比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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多摩川・・・羽村の投渡堰・第一水門・第二水門あたり

2010-06-08 | 川と滝と湖と海と橋の風景
日本が世界に誇る歴史的文化的遺産で、現役の上水道施設です。
近世、元禄のころの江戸の人口は100万、パリ、ロンドン、北京をしのぐ大都市であったといいます。巨大都市江戸のインフラ機構を支えた上水道は家康江戸入府した1590年神田上水の開削からはじまり、1654年の玉川上水で完全にほぼ完成、現在に至っています。

投渡し堰・・・いまでいうダム・・・石積みであったと思われる支柱(いまはコンクリート)のあいだに松の丸太を立て横に桁材を付け、その間に粗朶や木の皮、砂利などを投げ渡す。大水が出たとき桁材をはずせば投げ渡したものが流れる。自然素材を使って自然とケンカしないやり方です。きわめてアバウトな柔構造ですが1654年開削以来、自然素材がコンクリートや鉄材に変わった以外、現在まで基本的には変わりません。
堰の左側の固定堰の緩勾配の切れたところが筏流し道。右端に小吐水門(取水調整)。


第一水門(取水口)・・・
取水口が17本?見えました。水量によって調整するようです。

第一水門の裏側。玉川上水はここからスタート。水量に圧倒されます。
本流の水位より高く見えます。目の錯覚でしょうか。
下の橋は羽村堰下公園から玉川上水を渡って奥多摩道路に出る人道橋です。

第一水門から30m下、人道橋のすぐ下に第二水門。水量調整して余分な水は小吐水門に。

小吐水門から放水された玉川上水の水はふたたび多摩川に。

魚道でしょうか。

こうして江戸時代の家康の国造りの跡を見ますと、つくづく日本の国造りと重なり合い、行政とは何かと考えさせられます。家康が豊穣の駿河の国から100戸にも満たない寒村の江戸城に入府したのは1590年、それから代は変わりますが次々と神田上水(1590年)、玉川上水(1654年)、荒川の西遷(1629年)、利根川の東遷(1594~1654年)など不毛の大地を開拓するための一大公共事業を完成させていきます。何のためだったのでしょうか。徳川家の権威を守るためか。普請奉行や工事業者のためか。考えると夜も眠れなくなった。

第一水門の上の奥多摩街道のそばの羽村堰陣屋跡、玉川水神社に行ってみよう。



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