天台念仏の神髄を説いているのは、四明知礼が著した観経妙宗鈔に尽きると思います。
明代に輩出した天台四高僧の一人、智旭は参禅により証悟した方ですが此の書を非常に重視していました。江戸期の日本天台は妙立慈山、霊空光謙等により四明天台を正統天台学としますが、中古天台から脱却するため当然の帰結かと考えます。此の観経妙宗鈔には三心は結局円融三諦であることが示されています。法然義は三心の称名念仏を軸としたものですが、因位の凡夫に於いて最勝の法門としています。日蓮は念仏を激しく排斥する論を展開するんですが、妙立慈山は法華経を讃めるものの、他経の法華開会を閉じた教えと結論づけています。日蓮が唯一無二とする名字即成仏は自宗旨のみに在るとの論ですが、観経妙宗鈔から云えることは法然義が勧める三心の称名念仏にも円融三諦は成立するってこと。円融三諦の観は一心三観、即ち円観であり、日蓮義が云う処の乗種にあたります。此れは観心からのみ導いた論ですが、南無阿弥陀仏自体が無上種子であるのは、往生拾因、観心略要集、三部経大意、秘密念仏抄からも明らかです。
明代に輩出した天台四高僧の一人、智旭は参禅により証悟した方ですが此の書を非常に重視していました。江戸期の日本天台は妙立慈山、霊空光謙等により四明天台を正統天台学としますが、中古天台から脱却するため当然の帰結かと考えます。此の観経妙宗鈔には三心は結局円融三諦であることが示されています。法然義は三心の称名念仏を軸としたものですが、因位の凡夫に於いて最勝の法門としています。日蓮は念仏を激しく排斥する論を展開するんですが、妙立慈山は法華経を讃めるものの、他経の法華開会を閉じた教えと結論づけています。日蓮が唯一無二とする名字即成仏は自宗旨のみに在るとの論ですが、観経妙宗鈔から云えることは法然義が勧める三心の称名念仏にも円融三諦は成立するってこと。円融三諦の観は一心三観、即ち円観であり、日蓮義が云う処の乗種にあたります。此れは観心からのみ導いた論ですが、南無阿弥陀仏自体が無上種子であるのは、往生拾因、観心略要集、三部経大意、秘密念仏抄からも明らかです。
墓相と云うと、其れを商売にした悪徳業者も居ます。この辺り注意が必要ですね。
日蓮の御書を其の儘鵜呑みにするのは、愚の骨頂なんですね。南無阿弥陀仏のお念仏は立派な仏種なんです。ただ、天台の一心三観、一念三千観の道理は知るべきでして、一念三千、一心三観と南無阿弥陀仏は一体と考えるべきです。法然義は脇道の三心ばかり強調しすぎています。
墓制が究極、家運の基、運を変える切り札でして、自身の宗教観と次元が違うんですね。
例えば、浄土念仏系の宗旨が家の宗旨なら、阿弥陀さんが其の家での御本尊なんですね。
一心三観が仏法の基ですが、此の時南無阿弥陀仏に一心三観を仏法の血脈として相続するわけです。
つまり、家の宗旨と仏法血脈との一体化ですね。
墓制と宗旨は一体でして、コロコロ宗旨本尊を変えるべきではないんですね。
天台から派生した日蓮義の名字即成仏も一心三観を出ないんですね。
叡空より円頓戒の戒法を相伝された法然は、此の円頓戒から一心三観を除きました。此のことを恵尋は批判していますが、まさに当然かと思いますね。
三心を軸とした新たな仏法を確立するとは云え、伝教大師の主旨に反した行いかと思います。
日宗は基の一心三観を南無妙法蓮華経と約したわけです。
最終的には四明知礼の念仏観に至るわけで。
大谷派の現代宗学は革新的で、一心三観の阿弥陀念仏寄りかと思います。
本願寺派は保守かと思いますね。
此の持論は最晩年訂正されたようですが。
真宗の宗学から見れば死後を基本としますから、現世往生は禅宗的では在ります。然しながら、親鸞聖人の著書を拝見しますと、曽我師の訂正前の持論は当たっている様に思いますね。何故なら、聖人の文章から現生正定聚の境地が感じられるからです。現生正定聚→現世往生と考えるのは必然ですからね。
此れは浄土三心世界の一元化なんですね。阿弥陀仏と一体化しているので、娑婆世界と阿弥陀仏国が重なっており、現世往生していますから、此の娑婆世界が往相、還相の地なんです。阿弥陀仏国が真(中諦)とすれば、娑婆世界は仮諦。そして此の中から空諦の想いが生じます。居ながらにして、三諦三観、一心三観を行じることになります。
前にもブログに書いたんですが、在阪の有名な霊能力者に観てもらった時、先祖のお念仏する声がしてるって言われたことが在りました。
此の方に未来のことも指摘されましたが、全部当たってました。
想うに、先祖の信仰って子孫にも影響が在る様に思いますね。
嫁さんが絶対帝王切開だけは嫌やって言う始末で。其処で、無理は承知で、宇治にある宝寿寺小松住職の奥さんに、聖天さんの祈祷を依頼したんですね。
逆子、治りましてん。
産科医がまず有り得んと、驚いていましたね。
八尾の天台院まで出向き、星野住職に供養を依頼した時の話。(今から35年前です)
住職の作法中、涙がポロポロ出るんですよ。吃驚しましたね。全然供養されてなかったんで、先祖が喜んだ涙だと感じましたね。因みに、私の父親の葬儀も住職に頼みました。
先ず一つめは円乗の教え。二つめは観法。三つめが霊学です。
円乗の教えって、名字即成仏の根幹なんですね。三昧発得しなくても、未来世には必ず成仏するパスポートが獲られるわけで。観法なんですが、此れは善導大師、法然上人が説かれた称名念仏が最勝なんですね。霊学なんですが、此れって直接自身の運気とかに関係します。迷信的なのが大半なんですが、真実を語っている部分もあり、無視出来ないんですね。
また、日蓮信徒も浄土三心を踏まえた上で法然義の真髄を理解するべきなんですね。
大乗仏教の信徒として、必須項目だと私は思いますね。此れを教えないのは当に無慈悲だと考えますね。日蓮が反法然義を掲げたのは当に此処かと。浄土宗旨の専門僧侶等は教相で浄土教を学ぶに際し、円乗の教えを習うんですが、一般人は取り残されているんですね。
浄土三心は仏様が証果を獲る前段階、凡夫証因の観です。四明知礼が観経妙宗鈔で観経三心を円融三諦と説いているのは、証因の観は結果的に証果である円融三諦と同じだからなんですね。
胎蔵界は自身心中にある密蔵曼荼羅に得入し、瞑想する観法です。
対する金剛界は法界の大日を自身に入我我入させて、其の自身に引き入れた大日の密蔵曼荼羅に得入し、瞑想します。
其れは現証が在るからなんですね。
念仏で証悟した善導、法然を始め、一遍、普寂、徳本、山﨑弁栄と複数人存在しています。
私は此れを採りません。以前にも書いたんですが、古代インドの学問は口伝、暗唱が基本なんですね。最近のインドでも学者家系は六法全書並みの量を暗唱記憶し、代々口伝で伝承しているんですね。しかも其れがサンスクリット語だから驚くべき能力です。
私の基本軸は修道論による証悟、証果でして、天台大師が説いた教えを章安大師が書き遺したのが天台三大部。例えば臨済宗の白隠慧鶴なんかは天台の教えを、自身の証悟から肯定しています。
日蓮義は反法然義が骨子なんですね。後年、其れは反諸宗義になるんですが。三大秘法義なんかはやはり人為的創作の感が拭えません。
一つめは観念の念仏。此れは摩訶止観で説かれた天台念仏です。二つめは往生要集、此れは恵心僧都源信が著した中の念仏。学問の念仏です。三つめは一文不知の念仏、善導流の念仏ですね。
此の法然上人が聖光上人に説明した同じ内容が、源智上人に与えられた一枚起請文なんですね。
端的に私考で説明すると、仮想の仏国は方便なんですが、実は自身の心中に本来実在する仏国だと云うことを識らしめる教えなんです。
方便が実は方便ではなく、本当だったと云う真に奥深い仏様の教え、其れが浄土教です。
私考で説明すると、至誠心→至心とも云いますが、此れは阿弥陀仏の教えを信じることです。以心得入ですね。難信難解の仏法は先ずは信から入るしか在りません。仏法の大前提ですね。但し、善知識の信でないと、アングリマーラみたいになります。
深心→信楽とも云いますが、私考から言わせてもらうと他力の感応道交ですね。自分と阿弥陀仏が一緒になった状態です。更に云えば、阿弥陀仏の働き→他力で信心を頂き一体化したわけです。→一体化→自分の中に阿弥陀仏が入ったわけですから、信→楽を生じるわけです。もうこうなると、愚痴、濁悪の自分自身ながら心中阿弥陀仏がいらっしゃるので、仏心が消えないんですね。
廻向発願心→欲生我国、単に欲生だけで云う場合もあります。要はお浄土に往けば、往相還相を現じて穢土も浄土にしたいと云う想いです。
此の心って、実は大抵の人がみんな持っている想いなんですね。世界平和とか皆さん当たり前に持っています。但し、今の自分はそんな力は無いんでって云うのが、此の善心を妨げているだけなんですね。
此の心って、他力の発菩提心なんですね。
此の三心って理屈ではなく情緒から成り立っています。此の三心で称名念仏を行う時、三昧得入出来ると祖師等は説いているんですね。
当時、法然系の弟子等の中には、念仏を天台の一心三観義で捉える人が少なからず居たようです。
台家を学んでから法然門下に入った人が多かったんで、当然と云えば当然ですね。
此の浄土三心こそ、法然上人が独自の宗派を立ち上げるきっかけですからね。宗旨の要とも云えます。
日蓮は浄土教なんかは、鎌倉時代の修行していた若年期に会得していた。なんて手紙に書いています。
え?ホントに?と思いますね。
実は何も分かっていなかったのが真相なんですね。
浄土教義は浅いようで、中々に難しいんです。其れは理屈以外に情緒も絡んだ教えだからなんです。浄土の教えを曲解しないため、設けられたのが五重相伝です。
此の浄土三心って奥深い教えなんですよ。浄土宗旨は五重相伝で此の浄土が説く三心を伝法するんですね。
日蓮は爾前や諸宗派には円観の教義が無いから成仏は出来ないと結論づけているんですね。
浄土三心に円観義は無いんでしょうか?
浄土三心は円融三諦→一心三観だと説いていた方が居ましたよね?→四明知礼です。また、四明知礼を敬慕していた智旭は浄土教肯定派です。
日蓮だけなんですよ、祖師でおかしなことを主張しているのは。
そんな日蓮義は諸宗派からも批判に曝されることになります。天台僧円信の「破日蓮義」が其の一つ。湛然の法華文句記には、爾前と法華の円教は体内、体外の差はあれど異ならずとしています。本来法華の精神は諸経を開で繋ぐのに、日蓮は破で諸経、諸宗を分断していると云うのが主旨です。
浄土宗旨系の日蓮義批判では、真宗覚如の法華念仏同体異名事、存覚の決智鈔、六要鈔。浄土宗の実恵が書いた摧邪興正集、袋中の選択之傅、岸了の弁無得論。
真盛宗の真迢が著した破邪顕正記があります。
結構多かったのが、創価学会の信心をやっていて精神を病んだ方だったんですね。
日蓮聖人の御書に書かれたことを、原理主義的にやれば日蓮正宗が云う右傾化した布教活動になります。昔の学会は生活の糧を獲る仕事よりも、学会活動が優先されました。また、其処での布教活動とか、選挙活動なんかで、周囲との軋轢や自身の精神負担も大きいんですね。また、根本的に本来的にある自身の融和精神と、日蓮が説くイケイケ精神とのギャップが大きな負荷になりやすいんですね。心の弱い人が背負う負担ってかなりなものなんですね。
日蓮の教えは、合う合わないが極端に出やすいと感じましたね。
また、自身の心を内省しても、先に挙げた善心に対して、悪心がわんさか在ります。
他力信心は此の二つの乖離を見事に止揚する信心だからなんです。
浄土の信心を掴めば、此程楽な信心は在りません。
何故、学ばないのか不思議になります。
また、信心がブレないです。
日蓮聖人と違い、おかしなことを浄土祖師派祖達は述べていないので、スッと言葉が入り易いです。
深心、信楽って感応道交だと思います。
自力の発心って四弘誓願に代表されますが、実に高尚な精神発露です。円頓戒を受けると誓うんですが、後から自身を振り返って自分を偽っているなって内省するんですね。気持ちは在るんですが、なんかモヤモヤ感が拭えません。観経三心中の回向発願心や大経の欲生我国は浄土の倶会一処観から来る他力発心です。此れなら自分も想えるし、虚仮では無いと感じるんですね。本当に自力はハードルが高すぎます。
私自身、法華からなんで何なんですが、善導大師って天台大師とは違う観心アプローチなんですね。此の善導流の念仏を見出した法然上人も凄いですわ。
此の善導→法然と云う路線が無かったら、日本の仏教界はつまらないものだったと思いますね。
だって、大悲心を感じる仏教って、浄土念仏が一番ですからね。
其方に善導大師の写真を見せられて吃驚。「此れ善導さんやねん」とおばさん。
浄土宗は仏壇の掛け軸に善導大師と法然上人をお祀りしているので、親近感が常にあるからだと思います。私のとこは真宗の坊さんには来てもらってはいませんが、親鸞聖人と蓮如上人の掛け軸です。
なんで吃驚したかと云うと、浄土宗の話題をブログに書き込んでから、直ぐ善導大師の写真を見せられたからなんですね。なんか繋がりとか裏で引き合わせる何かが在るのかなと?
法論していたら、日蓮は負けていたかも知れませんね。ただ日蓮が勝つことは絶対になかったでしょう。
日蓮は此の法論を自ら避けています。
日蓮自身分かっていたんですね。自身の宗義に無理があることを。
日蓮とて天台顕密を学んでいます。其処から云えることは当然、無理を承知で宗義を主張していたはずです。
時代は遡り室町期頃には、阿弥陀念仏に戒体が在るのか無いのかを問われ出したんだと思います。
まあ、戒体と云うのも変で、乗種が正しいかと考えます。戒体って身に体する戒ですから。
此れ、日蓮は明らかにわざとボロクソに言っていますね。良く言えば法華宣揚のための方便ってとこかと。法華にしか仏種が無いと言えば、法華に皆は集まりますからね。
南無阿弥陀仏に円観乗種の義が在るのは、観心略要集を始め沢山解説書が在ります。自宗旨に引導後、閉じてしまう宗義の手法を日蓮義は取るんですが、此れが後年カルト教団を派生させる要因にも繋がるんですね。
善導流からの秘訣があって、其れは自身を一文不知の身に置き、自身と阿弥陀仏の二元化から他力三心の称名念仏を中心軸にした三昧獲得を目指すんですね。法然義にとって往生はその過程に於ける副次効果なんですよ。天台は始めから自身の心操に意識を砕く観法なんですが、色々な障りを生じ易く三昧得入が難しい法門と法然さんは看破したんですね。此れが此の宗旨が自宗旨の法門こそ最勝だと、選択した秘密の教えなんですね。
他力、自力と云う深い洞察が根底にあったんですね。あと、自分自身の器です。其れを踏まえた上で、最勝の法門を選択。そして浄土宗旨に辿りついたわけですね。
此れは博多の仙厓和尚のもとに、石見太田の真宗僧侶が後生の一大事を訊ねるために来訪。然し、けんもほろろに怒鳴り散らされ、挙げ句は対面相手の和尚にぷいっと其の場から立ち去られたんですね。
此の真宗僧侶は住職だったんですが、疑蓋からまだ信心が不徹底だったんですね。
此の疑蓋って、真宗の教えにとっては大問題なんですね。正定聚を獲ていない、つまり安心を獲得していないわけです。安心から報恩感謝のお念仏が真宗念仏のスタンスですから、姿形だけが真宗僧侶なんですね。
私自身、法華から浄土に信心の軸が移ったものなんで、何なんですが、南無阿弥陀仏は南無妙法蓮華経以上に難しいんですわ。南無妙法蓮華経の場合、理論的に名字即成仏が完成されています。また三大秘法義も在るので、信に入り易いんですね。理屈さえ分かれば。法然義系は先ずは信心を強調し、現代人から見れば虚仮威しとしか想えない極楽を提示します。理屈から疑蓋をとるには、法華経の極理と知り、証悟した先人の論書等読んで腑に落とさないと疑蓋は取れません。理屈ではなく、信心のみで入れる人はその点楽なんですね。
南無妙法蓮華経だけが成仏になるための唯一無二の法門っておかしいやろ?が基本です。