むすんで ひらいて

YouTubeの童話朗読と、旅。悲しみの養生。
ひっそり..はかなく..無意識に..あるものを掬っていたい。

秋の気配

2012年08月30日 | 日記
雨がざっと降り、すぅーっと冷めた風にのって、とうふ屋さんのラッパの音が聞こえてきます。

空は少し高く、日の沈むのは、だんだん早くなってきましたね。

この前の日曜日、友人宅の周りの田んぼにも、収穫の時がきました。



こちらはその二日前、午後一時の太陽をめいっぱい浴びる稲穂たちです。

まっすぐ伸びるあぜ道に足を踏み入れると、イナゴがびゅんびゅん、水しぶきのように両側に飛び立っていきました。

きつね色の向こうに、水路の橋につけられた白いガードレールが見えました。
その上に、ちょっと背中を丸めたちいさな人のようなシラサギが、向かい合って三羽とまり、なにやら集会を開いています。
同じ色のそばは、やっぱり落ち着くの?

前方の小川にかかる橋には、一羽のカラスがとまって、下の方を見ています。
視線の先を遠目でのぞくと、水浴びをしているもう一羽が、黒々した羽を艶やかに広げていました。
なるべくおじゃましないように、道の端っこをのんきな風で通り過ぎます。

とその時、足元で、ちらっと何か動きました。
さあ、何がいるか、わかりますか~



しゃがんだまま、そおっと近寄ってパシャ



透き通るような瑠璃色のトンボです! 
はじめてだったので、もっと近づいて見たかったけど、おどろかせてしまいそうだから、またそおっと後ずさり。

道端には、大きなひまわりが五本、並んで重たそうに花首を傾げています
朝と夜に見かけた、ティースプーンにちょうど乗る大きさの、思いのほかよく跳ねるカエルくんは、こんな日中は湿っ地で休んでいるのかな。

稲の刈り入れが済んで、彼らはもう、次の暮らしに慣れたでしょうか。


夏の終わりは、昨日読んだ、ジョーン・ロビンソン作 「思い出のマーニー」の中にも見つかりました。

主人公、少女アンナの夏休みもあと二日。
もうすぐ、ロンドンの家に帰るところで物語は閉じられます。
彼女の世界が、ぐっと広がっていく余韻に満ちて。

アンナも、前回あげた二作の主人公と似ていて、家族のいないさみしさを抱えて育ちますが、夏の海辺で過ごすうち、“新しい家族”との出会いによって、居場所を見つけていきます。


今日はこれから、庭トマトの最後の穫り入れです。
おととい、カレーに入れたら、さっぱり洋風の夏カレーになりました。

バーベキュー台に並べる食材も、秋刀魚やおいもに変わり、畑の隅には甘いブルーベリーが生りました。

秋の気配は、そこここに寄せてきています。
季節が変わっても、みなさんの日々が、安らかでありますように。


                         かうんせりんぐ かふぇ さやん     http://さやん.com/
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それでも 幸福なのは。。

2012年08月25日 | こころ
まだまだ日中は暑いですが、夜になると、ひと頃とは違った涼しい風や虫の声が、窓から入ってくるようになりました。
今年は、とくべつ冷房をつけずに過ごしているせいか、秋のかすかな足取りを、より近くに感じています。


そんなわけで、この夏は、もわっとした熱気を抜けて、旅先のちいさな図書館や、街のカフェで涼をとることも多くなり、今週そこで、すがすがしい二冊の本と出合いました。
それは、

ドイツの作家、エーリヒ・ケストナー の「飛ぶ教室」と、
梨木香歩さんの「雪と珊瑚と」。 


どちらの主人公も、温かい家庭には恵まれていませんでしたが、やがて、気の合う素敵な人たちに囲まれ、人生は豊かに展開していきます。
そしていつも、彼らの傍には、さりげなく「賢い理解者」がいます。

「飛ぶ教室」の主人公、少年ジョニーの友人で、弱虫なのを気にしているウ―リは、みんなに勇気を証明しようと、運動場の高いはしごから飛び降ります。
お見舞いに駆けつけて、困惑している彼の両親に、ジョニーは、

「避けるわけにはいかない、つらい経験ってものがあるんです」・・・「ウ―リが足を折ってなかったら、きっと、もっとひどい病気になってたと思います」
 
と、話します。

先生は、生徒みんなに、
「勇敢であることも、勇敢でないことも、できるだけひっそりやってもらいたい」
と、「おとなのやり方」について断りました。

無謀な行為は、誉められることではありませんでしたが、その儀式のようなものを境に、ウーリは自分への誇りを感じ、満足して、それまでの弱虫から脱皮します。

ウーリの心に寄り添い、行動の奥の意味を見つけてくれたジョニー。
その彼が大好きな、前述の先生は、子どもの頃に寮生活を送っていた学校で、理解ある大人と出会えず、苦い経験をしていました。
当時支えてくれたのは、やはり心の通う親友。
彼は、その経緯を語り、

「・・・決心したんだ。苦しんだのは、心を割って話せる人がいなかったためだから、まさにこの学校で、自分が舎監になろう、ってね。そうすれば、少年たちは、悩みごとをなんでも相談できるわけだから」  (舎監とは、寄宿舎を管理・監督する人)

と、胸の内を明かします。
おかげで、今の生徒たちは、彼に心を許し、明るく成長しています。


いっぽう、「雪と珊瑚と」の主人公珊瑚は、多くの協力者を得て順調に夢を実現していきますが、その生きざまに反発心を持つ人も現れます。

けれど、その全体における印象が、感傷的というより、現実の一部として淡々と映るのは、彼女自身の強さの他に、年上で知恵のある理解者や、志を共にする友人がいることで、珊瑚の心が開かれ、澄んでいるから、とも言えるでしょう。


この二つの作品に流れている「それでも幸福な」トーンって、どこからやってくるんだろう。。

人間なんてみんな、病理が物質化したみたいなもんだから、いたわり合い、助け合って生きていくしかないんだよ」  ―  「雪と珊瑚と」

そんなふうに心をほぐして、誰かや何かに、無心に希望を見つけているところ、かなぁ?


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いつも、もう一つの選択を

2012年08月14日 | こころ
「がんばってほしい時に、よく『もっと力を入れて!』というけど、そういう時こそ、ほんとは『力を抜いて!』なんだよ。 ちょっとこの手首をつかんでみて。」

友人の通う合気道の先生は、そう言いながら、ギュッと握ったこぶしを、ゆっくり開きました。
「どお? 開いた時のほうが、手首が太くなったように感じない? 
こうすると、ギューッと縮こまってた力が、タイミングよく出せるようになるから、強いんだよ。」

なるほど。 ガチガチより、余裕のあった方が、思いがけなくうまくいく。
気を通す、腕の回路が広がったような感じだ。

「押された時もね、反射的に押し返すんじゃなくて、一度グッと受け止め、それから押されたのと同じ方向へ今度は自分から引き寄せるんだよ。 そうすると、加えられた力を、うまくかわすことができる。」

これを実践してもらったら、たしかに、押した勢いが拍子抜けしてしまった。

友人の合気道仲間が開いた海辺のバーべQで、はじめて伺った合気道の極意は、相手の気の流れを読み、受け止めたり、かわしたり、ちょっと一押ししたりして、その動きを手なずけることにありそうだった。

後から調べた事典に、その精神理念はこんなふうに表現されている。

【相手の力に力で対抗せず、その“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させる】

さらに、

【武力によって勝ち負けを争うことを否定し、技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている。
そのため欧米では、「動く禅」とも呼ばれる】

機転を利かせ、よりこころがふわっとなる方へ舵を切る術。
そのセンスを、身体で感じ取っていくのは、おもしろそうだ。


18時半の帰り道、稲穂の波打つ田んぼのあぜを、再び伊勢のインドネシア宅へと歩く。



すれ違ったのは、だいだい色の後光に照らされ自転車をこいできた麦藁帽子のおじさんと、一台の青い軽自動車。



聞こえるのは、シャンシャンシャンと、森に響きわたる蝉の声ばかり。
と、水路の小さな橋にさしかかったら、足元に涼しげな水の音も。



数分後には、稜線を際立たせ、ずっと照り続けているように思われた今日の太陽が去っていった。



少し寄り道をしてしまった。 
早足になり、家に向かうと、田んぼに面した網戸の向こうから、インドネシアの音楽が聞こえてくる。
先に帰って用を済ませていた友人が、オレンジの光の中、そろそろ来るだろうと外を覗いたところだった。

手を振って、ぐるんと回り込み、玄関の扉を開ける。

アジアの匂い!



懐かし~い、ロンボク島の家庭の盛りつけに再会。
トマト入り卵焼きは、ほとんど卵揚げなので、油きりにザルにほいっ。

チンゲン菜とモヤシ、昨日の残りのセロリの葉っぱとカブに、豚肉の炒め物。
同じインドネシアでも、スラウェシ島の友人はイスラム教徒なので、
「豚肉を食べると大変なことになる!」
と言って牛肉をほおばっていたけれど、バリ島はヒンズー教の人がほとんどだから、牛を食べずに鶏や豚や山羊肉を使う。
ロンボクの80%くらいはイスラム教徒というけれど、友人はどうもそうじゃならしい?

インドネシアの調味料は使っていないのに、むこうの台所を思わせるのは、火を通したセロリの香りのせいかしら。

これに、ざっくり生野菜とご飯。 
それらを小皿にとりわけていただき、時々ミネラルウォーター。という、素朴で大胆なスタイル。
扇風機の低い回転音と、ネットでつないだインドネシアのラジオ。

日本の田園風景に、友人の身体を通して、インドネシア文化がちゃんと再現されている。
本当に体得されているものは、それがどんなにかけ離れて見える場にも、にじみ出るもののようだ。

どういう状況にあっても、それに押されて甘んじるのでなく、反発するでもなく、そこにもうひとつの世界を立ち上げることができる、と気づいていたい。
そのために、彼が言っていたように、手を広げて。


合気道は、試合を行わずに、日頃の稽古の成果を「演武会」で披露する。
勝敗、否定・肯定という評価にもとらわれず、ただ無駄なく動き、自然と調和すること。
それは、今まだ見えていない、「ちょっとステキな可能性」を、静かに引き出すことにもなるかもしれない。



                         かうんせりんぐ かふぇ さやん     http://さやん.com/

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