今日の記事は自分用の記録、という意味合いもありますが、
同じ症状で悩んでいる人が手術を受けたらどうなるか、
ということを参考にしてもらいたい、
という部分も含めて書き溜めて来たものを掲載しました。
4月20日(日)
朝8時半前に自宅を出発、9時半に練馬聖ガブリエル教会に到着。
10時半からのミサに向けて聖歌隊の練習後、
イースター礼拝が滞りなく執り行われた。
160名ほどの出席があったらしい。
祈祷の中で、私の入院と手術のことに関してお祈りを捧げてくださった時は、胸が熱くなった。
イースターの礼拝だったのだが、中でも卓司祭の説教が印象に残った。
「イースターというのはディズニーランドでも、スーパーでも取り上げられていてタマゴのセールなどをやっているが、
本当の意味でのイースターについて考えて欲しい。
そして、自分もそれについて考えたが、イースターというのはその日のことだけ特別に思う日ではなくて、
キリストが復活されて、常に私たちのまわりにいらっしゃる。
つねに復活されたことを思い、祝福すべきである」
という内容だった。
それはクリスマスも一緒だろうし、
引いては私たち一人一人も一緒だと思う。
つまり、この世に誕生した、その歓びは誕生日だけ祝うのではなく、
常に常にそのことに思いを馳せ、感謝の気持ちを持つ。
そういうことだと思う。
お世話になった皆さんに挨拶をし、辞退してから一度帰宅。
昼食を摂りいよいよ病院へ。
前回は自転車で行ったのだが、今回はさすがに松戸駅から路線バスで。
到着後入院をする4階へ行き病棟へ。
病室へ案内され、パジャマに着替えたら検温と血圧を測る。
最近はこの病院に限らないらしいのだが、
寝間着とタオルは半強制的にレンタルになる。
病院や病室の設備の説明を受け、
付き添いで来てもらった妻と子供を返したら後の時間は完全に自由。
6時ちょっと前には夕食も出て来た。
いつもならこれから仕事なのに、夕食を食べてベットに寝転んで読書、
などというのは何となく落ち着かなかった。
テレビも観たいものがあったら録ってから観るし、元来映画が多いのだが、
幸いなことに?「相棒」シリーズの放送かあったのでそれを観ることに。
小沢征爾の息子も出ていたが、完全に役者だな、
と改めて思った。
9時過ぎに消灯されたのだが、
思ったより暗くなったのでちょっとびっくりしたのと、安心したのと。
この病院のロケーションは幹線道路からも離れているので、昼間でも静か。
が、疲れていないのと、常習しているアルコールを摂っていないので、
寝つけそうになく、かと言ってベッドの照明を入れると隣の人に迷惑そうだったので、
iPhoneでゲーム三昧。
それでも12時半頃には眠りに就いた。
4月21日(月)
前の日に看護師さんから、朝五時頃に採血がある、
ということだったので何となくその15分くらい前に目覚めてしまう。
なぜそんなに早朝に採血するのか訊くのを忘れたので、
後から別の担当になった看護師さんに訊いてみると、
要するに「朝食前」の採血がしたいそうだが、
他の患者さんのことも同様に採血がある人がいるし、
その血を検査して先生に伝えたり何だりやっていると、
結局5時くらいからやらないと間に合わない、
ということだった。
その看護師さん曰く、前の病院では4時からだったそうだ。
当然だが看護師という仕事は楽ではない。
7時前に朝食。
午前はオペラの準備。
病院へ来ても暇にはならない。
いや、こういう時だからこそと言うべきか。
この日も特に診察などはなかったが、
手術室の動線や、家族控え室、手術後の動線の説明などがあった。
6時過ぎに夕食。9時過ぎに消灯。
次の日は手術ということで緊張して眠れない、
ということもなくすんなり眠ることが出来た。
4月22日(火)
6時起床。血圧、体温を測ってもらい、
顔を洗ってひげを剃る。
そして7時半、点滴スタート。
8時過ぎに妻が来て、弾性ストッキングを装着。
ずっと同じ姿勢でいるためにエコノミー症候群を防ぐため。
手術着に着替え、荷物をまとめ迎えを待つ。
9時ちょっと前にお迎えが来て手術室へ移動。
眼鏡を外していたために詳しくは見えなかったけれど、
大きな倉庫の様な所に入り、その中にガレージの様に分かれて手術室がある。
そのうちの第四手術室へ入った。
手術台の上に仰向けに寝て、心電図やらなんやらのセンサーをペタペタ身体に貼付けられ、
麻酔科医の先生が、
では今から麻酔を入れて行きますよ~、
という言葉の最後を聞いたか聞かないうちに、あっという間に意識が無くなった。
普段寝る時は意識が落ちて行く感覚、
例えば家の桟に片手をかけてぶら下がり、その手が離れるような感覚なのが、
この時は真っ黒い墨のような霧に周りから一気に囲まれたような感覚だった。
次いで起こされて目覚めるまでは全く記憶も感覚も無し。
起きた瞬間は、「ああ、よく寝たなぁ」という感想だった。
起きるちょっと前には、フレンチのフルコースを食べている夢と、
なぜか頭の中は信時潔作曲の「丹澤」が鳴っていた。
ICUに移る時に喉が苦しく、痰の吸入を要求。
そしてICUに寝かされてから自分の体の様子が分かってきた。
後で聞いたことだが、手術の時間が予定を大幅に超えて延びたそうで、
最初診察に通っている時に聞かされていたのは3時間半。
前の日には多めに取ってだろうけれども5時間の予定と聞かされていたが、
結局は手術に7時間、その後の検査に1時間、
計8時間を費やしたということだった。
そのために手術台に接していた所がうっ血して、
床ずれの様な痛みを身体のあちこに感じる。
特に左半身を下にして寝ていたので、
左の脇腹が強烈に痛い。
その他にも後頭部数カ所や、首も同じく痛い。
枕の位置や高さをいろいろ直してもらって、
何とか耐えられるまでになったけれど、
傷の痛みは全く感じないほどそれらの痛みが酷かった。
それから手術中に気管に挿管し呼吸を保っていたので、
前々から聞いていたが声帯をやられて声が出ない。
暫くしたら鼻から胃に挿管していたチューブを外してくれた。
看護師さんに訊いたら次の日の朝まで入っている、
と言ったのでげんなりしていたのだが、
主治医の先生が「抜いてあげようよ」ということで抜いてくれた。
手術中に吐き気がでるといけないということで挿管してあったそうだが、
抜く最後の瞬間に胃液を感じて思わず吐き気に襲われた。
吐いた時に胃液が出るから、体験的に胃液を感じると気持ち悪くなるのか、
それとも胃液そのものが吐き気を催す成分を本来的に含んでいるのか。
いずれにしても人体の不思議を期せずして感じた。
それから数時間後眠りに就いたのだが、
その時に先生が回診。
本当は目覚めてしまったのだがそれに気付いてくれず看護師さんに、
「寝ちゃった? 凄いね、何事もなかったみたいだね。さすがマエストロだね」
などと話しているのが聞こえて苦笑してしまった。
それからしばらくは酸素吸入をしていたからか、
頭が妙に冴えていろいろな思考が浮かんでは消え、消えては浮かび、
を繰り返していた。
その中で自分の症状として面白かったのは、
浮かんだ曲の歌詞が思い出されない部分がところどころある、ということだった。
今では簡単に思い出せるので術後の後遺症的な症状だったのだろうか。
そして尿管カテーテルの様子や、点滴の様子を看護師さんが度々見に来てくれた。
一度警報アラームが鳴った時に来てくれた時は、
肩にタオルを羽織り髪を下ろしていたので、
入浴後か入浴中に来てくれたのだろう。
シャンプーの匂いがした。
4月23日(水)
6時頃起床。
8時過ぎに担当の引き継ぎがあり、
石川県出身の看護師さんが担当に。
左手に入っていた針の、動脈に刺さっているのを抜いた。
この時に動脈だから、ということで圧力をかけて固い絆創膏を貼るのだが、
剥がせるのは6時間後、ということだった。
それでもその後は内出血をしてアザが残った。
そして着替え。
先ずは尿管カテーテルを抜くのだが、
看護師さんがあまりにも若いので大変恐縮してしまった。
下着も履かせてもらった。
特に男声は抜く時に痛い、と聞いていたのだがそれは噂通りだった。
後でトイレに行った時は血尿になっていた。
そして体を拭いてもらい、手術着からパジャマへ。
パジャマを着たら少しずつ普通の状態に戻っていっている気がして、
ちょっと気分が楽になった。
そして初めてベッドから降りて自力で歩き、歯を磨きに。
手術後にベッドを起こしてもらって水を少し飲んだ時は若干の目眩をかんじたが、
もうこの時は平気になっていた。
時にふらつきも感じず歯を磨いたが、
朝、水を貰った時にも感じたむせ返りをやはり感じた。
その後も水を飲みますか?と聞かれても怖くて飲めなかった。
本当はそれで一般病棟に移動するはずが、
一般病棟が満床で、もう一泊ICUに留まることになってしまった。
読む本もなく、看護師さんに「暇ですね」と言ったら、
何と、テレビを持ってきてくれた。
ICUにも三台だけあるようだった。
私が描いていたICU病棟とは程遠い。
報道番組では韓国の旅客船の沈没事件についてと、
オバマ大統領来日に向けた報道内容ばかりやっているし、
他にも面白い番組など皆無だったが、
テレビはただ見流しているものなので、
時間だけは無駄にではあるけれども確実に過ぎていってくれる。
昼には術後初めての食事。
おかゆではなくて普通のご飯だったが、その方がすんなり喉を通った。
逆に汁物やお茶では結構むせたので、
その夜の食事からとろみをつけるパウダーを入れてもらった。
妻が子供と共に見舞いに来てくれた時は、
ちょうど初めて自分でトイレに立っている時間で、
自分のいた個室からトイレまでは遠いのだが、
逆にICUの出入り口のすぐ近くで、そのタイミングで来てくれたのは助かった。
さすがに子供はICUの中には入れないのである。
暇だから本を買ってきて、と頼んだ。
ICUに持って入れる物は制限されているのかと思ったら、
消毒的なことも含め、これも結構緩い感じだった。
その夜は前の晩よりも良く眠れた。
4月24日(木)
いよいよ、というよりやっと一般病棟へ移動することに。
朝起きてから朝食を摂り、身体を拭き、着替えをして、
一般病棟からの迎えを待つ。
10時頃に「お迎え」が来て、車椅子に乗り2FのICUから、
4Fの一般病棟へ移動。
車いすに乗ったのは多分生まれて初めての体験。
一般病棟の部屋はICUへ行く前と一緒だったのだが、
面子が変わっていたので最初は気付かなかった。
同じ部屋だと分かったのは、
入院した時にいた人が入り口に近い所にいるのだが、
次の日にその人の顔を見たからで、
自分がいたベッド、空いていた隣のベッドはすでに別の人が入っていたわけだ。
ICUにいた時に不整脈が何度か出て、それがあるとアラームがなるのだが、
詳しく心電図を取るために、24時間モニターの装置をつけられた。
症状としてはVT(心室頻拍ventricular tachycardia)と言うらしい。
それ以外にもモニタリングするセンサーが手術時から貼られて、
左手には点滴を打っているのだがそれも機械化しているのがつけられている。
ベッドの上でちょっと動くとそれらが絡み合って面倒くさいことになった。
自分の荷物も戻ってきたので持ってきた本を読んで時間を過ごしたが、
持って来た大きなヘッドフォンは傷に当たるのが怖くて使えなかった。
4月25日(金)
術後初めての一般病棟はやはりICUより静かな分、
よく眠れたと思う。
しかし微熱が続いていて前の晩もアイスノンをもらって寝た。
24時間が経ったのでVTの機械は外してくれた。
この日はK-mio ChorからZさんと、Sさんの2人、
コーロつるさしからNさんとOさんが2人、
そして妻と子供が同時にお見舞いに来てくれた。
皆さん私の元気ぶりには驚いていたようだけれど、
まだ声が良く出ないのと、顔の感じが変な話しだがまだ慣れないので少々疲れた。
その後K-mio Chorの副団長が2人一緒に来てくれた。
松戸に住んでいる人間が都内へ出るのはあまり遠く感じないが、
都内に住んでいる人が松戸へ来るのはとても遠く感じるだろう。
本当に有り難いことだ。
この日の夜から点滴の機械も外された。
流れが悪くなると警告音が出るのだが、
それも必要ない、ということだろう。
気分的にも楽になった。
4月26日(土)
病室での生活にも随分慣れて、一階の売店でコーヒーを買って来て飲んだりした。
いつもの生活とはまだ大きく違う部分もいっぱいあるが、
だんだんと普段に戻りつつある。
シャワーが浴びれるかもしれない、
ということだったが、主治医の先生が病院に来られなかったので延期。
前の日までと同じように身体をおしぼりで拭く、
というのに留まった。
後頭部に手術の時に流れ出た血の塊が残っているので早く流してしまいたい。
この日一日で、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読破してしまった。
そして夜は「テルマエ・ロマエ」を観てしまった。
4月27日(日)
この病院の面会時間は平日は15時から20時までだが、
日曜祝日は11時から可能になっている。
ということで朝から病院のスタッフは少なめだったのだが、
午後からはそれ以外の人で賑わっている、という様相を呈していた。
日曜日だから先生の回診もない、
つまりこの日もシャワーを浴びられない、
と諦めていたのだが、
午前中に脳外科の他の先生が診て下さって、
もう傷も乾いている、ということで傷を覆っていたガーゼも、
またガーゼ付けますか、外しておきますか、
と訊かれたので、当然外してもらった。
それから後頭部で血糊がついている、
と思ったのは本当はかさぶたで、
手術中に頭皮が動かないようにピンで固定してあった名残だそうだ。
そして6日ぶりにシャワーを頭から浴び、
やっと本当に生き返った気分になった。
おでこに打ちつけられていたホチキスの針も、
シャワーを浴びたらむき出しになり、
3本刺さっていることが判明。
これも手術中に頭皮がずれるのを防ぐため。
売店でコーヒーを買って来て入浴後のひと時を味わった。
昼食後に妻と子供が面会に来て、
この日は誰もお見舞いに来る、
という予定がなかったのだが、
東京で私の合唱団に入っていて、
昨年結婚、そして転勤で沖縄に赴任をしているKさんが、
東京での結婚式ついでにわざわざお見舞いに来てくれた。
妻はいつもは一時間ほどで帰るのだが、
久しぶりにKさんに会いたい、ということで一緒に二時間ほど待った。
そして到着後、沖縄の話や、Kさんも仕事が病院関係なので、
この病院と沖縄の病院との違いなどの話を色々聞かせてくれる中、
画家のAさんから急遽お見舞いに来たい、
という連絡が入った。
Kさんは夜の飛行機の都合がある、
ということで妻たちと一緒に帰った。
そしてしばらくしてAさんが到着。
Aさんとは普段からいろいろな波長が合って、
お互いの意見がよく理解出来る人の一人なのだが、
今回の手術に関してもいろいろと話をした。
この病気は単純に顔面神経と血管が癒着してしまうことで、
分かりやすく言えば神経が「ショート」してしまう病気で、
元来その当たっている所は神経を包む膜も薄く、
謂わば誰でもがなりやすい病気である、
ということは事実なのだが、
私は個人的にやはり自分自身にかかっている、
あるいは自分自身にかけているストレスが大きな原因だろう、
と自己分析している。
他の人はあまりこういう話をしても理解しがたいだろう、
と思ってあえて話さないのだが、
Aさんとならいろいろとそれらについて話すことが出来た。
そうしているうちに、コーロファンタジアのMさんたち2人がお見舞いに。
事前に知らされていなかったので驚いたが、
ちょうど病室を出た所のラウンジでAさんと話している時だったのでタイミングも良かったし、
やはりお見舞いにわざわざ来て下さる、
ということは嬉しいことだ。
療養の身だから、と遠慮する向きも多いだろうが、
入院というのは幽閉されているのと事実上同じなので、
やはり多くの人と会える、というのは嬉しい。
何よりもわざわざ松戸の病院まで足を運んでくれる、
その心意気が嬉しい。
もちろん長居は禁物なのだろうが、
自分が入院してみて、入院する人の心理もいろいろと理解できたので、
これからはちょっとその事についても思いを巡らせたいと思う。
3人と話している間、自分の顔のちょっと気になった部分があった。
手術前は右の頬が上方にねじ上がり、目蓋が閉じてしまい、
自分で意志を持ってでないと目が開けられなかったのだが、
その頬のねじ上がりが全く無くなった。
しかし話していて目を閉じようとする症状は残っているし、
何より右側がスッキリした分左側半分の顔が何となく重い。
鼻や耳の通りも右側は良くなった気がするが、
左側は何となくスッキリしない感じになってしまった。
しかし「部屋の模様替え」のように「顔の模様替え」が済んだばかりなので、
その感覚、使い方にまだ自分自身が慣れないのだろう、
と思う。
それらも「リハビリ」をしていく必要がある。
それから、病気の遠因になっているストレスに関しては、
これから真剣に取り組んでいく必要があると思っている。
考え方や、仕事のやり方や、人との接し方。
いろいろと原因になっていたと思われる部分に関して、
ひとつずつ、気付いた都度直していく必要があると思った。
今回の手術は自分では「生まれ変わった」と思っているが、
それは肉体的な部分はもちろんだが、
特に精神的な部分、もっと言うなら自分の生き方そのものについて、
全て生まれ変わったつもりで生きていく必要がある、
と思っている。
というようなことを3人とも話した。
この日の夜からは点滴も取れ、
後頭部の傷を見なければ、
そしてパジャマを着ていなければ、
私は何のためにこの病院にいるのか、
他の人に説明をしなければいけないような感じになってしまった。
後は傷とおでこのホチキスの針を抜くのを待つのみになっている。