指揮者 神尾昇の一言

日々の生活の中でちょっとした事などがあったら、ちょろっと書き留めて行く、そんなブログです。

父の死

2017年08月27日 | 世間話
FBなどで父が急死し、小豆島へ行くことを掲載しましたら、
たくさんの方からお悔やみのお便りをいただきました。
お気遣い、本当にありがとうございました。
昨晩戻ってきましたので状況などをここに記載しておこうと思います。
 
母が2013年の3月に、やはり急に亡くなり、そこから父は一人で生活をしていました。
私の実家は小豆島の坂手というところの山奥にあります。
お寺がちょっと登った所にありますが、今では住職もいませんので、本当に孤立しています。
その山奥でまだ当時は酪農を続けていまして、母の葬儀、法事などに関しても私たち子供に任せっきりでした。
母が亡くなったということもあり、乳牛を二頭に減らし一人で頑張ってきましたが、
そのうちの一頭が死んでしまった時にさすがに気弱になったのか、私のところに電話をしてきました。
母が亡くなる前も自分から電話するということはほとんど無く、
亡くなってからも父から電話があったのは、
私が送った荷物が届いた時と、この時だけでした。
そして一緒に住むことを初めて提案したのですが、二日後に電話があり、
やはり都会に行って孫の世話だけするのも辛い、
ということで酪農業をやめ、野菜を作ることにしたようです。
それからは弟や妹が休みを利用して帰郷し、父の世話をしていました。
昨年の11月には弟の勧めで介護認定を受けに行ったのですが、
自分で車を運転して来たりなどの理由で認可が下りないくらい、一応健康ではありました。
ただ、もう20年近く足を患って下り、左足が大きく湾曲して歩くのも立ち座りもきつそうだったのですが、
弟の外科手術の勧めにも応じず何とか杖をついて生活をしていました。
そして昨年の12月末に、私は父を旅行に誘いました。
酪農をやっていた時は片時も家を離れたがらなかったのですが、牛もいなくなり野菜を作る生活なら、1泊くらい大丈夫だろう、
と観音寺のかんぽの宿に泊まり、次の日は私も行ったことのないこんぴらさんへ連れて行きました。
当然階段は困難なので、こんぴらさん名物の駕籠をお願いしました。
食も堪能して小豆島へ帰り、弟と合流して正月はおせちを、かまぼこと餅以外は手作りで用意し、
それなりに豪華に過ごしました。
父としては何十年かぶりの初詣にも出かけました。
これが私は父と過ごした最後の時間になっってしまったわけですが、
今から考えるとこの時間が過ごせて本当に良かったと思います。
それから神戸に住んでいる妹夫妻は何度か小豆島へ帰り、
埼玉へ単身赴任のために引っ越して来た弟はゴールデンウィークに帰り、
最後となってしまった時間を過ごしました。
家を購入したので私も何度か一緒に暮らすことを提案したのですが固辞され、
なら仕送りを、と言ってもそれも固辞され、
父としてはそうなると自分で頑張っていこう、という気力が萎えると思ったのでしょう。
当然といえば当然のことです。
この夏はお盆休みもあり本当は小豆島へ帰っても良かったのですが、
お盆シーズンは旅費も跳ね上がり、交通の手配も大変だから、
という理由でまた年末に旅行に誘おうか、と相談していたところでした。
 
23日水曜日の午前11時頃、弟から電話がありました。
普段ならLINEでのやり取りが主で電話で話すことは少ないので、
着信があった時に「これは来たな」と思いました。
「お父さんが亡くなりました」
という言葉を聞いてもちろんショックはありましたが、
一連の流れから、来るものが来た、という諦めにも似た感覚が走りました。
 
新聞が溜まっている、ということで家を見に行ってくださった方からの通報で発覚しました。
家を覗きに行っても返事もなく、鍵もかかっておらず、
その辺を探しても姿も見えないので二階の寝室に行ってみたところ、
ベッドの上で冷たくなっていた、
ということでした。
一人暮らしの死亡、ということで警察を呼んで対処してもらったところ、
警察から妹に電話があった、ということでした。
苦しんだ様子もなく、家の中の物もそのままで事件性もない、
ということで遺体はその日の夜には警察署に安置され、
私たち兄弟はそれぞれ帰路につきました。
私たち家族は昼過ぎに小豆島に到着、
そのまま実家に安置してある父に会いに帰りました。
結局死因は詳しくはわかりませんが、今にも動きそうなくらいとても安らかな死顔でした。
それは私たちには救いでした。
死後何日かは経っていた遺体の状態や、
父の遺言により、葬儀は行わずにその日の夕方に火葬をする、
ということに決まり、それまでの時間を兄弟と過ごしました。
 
火葬され骨となって出て来た父の左足は本当に曲がってしまっていました。
私としてはこの苦痛から解き放たれて良かったのではないか、と思いました。
83年の生涯でした。
 
年寄りの一人暮らしだったということや、山の上でも暑い、ということでその日は外に泊まろう、
ということで、特に妹夫妻は小豆島で実家以外の初めての外泊になりました。
 
次の金曜日は役場やら、農協やら、郵便局やら、
新聞、電気、NTT、NHK、車の廃車の手配などなど事務手続きの嵐でした。
亡くなった人の口座は凍結され、遺族の全員の印鑑証明が要るなど面倒なのです。
それらは弟と妹が主に当たってくれて、
私は近所へ挨拶回り。
その方達には私も小さい時から本当にお世話になりましたが、
ひょっとしたらもう二度とお会いすることがないかもしれない、
と思うと胸に詰まるものがありました。
 
両親の死後、最も懸念していた、
家はどうするか、ということに対して早速朗報が来ました。
今小豆島が前面に押し出しているものの一つにオリーブがあるのですが、
ここ数年、オリーブの搾りかすや種子などを食べさせたオリーブ牛、というのが話題になっています。
それを今度は豚に、という話があるそうなのですが、その飼育地に苦慮しているそうなのです。
それで生前からその話が、父と交わされていたそうですがこんなことになってしまった、
ということで私たちが引き継ぐことになりました。
この話がうまく纏まれば私たちも父が遺してくれた財産を無駄にしないで済みます。
 
その晩も小豆島のホテルへ泊まり、
皆で神戸行きのフェリーに乗り、
それぞれ神戸で別れを告げました。
父はその神戸生まれ、母も兵庫県生まれ、
ということで、幼い頃は休みとなれば宝塚の叔母のところに遊びに来ていました。
ですので私としてなん年かぶりに訪れた神戸という土地も共に郷愁を感じるものがありました。
 
父の死にあたり、
たくさんのお悔やみを頂いたことはやはり少なからず傷ついている私にとりまして、
本当に心の支えになっています。
父も喜んでいるだろうと思います。
 
最後になりましたが、これを読んでくださった皆々様の、
ご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 
 
 

年頭のご挨拶

2015年01月04日 | 世間話

このブログは60日以上投稿がないとCMが表示されるのですね。

そんなに空けたのは初めてでしたので、そういうこともある、

と初めて知りました。

昨年の私は病気との闘いの一年でした。

顔面痙攣症で手術もし、

それでも良くならないので神経内科に通い始め、

通い始めたと思った右足に激痛。

整形外科に行ったら痛風ではないか、

の診断。

そのほかにも歯科に10年ぶりくらいに通いました。

今年も身体を大事にしながら、演奏活動も広げていきたいと思います。

今年も宜しくお願いの程申し上げます。

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演奏会のお知らせ

2014年09月14日 | 世間話
来る9月29日(月)
横浜みなとみらい小ホールにて、
15時半より(開場15時)、
 
合唱組曲「水のいのち」と五つの物語
白鳥の歌を忘れない
 
と題して演奏会が行われます。
琵琶法師であり、俳優である伊藤哲哉さん、
メゾソプラノ歌手の田辺いづみさんとのコラボレーションで、
このために結成された「水のいのち合唱団」が、
田三郎作曲、高野喜久雄作詩の「水のいのちを」歌って行く中、
伊藤さんが琵琶の引き語りや朗読を入れたり、
田辺さんの歌を入れたりして、
東関東大震災の事を語り継いで行こう、
という企画です。
「水のいのち」という曲は私にとって、
演奏する度に非常に体力と精神力を使わないといけない曲で、
つまり毎回文字通り「いのち」を削りながら、
そして輝かせながら演奏しないといけない曲です。
しかしみなとみらい小ホールという音響にも恵まれた環境の中で、
どのような演奏会に仕上がっていくか、
私も楽しみで仕方ありません。
そして伊藤哲哉さんと田辺さんとのコラボレーションにより、
どのような「歴史」が生まれるか。
ぜひ会場でその瞬間を体験して頂きたいと思います。
 
 
 
 
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演奏会のお知らせ

2014年09月12日 | 世間話

来る9月26日(金)、私が好きな合羽橋道具街の端っこにある、

台東区生涯学習センター ミレニアムホールにて、

モーツアルトの「フィガロの結婚」を上演致します。

若手歌手陣による、フレッシュな演奏です。

是非おいで下さい!!!

お問い合わせはk_mio_chor@yahoo.co.jpまでどうぞ。

 


久しぶりの更新

2014年07月28日 | 世間話

私がブログを更新しなくなって結構久しいのですが、
そのことにちょっと自分でも驚いています。
自分としては「休止」と思っていたのですが、
これでは完全に「停止」になってしまっています。
元来の性格で、「こうやろう」と決めたら結構粘り強くそうやるのですが、
逆に「もういいや」と思ってから投げ出す時間も短く、
今回も完全にその性格が出てしまった、
という次第です。
このブログを書いていた目的は色々あったのですが、
その多くが自分の中では達成したと思われたり、
逆に無意味な部分も分かってしまったりで、
自分としては毎日書く意味、意義が失われたのは事実です。
「毎日楽しみにしている」というお声も励みにもなっていたのですが、
毎日書く、となると仕事が昼から出かける、
という日は良いとしても、朝から出かけたり、
泊りがけだったりすると結構な労力になるのです。
そして、書いていた時は一日30分、
と時間も決めていましたし、大体それで大丈夫だったのですが、
書くネタを思いつくまでが苦しい時間でした。
だから自分の中では完全と言って良い程、
ブログの更新は消滅していました。
しかし、いろいろな方から、
そして直接日頃お会いできない人などから、
「いつ更新するのですか「さびしい」
などの声を多数頂くに当たり、
やはり毎日ではないにしても、
何かあった時には書いた方が良いのかな、
という気になり久々に更新してみました。
以前は随筆的に論調的に結構書いていたのですが、
人の意見は人それぞれですし、
その辺の事は人に任せるとして、
もっと気楽に散文的な感じで取り組んでみようかな、
と思っています。 
 
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演奏会のお知らせ

2014年06月09日 | 世間話

来る、6月30日、18時半より、
紀尾井ホールにて、
毎年恒例になっています
Libera Opera Seriesの
第12弾になります公演が開催されます。
演目はウンベルト・ジョルダーノ作曲の、
「アンドレア・シェニエ」です。
このプロダクションならでは、
のアイデアも満載で、見応えのある舞台をお届けできると思います。
メールにてのお問い合わせは
k_mio_chor@yahoo.co.jp までお願いいたします!
 

太郎と花子。

2014年05月28日 | 世間話

 


私がブログをほとんど更新しなくなって久しいですが、
時々再開の事に関して訊かれることがあります。
ブログを書くようになったきっかけはいくつかありますし、
どうせやるならサボリ症の私は毎日書く、
ということを課さないと続かないと思ったので頑張って来ました。
でもそれが時間的や、精神的な負担にどんどんなってきた、
というのは事実ですし、
そのきっかけのいくつかが消滅したのも事実です。
例えば、母を亡くして父が独りになり、
四十九日に時に帰郷したらインターネットが出来る環境になっていて、
父が私のブログを見ている、
ということがあったのですが、今年一周忌で帰郷したら、
それができなくなっていた、
などというのも一つの理由です。
 
ですので入院前後からは、気楽に気が向いたら書こう、
と思っていたのですが、気づいたら手術からもうひと月が経っていました。
術後の経過ですが、
先ず以前のブログにも書きましたが、
顔の左側の違和感は未だにあり、
それがせっかく手術をした右側にまで影響が出ている事、
つまり完全にスッキリした感じにまで戻っていない事が、
今一番の悩みの種です。
それから、歌う声が未だに出ない事。
それに伴ってかどうか、右耳にも異常が出て、
嚥下する時に音がしたり、耳が詰まった感じがしたり、
ということも出ましたがそれは若干改善されました。
頭の後ろを切ったので首に突っ張った感じがありますが、
以上の様な事は時間の経過で無くなっていく事でしょう。
それと体力が手術前に比べて明らかに落ちています。
久しぶりにジョギングをしてみたのですが、
いつもの距離を走ったらその日一日しんどさが付き纏いました。
そしてその日に限らず、仕事から帰って来たら本当に文字通り疲労困憊しています。
これは逆に体力をつけていかないといけません。
 
さて、今日ブログを書こうと思ったのは、
その療養中に私のブログにリンクを貼って下さった方がいらしたのですが、
その中でとても不思議な事があったので、
その事について書いておこうと思ったからです。
それは、ゴールデンウィーク中に小豆島に行かれた香川県の方から、
私のブログで野生のクジャクがいる、
という部分を引用したいとのお申し出があったのですが、
その方のブログを拝見させて頂くと、
二匹の猫を飼ってらして(うち一匹は行方不明中だとか・・・)
その名前がウチの猫と全く同じなのはともかく、
模様が全くと言って良い程瓜二つなのに驚いたのです。
名前はそれぞれ、ハナと太郎で、
ウチの猫も花子と太郎。
花子はいつもは「ハナ」と呼んでいるので、
心の中では「花子と呼んでくりょう」と思っているかも知れませんが、
しかしオスメスいれば太郎と花子になるのは偶然とは言え、
確率は高いと思います。
団員のKさんのところも太郎ちゃんですし。
そして太郎の模様や性格は、オシキャットという種類に似ていて、
元は野良猫ですが、似た様な模様の猫は良く見かけます。
一方花子の模様はその模様に白を多く足した様な感じで、
いわゆるブチと一緒で偶然性の高い模様なのかと思いきや、
良く似た様な模様の猫を見かけることがタマにあります。
でも、その猫の名前が花子、またはハナ、というのがこれで三匹目、
という偶然は単なる偶然なのでしょうか。
松戸でこんなポスターが貼られていました。
 
ブログのねこってるさんは香川県の方、ということもあり、
世の中はいろいろな縁で繋がっているんだなぁ、
とちょっと感心した出来事でした。
 
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演奏会のお知らせ

2014年05月24日 | 世間話

 

来る5月31日、私が指揮、指導をしている、
混声合唱団ショコラ、が演奏会を行います。
この合唱団は創立10周年を迎えます。
 
混声合唱団ショコラ
10周年記念演奏会
 
5月31日(土)
開場13:30、開演14:00
ルーテル市ヶ谷ホール
 
1st stage フォーレ合唱曲集
Ave Maria、ラシーヌの雅歌、他
 
2nd stage 高田三郎作曲「心の四季」
 
3rd stage 松下耕編曲「さだまさし作品集 北の国から」
道化師のソネット、精霊流し、他
 
4th stage ショコラセレクション
手紙、百万本のバラ、他
 
指揮 神尾昇
ピアノ 赤司美苗
 
入場無料ですのでどなたでも入れます。
皆さまのご来場を心よりお待ち申し上げております!!
 
 
 
 
 

退院してから

2014年05月09日 | 世間話

 

今日は朝から手術の執刀医の先生の診察を受けて来ました。
手術を受けた部分の事より、
退院直前に出てしまった薬疹についての診察が主でしたが、
その湿疹も言われないとわからないレヴェルにまで引きました。
原因となったのは、手術前から処方してもらっていた薬なんですが、
顔の症状のために肩こりがひどく、筋肉を弛緩させる薬でした。
これが副作用で、非常に眠くなる薬で、実はあまり飲んでいなかったのです。
しかし手術後、手術を受けていた時間が長かったせいもあるのでしょう、
首の痛みがずっとあったので、再び飲む事にしたのです。
そして退院、という日の朝方、首の周りが痒くて触れてみるとボコボコした感じが。
朝になって明るい中で見たら、すね以外の全身に湿疹が出ていたのです。
朝の看護師さんの回診の時にそれを伝え、
先生がすぐにいらいたのですが、その場で退院は中止。
薬のアレルギーだろう、ということでアレルギーを軽減する薬と、
ステロイドの投薬が始まりました。
引いていた熱もまた出たりして、これはしばらくは退院できないな、
という感じになってしまいました。
私はもともとトイレに行く回数が少ないのですが、
この前の日までも朝夕の二回、多くても三回、という状況で、
つまり水分をあまり摂っていないというのも良くない、
ということで、積極的に水分も補給しました。
そうこうするうちに同室の方で退院をされたり、
別の部屋に移動になったり、
一時帰宅をする人などがいたりで、
本当に退院するまでは私が一番古い患者になってしまっていました。
そして4月30日に退院できる筈が、
結局5月3日にまで延びてしまいました。
本当は先生はもう一日様子を見たい、
ということだったのですが、
自宅で大人しくしている、ということを条件に許してもらいました。
 
その後の状況としては、顔の右側を占領していた頬が引き攣った感じはなくなりました。
しかしながら、左側にも以前から似たような症状があり、
それは当然治ってはいません。
その影響と、手術前までの「くせ」が残っているのでしょうか、
右側の目も未だに閉じようとする症状が残っています。
それから微妙に味覚が変わりました。
「甘み」を「苦み」ととらえてしまう様です。
しかしこれは今日現在でだいぶ改善されて来たように思います。
今一番困っているのは、声がまだ戻らない、ということです。
これは人工呼吸器をつけていたせいだと思うのですが、
手術直接はかすれて声が出ませんでした。
今では喋る声はだいぶ良くなったのですが、
歌う声は全然、と言って良い程出ません。
ただこれは時間の経過を待てば治るだろう、と思います。
というか治ってもらわないと困ります。
 
今日の診察で顔の左側のことを相談し、
手術後の経過のこともあるので6月に再びMRIの検査を受ける事になりました。
いずれ左側も手術を受ける事になるのか、
それまでに症状が緩和しているのか、
どうなるか分かりませんが、
私の感覚的には全体的に、完全復活までは後一歩、
という感じです。
末文になってしまいましたが、
いろいろご心配して下さった皆さま、
いろいろご迷惑をお掛けしてしまった皆さま、
本当にありがとうございました。
心から感謝致します。
私はこんなにたくさんの皆さまに支えられて生きているのだなぁ、
と恥ずかしながら、改めて気がついた次第でした。
そして「送別会」を催して下さった新都心男声合唱団が、
今度は「復帰祝い」をして下さるそうです。
場所は送別会と同じ、早稲田の舟形や、
20時頃開催予定です。
お問い合わせはshintoshindansei@gmail.comまでお願いします。
 
 
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入院日記

2014年04月28日 | 顔面痙攣症に関して
今日の記事は自分用の記録、という意味合いもありますが、
同じ症状で悩んでいる人が手術を受けたらどうなるか、
ということを参考にしてもらいたい、
という部分も含めて書き溜めて来たものを掲載しました。
 
4月20日(日)
朝8時半前に自宅を出発、9時半に練馬聖ガブリエル教会に到着。
10時半からのミサに向けて聖歌隊の練習後、
イースター礼拝が滞りなく執り行われた。
160名ほどの出席があったらしい。
祈祷の中で、私の入院と手術のことに関してお祈りを捧げてくださった時は、胸が熱くなった。
イースターの礼拝だったのだが、中でも卓司祭の説教が印象に残った。
「イースターというのはディズニーランドでも、スーパーでも取り上げられていてタマゴのセールなどをやっているが、
 本当の意味でのイースターについて考えて欲しい。
 そして、自分もそれについて考えたが、イースターというのはその日のことだけ特別に思う日ではなくて、
 キリストが復活されて、常に私たちのまわりにいらっしゃる。
 つねに復活されたことを思い、祝福すべきである」
という内容だった。
それはクリスマスも一緒だろうし、
引いては私たち一人一人も一緒だと思う。
つまり、この世に誕生した、その歓びは誕生日だけ祝うのではなく、
常に常にそのことに思いを馳せ、感謝の気持ちを持つ。
そういうことだと思う。
お世話になった皆さんに挨拶をし、辞退してから一度帰宅。
昼食を摂りいよいよ病院へ。
前回は自転車で行ったのだが、今回はさすがに松戸駅から路線バスで。
到着後入院をする4階へ行き病棟へ。
病室へ案内され、パジャマに着替えたら検温と血圧を測る。
最近はこの病院に限らないらしいのだが、
寝間着とタオルは半強制的にレンタルになる。
病院や病室の設備の説明を受け、
付き添いで来てもらった妻と子供を返したら後の時間は完全に自由。
6時ちょっと前には夕食も出て来た。
いつもならこれから仕事なのに、夕食を食べてベットに寝転んで読書、
などというのは何となく落ち着かなかった。
テレビも観たいものがあったら録ってから観るし、元来映画が多いのだが、
幸いなことに?「相棒」シリーズの放送かあったのでそれを観ることに。
小沢征爾の息子も出ていたが、完全に役者だな、
と改めて思った。
9時過ぎに消灯されたのだが、
思ったより暗くなったのでちょっとびっくりしたのと、安心したのと。
この病院のロケーションは幹線道路からも離れているので、昼間でも静か。
が、疲れていないのと、常習しているアルコールを摂っていないので、
寝つけそうになく、かと言ってベッドの照明を入れると隣の人に迷惑そうだったので、
iPhoneでゲーム三昧。
それでも12時半頃には眠りに就いた。
 
4月21日(月)
前の日に看護師さんから、朝五時頃に採血がある、
ということだったので何となくその15分くらい前に目覚めてしまう。
なぜそんなに早朝に採血するのか訊くのを忘れたので、
後から別の担当になった看護師さんに訊いてみると、
要するに「朝食前」の採血がしたいそうだが、
他の患者さんのことも同様に採血がある人がいるし、
その血を検査して先生に伝えたり何だりやっていると、
結局5時くらいからやらないと間に合わない、
ということだった。
その看護師さん曰く、前の病院では4時からだったそうだ。
当然だが看護師という仕事は楽ではない。
7時前に朝食。
午前はオペラの準備。
病院へ来ても暇にはならない。
いや、こういう時だからこそと言うべきか。
この日も特に診察などはなかったが、
手術室の動線や、家族控え室、手術後の動線の説明などがあった。
6時過ぎに夕食。9時過ぎに消灯。
次の日は手術ということで緊張して眠れない、
ということもなくすんなり眠ることが出来た。
 
4月22日(火)
6時起床。血圧、体温を測ってもらい、
顔を洗ってひげを剃る。
そして7時半、点滴スタート。
 
 
8時過ぎに妻が来て、弾性ストッキングを装着。
ずっと同じ姿勢でいるためにエコノミー症候群を防ぐため。
手術着に着替え、荷物をまとめ迎えを待つ。
9時ちょっと前にお迎えが来て手術室へ移動。
 
 
眼鏡を外していたために詳しくは見えなかったけれど、
大きな倉庫の様な所に入り、その中にガレージの様に分かれて手術室がある。
そのうちの第四手術室へ入った。
手術台の上に仰向けに寝て、心電図やらなんやらのセンサーをペタペタ身体に貼付けられ、
麻酔科医の先生が、
では今から麻酔を入れて行きますよ~、
という言葉の最後を聞いたか聞かないうちに、あっという間に意識が無くなった。
普段寝る時は意識が落ちて行く感覚、
例えば家の桟に片手をかけてぶら下がり、その手が離れるような感覚なのが、
この時は真っ黒い墨のような霧に周りから一気に囲まれたような感覚だった。
次いで起こされて目覚めるまでは全く記憶も感覚も無し。
起きた瞬間は、「ああ、よく寝たなぁ」という感想だった。
起きるちょっと前には、フレンチのフルコースを食べている夢と、
なぜか頭の中は信時潔作曲の「丹澤」が鳴っていた。
ICUに移る時に喉が苦しく、痰の吸入を要求。
そしてICUに寝かされてから自分の体の様子が分かってきた。
後で聞いたことだが、手術の時間が予定を大幅に超えて延びたそうで、
最初診察に通っている時に聞かされていたのは3時間半。
前の日には多めに取ってだろうけれども5時間の予定と聞かされていたが、
結局は手術に7時間、その後の検査に1時間、
計8時間を費やしたということだった。
そのために手術台に接していた所がうっ血して、
床ずれの様な痛みを身体のあちこに感じる。
特に左半身を下にして寝ていたので、
左の脇腹が強烈に痛い。
その他にも後頭部数カ所や、首も同じく痛い。
枕の位置や高さをいろいろ直してもらって、
何とか耐えられるまでになったけれど、
傷の痛みは全く感じないほどそれらの痛みが酷かった。
それから手術中に気管に挿管し呼吸を保っていたので、
前々から聞いていたが声帯をやられて声が出ない。
暫くしたら鼻から胃に挿管していたチューブを外してくれた。
看護師さんに訊いたら次の日の朝まで入っている、
と言ったのでげんなりしていたのだが、
主治医の先生が「抜いてあげようよ」ということで抜いてくれた。
手術中に吐き気がでるといけないということで挿管してあったそうだが、
抜く最後の瞬間に胃液を感じて思わず吐き気に襲われた。
吐いた時に胃液が出るから、体験的に胃液を感じると気持ち悪くなるのか、
それとも胃液そのものが吐き気を催す成分を本来的に含んでいるのか。
いずれにしても人体の不思議を期せずして感じた。
それから数時間後眠りに就いたのだが、
その時に先生が回診。
本当は目覚めてしまったのだがそれに気付いてくれず看護師さんに、
「寝ちゃった? 凄いね、何事もなかったみたいだね。さすがマエストロだね」
などと話しているのが聞こえて苦笑してしまった。
それからしばらくは酸素吸入をしていたからか、
頭が妙に冴えていろいろな思考が浮かんでは消え、消えては浮かび、
を繰り返していた。
その中で自分の症状として面白かったのは、
浮かんだ曲の歌詞が思い出されない部分がところどころある、ということだった。
今では簡単に思い出せるので術後の後遺症的な症状だったのだろうか。
そして尿管カテーテルの様子や、点滴の様子を看護師さんが度々見に来てくれた。
一度警報アラームが鳴った時に来てくれた時は、
肩にタオルを羽織り髪を下ろしていたので、
入浴後か入浴中に来てくれたのだろう。
シャンプーの匂いがした。
 
4月23日(水)
6時頃起床。
8時過ぎに担当の引き継ぎがあり、
石川県出身の看護師さんが担当に。
左手に入っていた針の、動脈に刺さっているのを抜いた。
この時に動脈だから、ということで圧力をかけて固い絆創膏を貼るのだが、
剥がせるのは6時間後、ということだった。
それでもその後は内出血をしてアザが残った。
 
 
そして着替え。
先ずは尿管カテーテルを抜くのだが、
看護師さんがあまりにも若いので大変恐縮してしまった。
下着も履かせてもらった。
特に男声は抜く時に痛い、と聞いていたのだがそれは噂通りだった。
後でトイレに行った時は血尿になっていた。
そして体を拭いてもらい、手術着からパジャマへ。
パジャマを着たら少しずつ普通の状態に戻っていっている気がして、
ちょっと気分が楽になった。
そして初めてベッドから降りて自力で歩き、歯を磨きに。
手術後にベッドを起こしてもらって水を少し飲んだ時は若干の目眩をかんじたが、
もうこの時は平気になっていた。
時にふらつきも感じず歯を磨いたが、
朝、水を貰った時にも感じたむせ返りをやはり感じた。
その後も水を飲みますか?と聞かれても怖くて飲めなかった。
本当はそれで一般病棟に移動するはずが、
一般病棟が満床で、もう一泊ICUに留まることになってしまった。
読む本もなく、看護師さんに「暇ですね」と言ったら、
何と、テレビを持ってきてくれた。
ICUにも三台だけあるようだった。
私が描いていたICU病棟とは程遠い。
報道番組では韓国の旅客船の沈没事件についてと、
オバマ大統領来日に向けた報道内容ばかりやっているし、
他にも面白い番組など皆無だったが、
テレビはただ見流しているものなので、
時間だけは無駄にではあるけれども確実に過ぎていってくれる。
昼には術後初めての食事。
おかゆではなくて普通のご飯だったが、その方がすんなり喉を通った。
逆に汁物やお茶では結構むせたので、
その夜の食事からとろみをつけるパウダーを入れてもらった。
妻が子供と共に見舞いに来てくれた時は、
ちょうど初めて自分でトイレに立っている時間で、
自分のいた個室からトイレまでは遠いのだが、
逆にICUの出入り口のすぐ近くで、そのタイミングで来てくれたのは助かった。
さすがに子供はICUの中には入れないのである。
暇だから本を買ってきて、と頼んだ。
ICUに持って入れる物は制限されているのかと思ったら、
消毒的なことも含め、これも結構緩い感じだった。
その夜は前の晩よりも良く眠れた。
 
4月24日(木)
いよいよ、というよりやっと一般病棟へ移動することに。
朝起きてから朝食を摂り、身体を拭き、着替えをして、
一般病棟からの迎えを待つ。
10時頃に「お迎え」が来て、車椅子に乗り2FのICUから、
4Fの一般病棟へ移動。
車いすに乗ったのは多分生まれて初めての体験。
一般病棟の部屋はICUへ行く前と一緒だったのだが、
面子が変わっていたので最初は気付かなかった。
同じ部屋だと分かったのは、
入院した時にいた人が入り口に近い所にいるのだが、
次の日にその人の顔を見たからで、
自分がいたベッド、空いていた隣のベッドはすでに別の人が入っていたわけだ。
ICUにいた時に不整脈が何度か出て、それがあるとアラームがなるのだが、
詳しく心電図を取るために、24時間モニターの装置をつけられた。
症状としてはVT(心室頻拍ventricular tachycardia)と言うらしい。
それ以外にもモニタリングするセンサーが手術時から貼られて、
左手には点滴を打っているのだがそれも機械化しているのがつけられている。
ベッドの上でちょっと動くとそれらが絡み合って面倒くさいことになった。
自分の荷物も戻ってきたので持ってきた本を読んで時間を過ごしたが、
持って来た大きなヘッドフォンは傷に当たるのが怖くて使えなかった。
 
4月25日(金)
術後初めての一般病棟はやはりICUより静かな分、
よく眠れたと思う。
しかし微熱が続いていて前の晩もアイスノンをもらって寝た。
24時間が経ったのでVTの機械は外してくれた。
この日はK-mio ChorからZさんと、Sさんの2人、
コーロつるさしからNさんとOさんが2人、
そして妻と子供が同時にお見舞いに来てくれた。
皆さん私の元気ぶりには驚いていたようだけれど、
まだ声が良く出ないのと、顔の感じが変な話しだがまだ慣れないので少々疲れた。
その後K-mio Chorの副団長が2人一緒に来てくれた。
松戸に住んでいる人間が都内へ出るのはあまり遠く感じないが、
都内に住んでいる人が松戸へ来るのはとても遠く感じるだろう。
本当に有り難いことだ。
この日の夜から点滴の機械も外された。
流れが悪くなると警告音が出るのだが、
それも必要ない、ということだろう。
気分的にも楽になった。
 
4月26日(土)
病室での生活にも随分慣れて、一階の売店でコーヒーを買って来て飲んだりした。
いつもの生活とはまだ大きく違う部分もいっぱいあるが、
だんだんと普段に戻りつつある。
シャワーが浴びれるかもしれない、
ということだったが、主治医の先生が病院に来られなかったので延期。
前の日までと同じように身体をおしぼりで拭く、
というのに留まった。
後頭部に手術の時に流れ出た血の塊が残っているので早く流してしまいたい。
この日一日で、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読破してしまった。
そして夜は「テルマエ・ロマエ」を観てしまった。
 
4月27日(日)
この病院の面会時間は平日は15時から20時までだが、
日曜祝日は11時から可能になっている。
ということで朝から病院のスタッフは少なめだったのだが、
午後からはそれ以外の人で賑わっている、という様相を呈していた。
日曜日だから先生の回診もない、
つまりこの日もシャワーを浴びられない、
と諦めていたのだが、
午前中に脳外科の他の先生が診て下さって、
もう傷も乾いている、ということで傷を覆っていたガーゼも、
またガーゼ付けますか、外しておきますか、
と訊かれたので、当然外してもらった。
それから後頭部で血糊がついている、
と思ったのは本当はかさぶたで、
手術中に頭皮が動かないようにピンで固定してあった名残だそうだ。
そして6日ぶりにシャワーを頭から浴び、
やっと本当に生き返った気分になった。
おでこに打ちつけられていたホチキスの針も、
シャワーを浴びたらむき出しになり、
3本刺さっていることが判明。


これも手術中に頭皮がずれるのを防ぐため。
売店でコーヒーを買って来て入浴後のひと時を味わった。
昼食後に妻と子供が面会に来て、
この日は誰もお見舞いに来る、
という予定がなかったのだが、
東京で私の合唱団に入っていて、
昨年結婚、そして転勤で沖縄に赴任をしているKさんが、
東京での結婚式ついでにわざわざお見舞いに来てくれた。
妻はいつもは一時間ほどで帰るのだが、
久しぶりにKさんに会いたい、ということで一緒に二時間ほど待った。
そして到着後、沖縄の話や、Kさんも仕事が病院関係なので、
この病院と沖縄の病院との違いなどの話を色々聞かせてくれる中、
画家のAさんから急遽お見舞いに来たい、
という連絡が入った。
Kさんは夜の飛行機の都合がある、
ということで妻たちと一緒に帰った。
そしてしばらくしてAさんが到着。
Aさんとは普段からいろいろな波長が合って、
お互いの意見がよく理解出来る人の一人なのだが、
今回の手術に関してもいろいろと話をした。
この病気は単純に顔面神経と血管が癒着してしまうことで、
分かりやすく言えば神経が「ショート」してしまう病気で、
元来その当たっている所は神経を包む膜も薄く、
謂わば誰でもがなりやすい病気である、
ということは事実なのだが、
私は個人的にやはり自分自身にかかっている、
あるいは自分自身にかけているストレスが大きな原因だろう、
と自己分析している。
他の人はあまりこういう話をしても理解しがたいだろう、
と思ってあえて話さないのだが、
Aさんとならいろいろとそれらについて話すことが出来た。
そうしているうちに、コーロファンタジアのMさんたち2人がお見舞いに。
事前に知らされていなかったので驚いたが、
ちょうど病室を出た所のラウンジでAさんと話している時だったのでタイミングも良かったし、
やはりお見舞いにわざわざ来て下さる、
ということは嬉しいことだ。
療養の身だから、と遠慮する向きも多いだろうが、
入院というのは幽閉されているのと事実上同じなので、
やはり多くの人と会える、というのは嬉しい。
何よりもわざわざ松戸の病院まで足を運んでくれる、
その心意気が嬉しい。
もちろん長居は禁物なのだろうが、
自分が入院してみて、入院する人の心理もいろいろと理解できたので、
これからはちょっとその事についても思いを巡らせたいと思う。
3人と話している間、自分の顔のちょっと気になった部分があった。
手術前は右の頬が上方にねじ上がり、目蓋が閉じてしまい、
自分で意志を持ってでないと目が開けられなかったのだが、
その頬のねじ上がりが全く無くなった。
しかし話していて目を閉じようとする症状は残っているし、
何より右側がスッキリした分左側半分の顔が何となく重い。
鼻や耳の通りも右側は良くなった気がするが、
左側は何となくスッキリしない感じになってしまった。
しかし「部屋の模様替え」のように「顔の模様替え」が済んだばかりなので、
その感覚、使い方にまだ自分自身が慣れないのだろう、
と思う。
それらも「リハビリ」をしていく必要がある。
それから、病気の遠因になっているストレスに関しては、
これから真剣に取り組んでいく必要があると思っている。
考え方や、仕事のやり方や、人との接し方。
いろいろと原因になっていたと思われる部分に関して、
ひとつずつ、気付いた都度直していく必要があると思った。
今回の手術は自分では「生まれ変わった」と思っているが、
それは肉体的な部分はもちろんだが、
特に精神的な部分、もっと言うなら自分の生き方そのものについて、
全て生まれ変わったつもりで生きていく必要がある、
と思っている。
というようなことを3人とも話した。
この日の夜からは点滴も取れ、
後頭部の傷を見なければ、
そしてパジャマを着ていなければ、
私は何のためにこの病院にいるのか、
他の人に説明をしなければいけないような感じになってしまった。
後は傷とおでこのホチキスの針を抜くのを待つのみになっている。