只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

自由になれるのは私(思考) がいないときですね。

2018-02-19 09:03:33 | 日記
私(自我)は常に善くありたいから、善くしていこうと
しています。

そして正しくありたいから、正しくしていこうとしています。

でもそんなことは出来ないのです、なんにも出来ないの
ですね。(笑)

そもそも事実には、善くも正しくも何にも“無い”から
です。もし在ったら、両手のひらで持って来て見せて
くださいね。(笑)

善くも正しくもは、思考世界では一見良心的に見えますが、
ここが曲者で裏に必ず「悪くも不正である」が、付いている
のです。

「善」があれば、必ず「悪」が存在するのが思考世界と
いうことです。

例えばあの人は善い人と思えば、悪い人と比較するから
です。

只の人”にはまったく比較がありませんから、善い人とも
悪い人でもないということになります。

ですから『善悪』というものはどこにもなく、その人の感情ということです。

生きているかぎり感情は出てきますので、この感情を
只の感情”になるまで“実践”して行くのです。

“只の感情”は思考無しの感情ですので、“今この瞬間
のみということですね。

このことを無邪気な子供が、“今!泣いていたカラスが
もう笑った”と例えられています。

ですから何も問題は無いということですね。

つまり年から年中、騒ぎまくる私(自我)をおとなしくさせて、
それですっかり寝ついた私(思考)を、無闇に起こさない
ことが重要であるということです。

それには一瞬一瞬の“”に着目して、只の“実践道”
を歩いて行くことです。 



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