「その日」は突然やって来た。
先日、思い切って「コンポステラ組曲」の楽譜を取り出して
譜面台の上で開いてみた。
レッスンを受けた時の師匠の書き込みは
今見てもそのとき何を注意されたか、パッとわかるから不思議だ。
驚いたのは、第一項目のタイトルの上に記されたサインだ。
最初すぐには思い出せなかったが、なんとこれは
その突然の死を誰もが惜しんだ、スペインの巨匠、
ホセ・ルイス・ゴンザレスのサインだ。
確か、亡くなる数年前に来日した際に、マスタークラスを
受講した時のものだ。
最後の日本ツアー直前の突然の死だったので、実質的に
最後の来日だったかもしれない。
その数年後に企画された最後の日本ツアーでは、一緒のステージに
立たせていただく予定だっただけに、今でも残念だ。
自分が、そんな素敵な出来事を忘れていたのに驚いた。
楽器を取り出して、第一曲目、プレリュードを弾いてみる。
あの頃、永遠に続くかの様に思えた難解なパッセージは、たった13小節。
サラッと弾けてしまい、なんだか肩の力が抜けた。
音符を追いかけるのに精一杯だった昔と違い、
今なら、フレーズ一つ一つのリズムや響きをさっと感じ取って、
そのフレーズの意味や、流れがはっきり全体としてつかめてくる。
20年近くも変わる事のなかったこの曲に対する
僕のイメージは、一瞬にして、大きく変化した。
茶色に錆び付いていた鍵は一気にはじき飛ばされ、
ひからびたイメージの音符達は
今やすっかりもとの瑞々しさを取り戻したのだ。
僕は今、ようやくあの苦い思い出から解放されたのだった。
なんだ、こんな事ならもっと早くこうすれば良かった。
これなら、ここ数年来取り組んでいる
J.ロドリーゴ(アランフェス協奏曲の作曲者)
の「祈りと踊り」の方が今の僕には難しいかもしれない。
(決して、「コンポステラ組曲」のほうが劣るという事ではない)
やっとこの曲に純粋に向き合える時が来たのだ。
ずいぶん遠回りしたが、今がその時と考えよう。
誰にでも苦い思い出はある。
僕はそんな思い出の中ばかりに生きている。
でも、その苦い思い出の一つ一つから
解放される「その日」がまた必ず来ると信じている。