■創価学会ってなに?
詳しいことを知りたい方は↓へ
創価学会公式サイト
wikipedia
では、サックと本題に移ります。
■創価学会になんで入るの?
創価学会の会員は、機会があれば周りの人に入会を勧めます。かつてもっとも一般的な勧誘方法は、「幸せになれるよ」とか「拝むだけで幸せになれる宗教があるよ」というやり方でした。
そして、座談会に誘われます。座談会は月に一回地域ごとに開かれている会員達の基本的な集まりで、初期は会員の家、最近は会館を使って行なわれます。
ここで行なわれるのは、会員の体験交流です。自分の悩みが信仰により成果につながったというような体験が語られていきます。かなり生々しく踏み込んだやりとりが行なわれるようで、みんな熱心に聞き入り、中には励ましの声も上がるようです
。
このような集団的、社会的なサポートに惹かれて創価学会に入会する人が多かったようです。
「多かった」という過去形の表現には理由があります。
上のグラフを見てください。
創価学会が創設されたのは戦前の1928年です。これから3000人程度の会員を集めますが、戦争+ゴタゴタで会員は創設者1人に戻ります。戦後、その状況から、1970年まで、会員数は急激に増えていきます。
これはなぜでしょうか?
戦後~70年までは「高度経済成長期」であり、急速に経済発展していきます。そうなると、農村から都市へ、どんどん人が流れ込みます。
その当時の農村は、共同体気質が残っており、周りの人は全員知り合いで、当然フランクに話ができたり、悩みを相談できる状態にありました。
しかし、都市はどうでしょうか?周りは知らない人だらけ、へたをすれば挨拶さえありません。
人は共認動物なので、周りとつながれない状態になってしまうと不全をかかえてしまいます。その共認非充足を処理する受け皿となったのが創価学会です。
創価学会は、先ほど説明した座談会という地域コミニティーに加えて、
①勤行(毎日の信仰行為)
生活に一定のリズムと規律を与えることで、困難な状況に対して余計な事を考えたり、落ち込むことなく、前向きに精神を集中できるようになる。
※基本的に各自で行なうが、唱題会という形で集団で行なう機会も設けられている。
②教学(日蓮の書状内容を中心にした勉強)
特に戦後の農村から来た人々は、文字や言葉を習得する機会が少なく、都市で働くにはハンデがあったが、この教学のおかげでハンデを克服することができた。最近では全国的な試験も行なわれ、試験を合格すると一定の地位が獲得でき、会員達の知識欲の向上に役立っている。
③金のかからない宗教
会員になると『聖教新聞』と『大白蓮華』という会の月刊誌の購読というものがあるがこの費用以外に別途会費は存在しない。それ以外には「財務」と呼ばれる会員の寄付がある程度である。具体的にこの財務は12月に銀行の振込期間を設けて1口1万円で何口でも可能というやり方をとる。
以上のような「地域コミュニティー」や「コミュニケーション能力向上プログラム」をリーズナブルな値段で提供することで、創価学会は大衆の共認非充足を解消し、会員を増やしていきました。
しかし、70年を過ぎると、学会への収束力が落ちます。なぜか?
それは、日本全体で豊かさが実現されたからです。
ここで、2010年10月17日に行なわれたなんでや劇場レポート「社会共認の歴史⇒これからは事実の共認」からその構造に迫ります。
>近代になって、宗教への収束力が衰弱した「神が死んだ」のは何故か?(その後、'70年になると、近代思想も生命力を失って死ぬ)
>①最も決定的な要因は、自然圧力の低下である。
原始時代の精霊信仰以来、観念は自然圧力に対応するために作られてきた。→自然圧力を克服するにつれて観念(宗教)への収束力が低下したのである。
>②古代・中世ヨーロッパの救い欠乏を強く孕んだ大衆が、宗教(キリスト教)に強く収束したのは、そこにしか可能性がなかったからであるが、逆に市場の拡大によって、現実に私権拡大の実現可能性が開かれると、宗教への収束力は衰弱した。
>③共認非充足は宗教or芸能によって解消するしかないが、非現実の架空観念である宗教よりも、刺激の強い芸能の方が収束力が強いため。
>改めて、近代市場社会を振り返ると、次のような構造になる。
>3重の圧力(自然圧力×同類闘争圧力×支配圧力)からの脱出口としての市場拡大=豊かさ期待に突き動かされてきたのが近代である。そのために自我や私権拡大を原動力とした結果、共認非充足は甚だしくなった。その代償充足手段としての芸能に万人が収束していった。
豊かさが実現したことにより、宗教という架空観念では本当の共認充足が得られないということが決定的となり、大衆の意識がより収束力の強い芸能に向ったため、学会の収束力が落ちたと考えられます。
そこで、学会も70年以降方針を変え、学校を整備するなど、既存の会員達をいかに維持し、家族的に再生産していく方向に転換しました。
創価学会が急拡大した背景には時代の流れを読んだシステム作りがあったようですが、今後の急拡大は難しくなりそうです。
ちなみに、大衆の次の収束先はどうなるのでしょうか?
芸能?
でも最近衰弱してますよね。
なんでや劇場レポートの続きは次のようになっています。
>ところが、'02年頃、一転してCD売上はマイナスに転じ、TV離れが顕著になる。これは何故か?
>市場社会は豊かさ期待と私権拡大が活力源であったが、'90年バブル崩壊によって私権拡大の可能性が消滅する。
ここから現代は出発する。
>万人の意識の心底に収束不全が蓄積されてゆく。そして、新たな可能性収束先の探索が無意識に始まる。
そこで、意識の最も深い部分にある本能は秩序収束してゆく。∵本能は、自然圧力に対して生命が適応するため⇒秩序化するために塗り重ねられてきた、秩序化の体系だからである。
>とりわけ人類にとって、秩序は共認によって形成される。だから収束不全から直ちに共認収束のベクトルに入ってゆく。最初は、'80年代に始まる仲間収束⇒'02年頃、私権観念が崩壊し収束不全が増大すると、次の秩序収束先として、課題(勉強・仕事)に収束する。そして、課題収束は必然的に追求に向かうので、追求と逆ベクトル(弛緩過程)にある遊びはうち捨てられてゆく。これが'02年以降、芸能や娯楽が衰退してきた理由である。
>そして、秩序収束に立脚した共認収束⇒課題収束というベクトルの最終収束先は、認識収束しかない。ここまで当事者欠乏が生起して来たということは、娯楽をはじめとする代償充足は今後は不必要になったということに他ならない。これは決定的なパラダイムの転換である。
いまや、大学生が学校の授業にでるのは当たり前の時代。それに加えてボランティアなどの課題に向うほど、課題収束は進んでいます。そしてそのベクトルの最終収束先は認識収束しかありません。
この認識収束に応える場が、これから大衆を惹きつける場になるでしょう。
認識収束に応える場といえばネットサロンです。ネットサロンでは、みんなの実感や事実を積み上げたるいネットの優秀な投稿を導き役として、新認識を紡ぎだし、理解を深めていくという場です。ここには本当の共認充足があります。ぜひぜひ参加してください。
それでは
(masamune)
70年頃にピタっと止まっているのがよく分かります。
しかし、その後も世帯数が激減することなく維持し続けてきたのは大したものだと思います。
魅力の秘訣は共認充足ですが、弱点は観念不全に対する答えに至っていない点でしょうか。
非常に興味深いと思いました!^^
が、気になります。
その結果、現在でも少なからず政局にも影響してる訳ですから・・・・
貧困の圧力から脱した70年以降は、芸能やスポーツ分野での有名人を排出を輩出することで、組織の求心力を維持していったのではないでしょうか。
しかし、すでに社会的に「遊びの失速」となった今後は、舵取りが難しくなりそうですね。
>’70以降、維持しているのはなんで?
ということですが、学校を整備するなどのほかに、会員達の話を聞くということを幹部自ら積極的に行ったようです。
>羊熊さん
>すでに社会的に「遊びの失速」となった今後は、舵取りが難しくなりそうですね。
ちなみにこれは宗教法人全体の話ですが、近5年は信者離れが進んでいるようです(2003~2007年で700万人▼)。
さすがに近年は綻びが出てきたということでしょうか。