キャバリアのななちゃん日記

宮古島での、ロングバケーションを終了し、千葉に戻りましたよ~!

古代志波城公園(1200年前の古代の息吹) in 盛岡

2010年09月09日 | 岩手探索 景勝地・名所
9/8(水)今日は晴天に恵まれ、気温もグンと下がった。
岩手の秘湯に行こうと思いたち、途中、古代志波城公園に
よった。



803年(延暦22年)坂上田村麻呂が作ったとされる古代最大・最北の城柵
すぐ、近くに古代遺跡があるとは、驚きであった。morijiiは奈良出身なので、
飛鳥時代~奈良時代とは縁が深い。その中で育ってきたので、受付でいろいろと
説明を伺った。

もともと、東北の歴史と言えば、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイ
を連れて京都に帰ったくらいしか、知識がなく、盛岡に来て、いろんな文化・
歴史に触れてきた。坂上田村麻呂は正に東北の出発点であっただけに、歴史好きの
morijiiには感激であった。

まずは、入口の柵



マリーゴールドの花畑から見る古代政庁



その中で古代役人が執務中であった。ご苦労さん!



古代米の田んぼ(手前)と今の米の田んぼ 色が違う!





感動しながら、岩手の秘湯めぐりに出発。今日は幸先が良かった。



WIKIより


志波城

志波城(しわのき、しわじょう)は、岩手県盛岡市の西の郊外、現在の中太田・下太田に
またがる地域にあった古代城柵。斯波城とも。盛岡市によって「志波城古代公園」として整備され、
外郭南門(がいかくなんもん)築地塀(ついじべい)、政庁の南・西・東それぞれの門、
官衙建物などが復元されている。国の史跡に指定されている。

歴史・沿革

桓武朝の征夷事業と志波城

志波城は、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が胆沢(いさわ)地方
において蝦夷(えみし)の首長アテルイを滅ぼした翌年の延暦22年(803年)に、
北上川と雫石川合流地近くに造営された。これにより、朝廷は北上川流域の北部にまで
律令制の支配を及ぼすことが可能となった。その後、雫石川氾濫による水害のため、
南方(現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田)に徳丹城(とくたんじょう)が造営され
、志波城は約10年でその役割を終えた。

発掘調査と史跡の復元

1976年-1977年に東北自動車道建設にともなう発掘調査中に築地塀や大溝、竪穴住居跡
(たてあなじゅうきょあと)が発見され、その後の範囲確認調査の成果を受け、
1984年に「志波城跡」として国の史跡に指定された。『日本紀略』延暦22年(西暦803年)
条初見の志波城の所在地は諸説あり、長らく不明であったが、太田「方八丁」という地名が
八町四方の外郭を持つ城郭の姿と一致したため、有力な確定根拠の一つとなった。

1991年から外郭南門と築地塀が古代の技術にならって復元され、「志波城古代公園」として
志波城跡愛護協会により管理運営がなされている。

志波の地名

旧岩手郡内に所在する「志波城」が古代「志波郡」の名を冠するのは、造営当時まだ
「岩手郡」が建郡されていなかったためである。北上川流域の「奥六郡」は、はじめ
磐井郡~志波郡までを指したが、後に磐井郡が国府多賀城の直接管理を受けることになると、
新たに生まれた岩手郡を含めた六郡となり、俘囚長・安倍氏により治められた。

シハ(しわ)の表記「志波」・「斯波」・「紫波」は、いずれも古代郡名に由来し、
同源であると考えられるが、当該城跡を指す場合、『日本紀略』での表記である
「志波」が定着している。それに対し、斯波は中世の「斯波氏」にかかわる事象をあらわし、
紫波は現在の「紫波郡」での使用が一般的である。

なお、「志和」は現在特に岩手県紫波郡紫波町上平沢・水分周辺の通称として狭域的に
用いられ、「志和町(しわまち)」などの表現が残されている。これは同地区が南部八戸藩
の飛び地であったことに由来する。また、日本最北の延喜式内社「志賀理和気(しがり・わけ)神社」
(紫波町桜町)に由来するとの説もあり、当時として朝廷の支配力が及ぶ最も遠方の地域を示していたと
考えられる。

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