むすんで ひらいて

すべてが帰着するのは、ホッとするところ
ありのままを見て、気分よくいるために

笛吹き男と魔女の街 Ⅱ

2015年04月23日 | こころ

さっきまで地図も会話帳もなく、そっくり自由で軽快だった探検は、日暮れが近い灰色の空の下どうやら道に迷ったらしいと気づいてからは、ぽつぽつ心細さが募っていきました。今では人通りのまばらになった細い路地の向こうから、傘を差さずに歩いてくる背の高い男の人がいると、すれ違う瞬間まで緊張してしまったり、よかった。開けた場所!と思ったら、人気がなくて違って見えただけの前と同じ広場だったり。。

それでもしょうがないので、駅のありそうな方へただ真っすぐに歩きました。と、突き当りを左に曲がったところで、一件の細長い家の玄関ドアが開いていて、その前で(たぶん近所の人と)立ち話ししているぷっくりしたご婦人に出くわしました。彼女は、ちょうど話が済んで向きを変えようとしていたので、思い切って道を尋ねてみることにしました。

これで、ようやく一安心。

と思ったのですが、そうもいきませんでした。英語が予想以上に(もうまったく)通じないのです。その時、わたしが大学の第二外国語でなんとか読めるようになっていたのはフランス語で、ドイツ語は挨拶言葉の十語くらいでした。ドイツ語堪能な旅の同行者は、この国の刑務所に導入されている心理療法の専門家で、その日は視察に行っていて別行動。こうなったら、左手を線路に右手を車両に見立ててジェスチャーしながら「駅はどこですか?」の気持ちをうんと込め、あっち?こっち?と手を振り向けてみました。幸い、雨は少し前に止んでいました。

けれど、それもなかなか理解してもらえませんでした。もう諦めようかと思った時に、リュックの中にホテルのカードがあったことを思い出し、それを取り出して見せると、彼女は「あーあ! ここに行きたいの? それじゃ、電車に乗ってかなくちゃなんないよ。うん。あっちあっち」と(感じ取れる言葉としぐさの雰囲気で)、わたしたちの前方を示してくれました。ようやく伝わったうれしさで気分は明るくなりましたが、そこから線路や駅舎の気配は窺えず、「あっち」の先はまた勘に頼って見つけるしかなさそうでした。

ともかく人と話せたことでほっとして、彼女にお礼を言い、二件隣の家の玄関扉を挟んで出たり入ったりしながらこっちを見ていた5、6歳の少年に手を振り、おしえてもらった方向に歩いていくと、ここまでくればなんとかなるだろうと思える、にぎやかな商店街に出ました。こうやって、ぽっかりオアシスが現れるように不意に相が変わると、内側は「うれしい」とか「びっくりしたぁ」とか「よかった~」とかいっぱいに思っていても、その瞬間、体はただふつうに馴染んでいることしかできません。そうして、さっきまでの不安なんて外から見たらまるでなかったみたいに、当たり前に道行く人たちと混ざっていくのでした。

 

 

今では、はじめての土地に行く時は、言葉とか地理とか歴史とか、誰かと一緒なら好みに適切かとか、ある程度下調べしていくことも多くなりましたが(まずまず安心)、それでも、だいじょうぶな範囲で先入観なく行き当たりばったり飛び込んで、「自分が知ってるところにいなくなる感じ」もやっぱり好きです。

そう言えば、この間バリ島のホテルで出会ったインドネシアの女性アナさん ― ドイツ在住で、インドネシアの島々を4か月間、ドイツ人のご主人と旅している ― と話している時、「ドイツはどこに行ったの?」と訊かれ、とっさに出てきたこの二つの街を答えたら、彼女は首をかしげ、代わりに大きな街とお城の名前を挙げました。「東京?京都?富士山?」みたいに。

彼女とわたしの見ているドイツ、オカリナの鳴る、あるいは潮騒だけの響くマウイの海岸、笛吹き男のいた、もしくは閑静なハーメルン。同じものでも印象は違って、それがいくらでもあるという可能性におどろきながら、今日もその一片に馴染んでいます。

 

 

 

 

 

花盛りの東京、友人の空港行電車を待つ午後

 

 

 

 

 

 

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