きのうの続き。
正月草々、鳥羽・伏見で始まった戦争は、
幕府方の負け戦となって、
大阪に居た徳川さまの侍は皆逃げてしまい、
跡へ薩摩、長州、土佐の兵隊が繰り込んで来ました。
そのうち、だれ云うともなく、
「将軍さまは紀州に落ちて、官軍は今大阪城を囲んでいる、
今なら誰でもお城に入れる、
こう云う時に入らないと拝見はできない。」と触れ散らしたのです。
さあ、見たこともないお城の中が見られると云うので、誰もが押しかける。
私なども一番に出かけました、
行って見ると、
なぜか薩長土の軍隊は入城しないで、離れて取り巻いているだけです。
その内に、見物の誰かが一人二人と入り、
軍隊のお咎(とが)めがないと分かると、
他の衆も付いてゾロゾロ御城内に入り出したのに、
それでも一向に咎(とが)められるようすがない。
御城内のお御長屋には、
幕府の方々が慌てて逃げ出したか、
夜具や衣装をつめた葛籠(つづら)がそそのままに投げ出してある。
どうせ持ち主が居ないんだからと、
中の一人が、欲も手伝って持ち出しに掛かると、
それなら我も、私も、と云うわけで、皆、我勝ちに分捕って引き揚げました。
これを見ても、軍隊の方ではなにも咎めません。
そうなると、この機逸すべからずで、
市中の評判となって、翌日には、見物や分捕り組で大勢の人です。
処が、突然、地雷火が大爆発。
見物の男女は真っ黒焦げになってお濠へ刎ね飛ばされました。
ウソかホントかは存じませんが、
その後の噂では、地雷火の瀬踏み(様子見)のため見物人を入れたのだそうです。
それから入城禁止になって、
その上、
「持ち帰った品々は届け出ろ、さもなくば厳罰に処する」と云う御命令が出まして、
皆、震え上がり、
とったものを御返しに参ったのです。
立派の家からも葛籠を御返しに来るので、
「マァ、マァあすこも泥棒のお仲間ですね、オヤあの家も」と云う分けです。
何の事は無い、
地雷火の人柱に上がって、褒美の金を召し上げられたような始末でした。