武蔵野の茶色の木立の中に、ひと際鮮やかな濃い桃色が目を引いた。
早咲きの桜、雪割桜だ。背景に広がる一本一本の木の幹も枝も、パッと見ただけではわからないけど今も内側で芽吹きに向けて鼓動してるんだろう。
生まれてくる前もこの世を去った後も、こんなふうに命は巡っているのかな
先日、庭木の剪定についてダスキンさんに相談にのってもらった。
わたしの小学校入学記念に植えてもらった夏みかんの木は、毎年今頃になると父が根っこの周りをシャベルで掘って肥料を入れ剪定もしていてくれたおかげで、このところ普通の段ボール8箱くらいの収穫がある。
母が生きていた頃は年に数回東京から帰省していたわたしに、母から「お正月は家族で夏みかんの収穫行事をするからね、採りに帰ってらっしゃいよ」と言われていた。それでも帰る時期がずれると、近くの郵便局から他の食材や庭のどくだみを乾燥させた葉などと一緒に小包が送られてきた。
家族をつないできてくれた木。
ダスキンさんは庭の測量が終わって、
「普段わたしたちが看させてもらってる5倍はありますのでね、これ全部旦那さん一人で伐ってらしたのは、たいしたもんですわぁ」
と、屋根に届く高さの樫やケヤキ、杏子や椿を見上げている。
この人には三度お会いして、だんだんわかってきたことがある。なんというか会話と会話の間に独特の間があくので、その度にわたしはなんだか雨の日、水たまりに気をつけながら歩いてるような気分になる。
そして、そのまたいっそう「長い間」―もくもくと測量したり、スマホで植物の特徴を調べたり、あちこちの木をじっと見ている―に、わたしの頭のスクリーンには庭仕事をする父の面影がしとしとと降り注がれて、今はひとりぼっちで庭に出ることの寂しくなった心がちょっと、そおっと癒される。草むしりをしたり、剪定道具や消毒剤の整理をしたり、思わぬところに父が小鳥たちにあげていた古くなってしまったお米とかビスケットとかを見つけたりしながら。
わたしたち家族の好きな木を、同じように植物の好きな人が看てくれているだけで、ほっとして気持ちが温かくなる。
つづく
本日のバリねこPuspaさん。
傘に合わせて 猫背伸ばすにゃー