長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

「神を見る生活」ロイ・ヘッション著(湖浜 馨訳)から-4-

2019-05-06 11:42:39 | 読書

 


 イエス・キリストの顔の中に神を見る(1)

 p25

 

 弟子たちは、神はどうしても測り知ることのできないお方であると悩んでいたが、

そのうちのひとりがある日、主イエスに、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。

そうしてくだされば、わたしたちは満足します」と言った。

 主イエスはこれに答えて、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14・9)

とい驚くべき声明をされた。のちになってパウロは、新約聖書の中でコロサイ人に

向い、同じことを言っている。「御子は見えない神のかたちであって」(コロサイ1・15)。

さらに彼はコリント人に、「神はキリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにする

ために、わたしたちの心を照らして下さった」(第二コリント4・6)と言っている。

 

 ここで私たちの理解を最も助けてくれるものは、イエス・キリストの顔の中に神の

栄光を知る知識の光が見られるというこの句である。光というものは照らす相手が

いなければ見えない。私たちが目にするのは空中に浮かぶゴミであって、それに光が

反射して光の存在を知らせるのである。「神は光である」(第一ヨハネ1・5)とあるが、

神は何かを照らしてご自分を啓示するのでなければ、見ることも知ることもできない

おかたである。神の照らす対象物はイエス・キリストの顔である。この御顔を見つめ

ると、それ以外のところには見られない神の栄光を知る知識の光が、私たちの心を

照らすのである。

p28

 イエス・キリストの顔を見る時に、いったい何が見えるのだろうか。今私たちが

考えている句は、ただ「神の知識を明らかにする」だけでなく、「キリストの顔に

輝く神の栄光の知識を明らかにする」と述べている。この句は何が神を栄光あらわ

しているかについて、私たちに新しい理解を与えている。しかもそれがわかると、

私たちは驚くとともにショックを感ずるのである。なぜなら神の栄光を現す顔とは

つばきを吐きかけられ、人の悪意によって形を変えた、そこなわれた顔である。

「彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからで

ある」(イザヤ52・14)というイエス・キリストについてのイザヤの預言の言葉は、

「彼の顔だちはあまりにもそこなわれたので、もはや人の顔だちと思えなかった

と訳出することができよう。それほどまでに彼の顔形は変わったのである。

 あなたはこれを見て、これは栄光のビジョンではなく恥と不名誉のビジョンだ

と言うだろう。しかし、これこそ神の目より見た栄光である。

p29

 神の栄光は私たちが考えているものとは違った要素から成り立っている。私たちは

いつでも神を「全く自分とひとしい者」(詩篇50・21)と思いやすい。そのため、神

の栄光は人の栄光の要素と同じもので成り立っていて、ただスケールが違うだけだと

考えるあやまちに陥っている。

 

 一般的に言って、人の栄光は、自分自身を高め、他の者を自分の意志に服従させる

能力であると考えられている。これが栄光、これが力だ、とこの世は言う。

「あなたが自ら幸いな時に、人はあなたを賞賛する」(詩49・18英訳)

幾度私たちは、行政長官のいすにすわり、ボタン一押しで意のままに人を使うといった

栄光をむさぼり求めたことであろう。人の目より見た栄光とは、いつでも彼自身を高

めるものである。

 

 しかしながら私たちはイエスの中に、神の栄光が全く逆のものから成り立っている

ことを知るのである。すなわち神の栄光は、ご自身を高め人を服従言させる能力では

なく、人のためにご自身を低くさせる自発的なご意志にあり、またご自身に敵対する

ものを八つ裂きにする大能の力の発揮ではなく、その力を隠して、悔い改めてご自身

のもとに帰ってくる価値なき者に恵みを与えることにあるのである。

 

 モーセが「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」と言った時に、神は

「わたしはわたしのもろもろの善(いつくしみ)をあなたの前に通らせる」とお答え

になった。「わたしはわたしのもろもろの力、威厳、きよさをあなたの前に通らせる」

ではなく、「私は、弱く、罪深く、価値なき者へのもろもろのいつくしみをあなたの

前に通らせる」である。神はいつくしみ(新約聖書では「恵み」と呼ばれている)を

示すことによってご自分の栄光をお示しいになったのである。

 神の栄光は恵みである。(エペソ1・16)。このような栄光るために天使たちは顔を

隠し、頭をたれて、驚きのうちに神を崇めるのである。そしてこの栄光はイエスの

頭の中だけに十分に現されているのである。「彼の中に御父の栄光の輝きは最も完全に

表されている」。

 

p30

  これが救い主の胸中にあった栄光についての考えである。彼はある場合に「人の

子が栄光を受ける時がきた」(ヨハネ12・23)と言われた。少しあとで彼は、それが

地から上げられすべての人をご自分のもとに引き寄せる時であるとして語っておら

れる(ヨハネ12・32)。彼は幾度も幾度も「わたしの時はまだこない」と言われた。

それが今「その時がきた」と言われるのである。初めてこれらの記事を読んだとしたら、

この箇所にさしかかるとさぞかし私たちは、「彼ほど悪口と敵対の中を忍耐深く歩いた

者はかつていない。だから、彼の場合お栄光の時が飾られ、身の潔白があざやかに

証明される時はないだろう」と考えるに違いない。ところが彼の言っておられる意味は、

王座に上げられることではなく、人前に恥をさらす見世物として木の上にあげられる

ことであり、しかもそのことが、彼に逆らう者を罪の悲惨から救うためになされる

ということがわかれば、どんなに私たちは驚くことだろう。イエスは実際には

これは私の栄光の時である。なぜならそれは罪人に私の恵みを示す時だからである

と言っておられるのである。

 このような神の視野は、私たち罪意識が生み出す考えとはなんと違っていることだろう。

罪意識は、あたかも神が大きなつえを持つおかたであるかのような錯覚を与え、私たちを

神から隠れさせるようにしむける。


 神を見、神の真の存在を知るには、イエス・キリストの顔以外のところを見る必要がない。

 

私は彼のうちに

神格の輝きを見る

私のためのキリストよ!

 

p32

 私たちは哲学者や神学専攻家、または学者になる必要がないのである。

私たちはこれ以上捜し求める必要がないし、またそのようにすべきでもない。

御父を知るために必要な一切は子どもでも理解できるようにわかりやすく、

主イエスのうちに啓示されている。おそらくこのように簡単であるために、

私たちは幼子のようにならなければ、理解できないであろう。と言うのは、

真理探究の妨げとなるのは、しばしば私たちの理性であるからである。

 私たちすべてが発すべきただ一つの叫びは、あのギリシャ人がピリポに言った

「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」という言葉である。彼を見る

ことによって私たちはすべてを見、また私たちの心のいっさいの必要が

満たされるからである。

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿