きのうの続き。
尚、以下の文中、
「疝気」は、漢方で、下腹部の痛む病気。
~~~~~~~~~~~~~~
戊辰(ぼしん)の戦乱は、子供心にも恐かったとみえてありありと覚えている。
前年の十二月、押し詰めて何日であったか、
深夜に表の戸をあわただしく叩いて、
江戸堀の俵屋から、
今、いよいよ何処やらへ軍勢が来たとか、火を放したとか、報じて来た。
兼ねて殺気が市中に満ちていて、
「何時、逃げねばならぬやもしれぬ」と云う覚悟が有ったらしい。
折から祖父君は疝気にて、
奥に寝ておられ、歩行が全くできぬのである。
(中略)
祖父君はまた剛気の方であるから、
「おめおめと逃げるようなことはせん。
女や子供は逃がしてもおれは残る、
老いたりとも男子なり、死すともこの家を出ては祖先に申しわけがない。
それも、今すぐここが軍場(いくさば)になると云うのではなし、
愚かなことを云うな」と逆に諭される。
~~~~~~~~~~~~~
その剛気な老人をようように説得して非難し、
その間のエピソードが語られるのですが、その辺りは大幅に割愛。
扨(さて)、
鳥羽伏見での戦争も新政府軍の勝利となり、
幕府側の武士たちは、それぞれに落ちていった。
もう、ぼちぼち、
市街の店に帰っても良かろうかと云うある日、
避難生活をしている近郷の村で、突然、大きな音がした・・・。
尚、以下の文中、
「地雷火(ぢらいか)」は、昔の地雷の呼び名。
「アルキ」は「歩き」、走り使い、町内に触れ歩くような役をした小者。
「肥後様」は、熊本細川家、「因州様」は鳥取池田家。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
エライ響きがして、座敷の大鈴が天井から落ちたので、
地震かと思うたら、
翌日の話には、アレは大阪の城の地雷火がはぜたのであると云うていたことである。
城中に地雷火が埋めてあって、
徳川氏が江戸へ帰ったあとに狡猾(こうかつ)な人らが、
「分捕り」と云うて、
米やら金やら拾いに行た処、その地雷火が破れて沢山に人が死んだそうだ。
それから何日であるか、
久々淀屋橋の宅へ帰って店の半戸から表を覗くと、
大きな髷(まげ)に陣羽織(じんばおり)着た人やら、
筒袖に袴はいて大刀持って行く人やら、何とのう騒がしく、
その当座は、日々何度となく大名のお通りがあった。
町内のアルキが触れてくると、道に筵(むしろ)を敷いて下座する。
肥後様は陣太鼓で旧式、
因州様は調練太鼓、イヤ古風がよいとか洋風がよいとか噂していた。
~~~~~~~~~~~~~~
軍事パレードを見るような暢気(のんき)さだが、
この時の戦争は、
侍と侍だけの戦争ではあることだし、
又、大坂は戦場にならなかったのだから、住民としてはこんなものだろう。
処で、この時の爆発のことを記して、
「ちなみに大坂にては、城内火薬爆発の事をドンと云い伝う」とある。
その「ドン」に付いては、
別の記録に興味深い話があるので、それはまた明日にでも。
尚、以下の文中、
「疝気」は、漢方で、下腹部の痛む病気。
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戊辰(ぼしん)の戦乱は、子供心にも恐かったとみえてありありと覚えている。
前年の十二月、押し詰めて何日であったか、
深夜に表の戸をあわただしく叩いて、
江戸堀の俵屋から、
今、いよいよ何処やらへ軍勢が来たとか、火を放したとか、報じて来た。
兼ねて殺気が市中に満ちていて、
「何時、逃げねばならぬやもしれぬ」と云う覚悟が有ったらしい。
折から祖父君は疝気にて、
奥に寝ておられ、歩行が全くできぬのである。
(中略)
祖父君はまた剛気の方であるから、
「おめおめと逃げるようなことはせん。
女や子供は逃がしてもおれは残る、
老いたりとも男子なり、死すともこの家を出ては祖先に申しわけがない。
それも、今すぐここが軍場(いくさば)になると云うのではなし、
愚かなことを云うな」と逆に諭される。
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その剛気な老人をようように説得して非難し、
その間のエピソードが語られるのですが、その辺りは大幅に割愛。
扨(さて)、
鳥羽伏見での戦争も新政府軍の勝利となり、
幕府側の武士たちは、それぞれに落ちていった。
もう、ぼちぼち、
市街の店に帰っても良かろうかと云うある日、
避難生活をしている近郷の村で、突然、大きな音がした・・・。
尚、以下の文中、
「地雷火(ぢらいか)」は、昔の地雷の呼び名。
「アルキ」は「歩き」、走り使い、町内に触れ歩くような役をした小者。
「肥後様」は、熊本細川家、「因州様」は鳥取池田家。
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エライ響きがして、座敷の大鈴が天井から落ちたので、
地震かと思うたら、
翌日の話には、アレは大阪の城の地雷火がはぜたのであると云うていたことである。
城中に地雷火が埋めてあって、
徳川氏が江戸へ帰ったあとに狡猾(こうかつ)な人らが、
「分捕り」と云うて、
米やら金やら拾いに行た処、その地雷火が破れて沢山に人が死んだそうだ。
それから何日であるか、
久々淀屋橋の宅へ帰って店の半戸から表を覗くと、
大きな髷(まげ)に陣羽織(じんばおり)着た人やら、
筒袖に袴はいて大刀持って行く人やら、何とのう騒がしく、
その当座は、日々何度となく大名のお通りがあった。
町内のアルキが触れてくると、道に筵(むしろ)を敷いて下座する。
肥後様は陣太鼓で旧式、
因州様は調練太鼓、イヤ古風がよいとか洋風がよいとか噂していた。
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軍事パレードを見るような暢気(のんき)さだが、
この時の戦争は、
侍と侍だけの戦争ではあることだし、
又、大坂は戦場にならなかったのだから、住民としてはこんなものだろう。
処で、この時の爆発のことを記して、
「ちなみに大坂にては、城内火薬爆発の事をドンと云い伝う」とある。
その「ドン」に付いては、
別の記録に興味深い話があるので、それはまた明日にでも。