長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

牧師の説教準備

2017-01-13 14:41:26 | 読書



2017年1月13日(金)

日本は今年最大の寒波に見舞われ、
九州以外の地方は大雪予報に、震えている中、
私は、15日の礼拝説教の準備をしています。

説教題は8日の「祈りの生活」に準じて、
「私たちの礼拝生活」説教箇所はロマ書12章1,2節。
今年教団目標の「日々、キリストへの献身」にも触れる予定。
(聖言は違っているが、)

そこで、私は自分の本棚から参考図書に、 
ホーリネス教団の松木祐三師の「ローマ人への手紙」と、
聖書神学舎教師会編の「礼拝の聖書的な理解を求めて」を出してきた。

松木師の「ローマ人への手紙」によれば、
献身と礼拝の相互性が非常に霊的に解釈されていた。

聖書神学舎編の「礼拝の聖書的な理解を求めて」は、
誰かに頂いたもので、
10年間ほど書架に眠ったままだったが、
以前から気になっていたので、
今日こそは、と読み始めた。
1頁開くごとに、
心のどこかで、礼拝に対して不可解と思えてた部分が、
非常に明快に解釈され、
今は、
何か、とてつもなくスゴイものを発見した様な気持ちになっている。
あえて、スナップをアップさせて頂きましたが、
もっと、良いことは、



こちらの、インマヌエル教団の藤本満先生が書かれた、
「聖書信仰」-その歴史と可能性ーを、
併せ読まれると、
さらに、現代に至る礼拝形式の推移なども把握できて、
理解が深まることと思います。

🌸

そこで、以下は、
「礼拝の聖書的な理解を求めて」からですが、
巻頭言の中で、
津村俊夫師からの呼びかけ、
-「礼拝」の問題は、いかに礼拝するかということよりも、
礼拝の対象であられる神をどれだけ親しく知っているかにある-
という指摘-P4

さらに、多くの先生方から指摘される「礼拝」に於けるご講演の中から、
-彼らが救われた目的は、神に仕え、神を礼拝することでした。-51頁
という明快な結論部分。(鞭木由行師「礼拝に生きる民」-十戒に見る礼拝の原則-から)

続いて、遠藤嘉信師編「礼拝におけるいけにえと祭司の役割」-レビ記から-では、
ナダブとアビブの異火事件(レビ記10章)から、
-それは、もしかすると、善意で、しかも主体的な礼拝行為であったかもしれません。
けれども、神はこの二人を打たれました。・・・聖書は、彼らの具体的な行為よりも、
「命じられなかたことをした」ということに焦点を当て、
それを深刻な問題として扱っています。
たとえそれが、善意で、主体的な行為であったとしても、
あるいはそうでなく、
やはり意図的に不遜な態度をもって、
これを軽々しく行ったということであったとしても、
いずれにせよ、
それは啓示されたみ言葉に対する自己流の解釈(自家製礼拝)や
不服従につながっていたということ

これが問題とされていたと思われます。
 つまり、自分で考えた方法ではなく、
神の定めた唯一の方法によって、かろうじて
礼拝者は神に近づくことができるのです。-
80-81頁


★今日のところは、
約半分ほど読破で、さらに、
礼拝について、聖書的に掘り下げられ、
曖昧だった部分が整理されることと、
大きな期待を抱きつつ
完読したく思います。

私の牧師人生は残り10年ほどとなってきていて、
今頃、最も大切な「礼拝」について、
こんなにも曖昧で、
もしかすると、
礼拝されている神様ご自身以上に、
自分の思い込みの方が
色濃くでてしまっていたのかもしれない、と、
恐れと、深い悔い改めを覚えている次第です。

これは、牧師にとって、
非常に大切なことと思い、
アップさせて頂きました。