むすんで ひらいて

すべてが帰着するのは、ホッとするところ
ありのままを見て、気分よくいるために

絵本で見た場所へ

2012年12月12日 | 旅行
先週日曜日の晩から一日、なごやでも雪が降り、しんしんと冷え込みました。
暖房のついていない部屋の息は白く、ほんとうに冬がやってきたんだなぁ。と、はっとします。
 

その前の週末に、岐阜県の峠を車で走っていて初雪にあいましたが、それは固くてちいさな粉雪でした。
それから一週間、重たいシャーベットのような雪が庭を白くしてしまうなんて、ほんとうにあっという間

みなさんも冷えないように、足元、首元を暖かく過ごしてくださいね。


今日は、どこかなつかしい、雪の翌日の、岐阜県馬籠の情景を書きとめたいと思います。

小学生の頃、夏の課題図書になっていた絵本には、この宿場の坂を馬で越えた作者の、力強い画が載っていました。
そのページがどうにも印象的で、江戸時代に旅人でにぎわった山の街道ってどんなとこだろう。と、思ったままに月日は流れ、先週ようやく時を得て、行ってみることができました。


その歴史をざっと調べると、

1600年の関ケ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康が、交通網の整備に着手し、先ず東海道、続いて中山道と進めていった。

本州の中部山岳地帯を縦断し、木曽を通っていたことから「木曽路」とも「木曽街道」とも呼ばれる中山道(なかせんどう)は、江戸日本橋を起点とする京都まで約530kmの道程で、ここには69の宿場が設けられた。

その内の馬籠宿は、板橋を1番とする43番目にあたり、江戸からの距離は333kmほど。
道路が、急な山の尾根に沿って、南北に貫通している。

と、あります。


入り口は、坂の上下にあったので、今回は上から出発しました。

今はきれいに敷かれている石畳ですが、それでも急な坂なので、足元にはかなり注意がいります。
当時は、長い道程で疲れも出たでしょうし、たくさんの荷物を運びながら江戸から京都までなんて、とうてい想像を越える命がけの旅だ




途中、1872年にこの地に生まれた島崎藤村の記念館を過ぎ、ずいぶん下りてきました。
次の写真の突き当りを左に折れ、その角を振り返ったのが後の写真です。
道路を直角に二度折り曲げ、石垣を築いたこのカクカクを「桝形」といい、敵にストレートに攻め込まれにくくする軍事目的があったそうです。


 




坂下に着くと、現代はそこに、バスターミナルや立派なお土産屋さんが並んでいました。
地元の農産物を売るお店で、柿や林檎や(どちらもほんとうに甘くておいしかった)、二十日大根を買って、また来た道を上ります。
三時半ごろでしたが、日は黄色く、そっと撫でるほどに傾いてきました。




これを撮っている横で、おやき屋さんの店頭の蒸し器が、湯気をほかほか上げていました。
ふっくりした野沢菜おやきをひとつ、奥のテーブルで、ほうじ茶とお漬物を添えてもらって、ふぅーふぅーといただきました。

写真のななめ右手には小さな広場があり、そこから、半分ほど雪をかぶって、ゆるく輝く恵那山が見渡せました。
今の一瞬は、かつて往来の盛んだったこの道の、長いながい歴史のつづき。

角のむこうから灰色の子猫がやってきて、足元で伸びをしてから、また路地へ消えていきました。


元の場所に戻ってくると、棚田をオレンジ色に漬しながら、夕陽が山際に沈むところでした。 
それはどんどん赤くなり、道を横切る柴犬と頬かぶりの女のひとも、いっしょに染めていきました。

つーんと冷えてきたので、車に引き返してドアを閉めたら、後ろの座席に置いていた五平餅の包みから、クルミと胡麻とお醤油の、やわらかくてこうばしい匂いが立ち込めていました。


                     かうんせりんぐ かふぇ さやん     http://さやん.com/

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