比企の丘

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厳冬の軽井沢・・・旧軽銀座の北のはずれ・・・軽井沢発祥の地・・・カナダ人宣教師ショー記念礼拝堂

2019-03-25 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

旧軽井沢銀座の町並みが尽きる北のはずれ、旧中山道の碓氷峠の上り口、矢ヶ崎川にかかる二川橋の手前にあるショー記念礼拝堂です。
1873年来日していた英国聖公会(イギリス国教会の教派)の宣教師、カナダ人のアレクサンダー・クロフト・ショーが初めて軽井沢を訪れたのは北越地方への布教の帰途の1886年の春、その西欧風の風景、清涼な気候に魅せられて同年の夏に再訪、以後毎年訪れるようになり1888年大塚山に別荘を建てました。以来、外人宣教師、大使館員や日本の政財界の著名人が別荘を建てるようになり、廃宿になった軽井沢宿は商店街として甦り発展しました。
近代の軽井沢の発祥の地として町が保存・管理、顕彰しています。

1888年大塚山に建てたショー師の別荘です(移築されて現在の地に)。軽井沢における別荘第1号です。

避暑、別荘、バケイション、ホリデイ・・・西欧人、中国の有産階級にあった風習です。英国の有産階級が夏にハイランド地方、湖水地方に夏休みするとか、パリやロンドンなどの大都市が夏になると閑散とするとか、ということを聞いたことがあります。明治の初めに来日した西欧人にとっては日本の温帯であるが夏になると亜熱帯、熱帯になる、夏日とか、熱帯夜とかは耐えられない気候であったと察しられます。ショー師は「軽井沢は屋根のない病院」と讃えました。ショー師の勧めもあって日本に派遣された宣教師、外交官、商社員が冷涼な軽井沢に別荘を求めた・・彼らの経済的な地位ではそれが容易であったと思います。日本の有産階級がそれに倣ったことで避暑、別荘という日本には無かった新しい概念が生まれました。それまでの日本には家屋を開けっ放しにするとか打ち水とか夕涼みとかステテコになって団扇で暑さをしのぐとかの風習しかなかったのです。軽井沢の地は大正年代の初めに風俗営業の自主規制(不文律の軽井沢憲法)をしたりして付加価値を高め、関東大震災で湘南、箱根の地が被害を蒙ったことでますます発展しました。

1895年この地に建てた礼拝堂です。







1902年に没したショウ師の功績を讃えて地元民が1903年建立した顕彰碑です。日本語・英語で記されています。
※撮影日は1月17日。
ショー宣教師が軽井沢に訪れたころ・・・1885年上野~横川間の鉄道開通。1886年碓氷新道開削(現国道18号線旧道)、ショー師が初めて軽井沢を訪れたのは1886年、東京から横川までは汽車。碓氷新道は徒歩道です。1888年碓氷新道に馬車鉄道開通、1893年アプト式鉄道が横川駅~軽井沢駅間に開通し信越本線が全通します。ショー師が軽井沢に別荘を建てたのが1888年、礼拝堂を建てたのが1895年です。
聖公会・・・イギリス国教会の教派、英国植民地の拡張の一環として世界に布教活動。立教大学は聖公会のミッションスクールです。
☆「日本アルプスの登山と探検」を著しヨーロッパに紹介したウォルター・ウェストンは1888年に英国から来日した聖公会の宣教師です。



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