漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

沙石集

2012年08月16日 | ものがたり

帰省して墓参りなどされていたが、
ホッとする間もなく今日から仕事と云う方も多いのだろうなと思う。

墓参りや法事と云うのは、
日ごろの不信心から、
心の隅で「ムダなんだがなぁ」と思っていても、
キチンと済ますと、責任を果たしたようで心が洗われるものだ。
   
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しもつけの国の、
「あわじのかみ」という侍は、
亡くなった父のために りっぱなお堂をつくられ、

あとはおそなえ物をして、
坊さんに拝んでもらうだけとなったが、
どこの坊さんにするか、いっこう けらいたちにさしずをするようすがない。

「どうしましょう」と聞いても、
「わしに考えがある」というだけで何もせず、その日が近づいてくる。

これでは、間にあわないと誰もが思ったが、
あわじのかみは気の荒い人だったので、おそれて誰も言い出せない。

とうとうその日が来ると、

お堂ができるまでの千日のあいだ、
お湯をわかすなど下働きしていた身分の軽い坊主をつかみ出し、

「お前が拝むのだ」と言われたので、

おどろきあきれた坊主が、
目も口も開けたまま、へんじもできずにふるえているを、

引っぱってお堂の中へつれて行き、

「ただ、
『これは亡きとののためにつくりたまえるなり』とだけ言って、

 あとは鐘ひとつ打て」と教えれば、

その坊主も、
ふるえふるえそのとおりにすれば、
坊主には、いっしょう暮らすに困らぬほどの金や物を与えけり。

さて、そののち、
あわじのかみどのの言われるには、

「いかに身分のたかい坊主をよんだとて、 
 心にもない世辞をまじえた法話などされては功徳にならず、

 あのやせ坊主は、
 たとえ湯わかしといえども千日のつとめをした者なれば、
 こちらの方が功徳となるであろうぞ、
 亡き父は、我が心をよく知りたまうことなれば」と申されける。

まことに、
施主の気に入らんと
無きことまでつくり ほめあげる名僧よりは、
この下坊主の方が、みほとけも聞き入れて下さろうとこそ思われける。

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この話は、沙石集にあるものですが、
今よりもっと仏教が人々の生活と密着していた時代だったからこそ、

センセーショナルな事件として記録されたのだろうと思う。






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