の身分、貧富(ひんぷ)の差など関係なく味わわなければならないのです。


般若心経について

2007年10月13日 12時23分26秒 | 仏教

「般若心経」は、大乗諸経典の中でもよく釈尊の真意に適っているとして、開祖が、最初期から「金剛禅教典」の一つに加えられたものです.

「不立文字」を旨とする禅宗でも、達磨以来、この経は「観音経」と並んで、よく読誦されています。

 金剛禅では、日常の鎮魂行にも、儀式行事にも「般若心経」を唱和する習慣はありません。

 ただ、開祖が、この経典を数ある諸経の中から選択されて、わざわざ「教典」の中に取り上げられた意義を理解し、この経の意味を学ぶことは大切です。

[参考]般若心経

 仏教の基本聖典で、大乗仏典の一つ。詳しくは《摩訶般若波羅蜜多心経》という。

 サンスクリットの原題は、《プラジュニヤーパーラミター・フリダヤ・スートラ》(般若波羅蜜の心髄たる経典)。サンスクリット原典(大品・小品の2種)のほか、チベット語訳と7種の漢訳が現存する。一般に唐の玄奘(げんじよう)の訳する276字の漢訳(小品に相当)が知られ、同じ玄奘の《大般若経》600巻の精髄とみられた。

 内容は、表題のとおり、広大な般若経典の心髄をきわめて簡潔にまとめたもので、観自在菩薩(観音)が般若波羅蜜多(完全なる智慧)の行を修めて五薙(ごうん/存在の五つの構成要素)が空(無実体)であると悟ったことから説き起こし、仏弟子舎利子に対し、一切の存在が空であることを説き、最後に真言を説いている。

 とくに物質的存在は無実体であり、無実体なるものが物質的存在であるという意味の(色即是空、空即是色)という文句はよく知られる。

 サンスクリット原典は古くから日本に伝えられ、とくに法隆寺に伝わる小品の貝葉(ばいよう/609年将来)は貴重な文化財となっている。《般若心経》は中国と日本を通じて、各派で日課経として誦(よ)まれたため、玄奘門下の慈恩をはじめ、空海の注釈など、多くの注釈が書かれて、その数約300、近代の講義も200種を下らず、今も盛んに作られつつある。

 とりわけ禅では、達磨のものという 《心経疏》をはじめ、古くは四川の智潰と南陽忠国師、日本では大覚禅師、一休、盤珪、白隠のものが特色をもつ。


仏教の経典

2007年10月13日 12時20分52秒 | 仏教

仏教の経典 仏教の典籍(書物)は、通常、「経」「律」「論」の三種に分類されます。「経」は釈尊の教説をまとめたもの、「律」は出家僧侶の生活規則を定めたもの、「論」は教義上重要な項目に解釈や解説を施したものを指します。 釈尊の入滅後、弟子達は、釈尊の教えを正しくとどめるために、「けつじゅう結集」という経典編纂会議を開いて、教えの定型化・共有化を図りました。このとき成立した最初期の経典群は、“伝承された教説”を意味するアーガマの漢訳語で「阿含」と呼ばれます.金剛禅の「聖句」の二句は、ともにこの阿含経典群の一つの「小部」に属する「法句経」から開祖が選ばれたものです。 仏教経典には、この「阿含」経典群だけでなく、膨大な数の経典が伝えられています。その大部分は、釈尊から数百年後に成立した大乗仏教の時代になって作られたものです.仏教が、出家僧侶中心の学問仏教となり、人々を救済する布教力を失っていったことに猛反発して、世俗の悩める多くの人々を救済してこそ真の仏教であると興起したのが大乗仏教でした。 大乗仏教は、釈尊の真意を明らかにしようと次々と多くの経典を生み出しました。そのためか、ほとんどの大乗経典(「般若経」「維摩経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」等々)は、「仏説」と銘打たれ、釈尊の法話を直接聴聞したという形式をとっています。「如是我聞(このように私は聞いた)」です。[参考]宝諒の経典 中国・朝鮮・日本など東アジアヘは、大乗仏教が伝わりました.大乗経典群もほとんどが漢訳され、これらの大乗経典をもとにして宗派が成立します. 中国の仏教者たちは、インドから伝えられる大量の経典のすべてを、釈尊自身によって説かれたものと見なしました.ところが、それらの経典群の内容を検討すると、教義的に矛盾する点があるのに気づきます。そして、その理由を釈尊の「応病施薬」(人々の能力や悩みに応じて、それぞれにふさわしい教えを説く)の結果であると判断しました。そこで、すぐれた他教者たちは、自身の抱えている問題意識をもとに、経典を分類し位置づけしたのでした。 このように、すべての経典を釈尊一代の説法として、それぞれの形式や内容を分類し、体系づけ、価値を決めて釈尊の真意を明らかにしようとすることを「教相判釈」といいます。また、それによって、これこそ釈尊の本意中の本意であると判断した経典を「正依の経典」又は「所依の経典」とし、その経典を拠り所として各宗派が誕生していくのです。 なお、このような経典の扱い方は、以下のように日本の各宗派にも受け群がれています。<日本の主要宗派の「正依の経典」> 天台宗‥・法華経 真言宗‥・大日経(他に金剛頂など四部) 浄土宗…無量寿経・観無量寿経・阿鉢陀経(浄土三部経) 浄土真宗…  〃  (特に無量寿経) 日達宗・日蓮正宗…法華経 臨済宗・曹洞宗・黄檗宗・‥「不立文字」の故に、特に定めないが、金剛経・大般若理趣分・般若心経等を用いる。


四諦八正道・四苦八苦

2007年10月13日 12時11分08秒 | 仏教

四諦

苦諦 人生は苦しみの世界である

集諦 苦の原因は欲望からである

滅諦 苦から逃れず人生苦を克服する道

道諦 苦悩克服の具体的な実践方法の八正道

八正道

 正見 正しい見解でありのまま本質を見る

 正思 正しい判断 善悪の決断

 正語 真理を伝え人の心を助ける

 正業 正しい行動

 正命 正しい生活から職業を通じて人に奉仕する

 正精進 正しく努力する 全てに励む

 正念 正しい信念を持つ 奉仕の喜びを知る

 正定 精神を統一し なすべきことに全神経を集中する

四苦八苦

 生老病死 人間についてまわる苦しみ

 愛別離苦 愛する者と別れる苦しみ

 怨憎会苦 憎む者と一緒に居る苦しみ

 求不得苦 求める物が得られぬ苦しみ

 五取蘊苦 心と体の働きが生む苦しみ

三法印

 諸行無常 万物は常に変化する

 諸法無我 因縁因果の中の自己

 涅槃寂静 執着心から逸脱した悟り

 一切皆苦 世の中は全て苦である(一切皆苦を含み四法印とする)

五戒

 倫盗戒 邪淫戒 妄語戒 殺生戒 飲酒戒