70年代に阿波踊りの桟敷(スタンドみたいな座席)が設置され、踊りを眺める形式となったのは、国内旅行が発展した、JR(当時は国鉄)のDiscover Japanとの連動だ。 桟敷は徳島新聞が関与し、観光協会と徳島市とともに運営してきたが、様々な意見がある。
報道意見( https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51853 )
徳島新聞の見解 ( http://www.topics.or.jp/articles/-/33701 )
阿波踊り収入・支出は、3億円あまりとなっている。( https://www.city.tokushima.tokushima.jp/kankou/awaodori/awazitu2.files/keikaku.pdf )あまり大きいビジネスとは言い難いが、これを主宰していた市観光協会の3億円の赤字も大きな問題とは考えにくい。また、性急な処理を求めた動きがあった。むしろ、「徳島新聞は阿波おどりというイベントをまるごと自分たちの手中に収めようとしているのだろう。本来は中立な立場の徳島市もそれに応えるように観光協会を追い込んでいく。徳島市の遠藤彰良市長は四国放送の元アナウンサーで、四国放送の筆頭株主は徳島新聞だ。遠藤市長は、県内シェア7割を超える徳島新聞と蜜月の関係とされる。週刊現代 2018/3/17号 より引用」ともある。この3億円の権益を守ろうというのはさもしいとしか言いようがない。
この後、実行委員会の体制は変化し、市と徳島新聞の位置付けが重くなり、実行者としての旧観光協会に関与する阿波おどり振興協会は入っていない
( https://www.city.tokushima.tokushima.jp/kankou/awaodori/uneizikkou.files/sosikitaisei.pdf )
これは、祇園祭の町衆の山鉾を軽んじているようなものだ。祭りは「踊り」が主体のはずだ。この魅力で例年阿波踊りでは100万人( http://www.teri.or.jp/chousa_kenkyu_pdf/2015-96kankoukosou.pdf )の集客力がある。
100万人の25%の25万人が宿泊し一人当たり2万円消費としても50億円の売上になる。つまりは、3億円の累積赤字など問題にするのは「角を矯めて牛を殺す」だけだ。さらに、今回の騒動は、「もめる阿波踊りは避けよう」という悪評判まである。
マクロ経済で考えると、「総踊り」を実施するのがより観光のアピールとなり集客にもなる。なお、桟敷の値段や稼働率にこだわるなら、価格差を設けること、売れ残りそうなら当日券を安く売ることなどチケット販売(ネット化)のマイクロ経済の手法がある。これがあるべき対応で、徳島市長の「総踊りを止める」というのは経済合理性が全くない。しかも、踊り手への合意形成もないというのでは、経済知識、政治能力ともに疑わしい。
今回は、主役の踊り手である阿波おどり振興協会の13日10時から両国橋での総踊り実施は見事な決断だ。つまりは、踊りたいから最後のフィナーレを飾りたいのだ。踊り手は自己表現を求めている。
さらに考えると、桟敷で阿波踊りを眺める時代は終わった。1km四方の町中で、観光客と踊り手が公園や、橋の袂などで、観光客のにわか連の参加・練習など、飛び入り参加でお互いの共感や、踊り手の自由な踊りの披露がこれからの在り方だ。それなら、阿波踊り商品(祇園祭の粽、記念品などと同じく)、法被、浴衣、笠、下駄などの販売やレンタルでのお土産と、踊り参加がこれからのあり方だ。
同意の意見も多い( https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180814-00057017-gendaibiz-bus_all&p=3 )
見るより、踊るほうがずっと面白いのは大学時代6年間の思い出だ。
桟敷から街へ、見るのから参加へ、眺めるのから体で感じる距離へ と時代の変化がある。桟敷という装置にこだわるのは、己の利権というアナクロはここ50年間の成功体験だ。これからの阿波踊りの発展が見えていない。それが新聞社・テレビというから、これも今やオワコンと呼ばれている。
合理性のない、コップの中の嵐を繰り返すのが「田舎」で、一番嫌いだ。相互利益や、観光政策を考える知恵も、人材もいないのか。
とまれ、阿波踊りの踊り手はやるなぁと思った。桟敷ばかりに縛られず、踊りたいように踊るのが本来の姿だ。