比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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上野国権田村・・・東善寺・・・江戸末期徳川家の能吏・・・小栗上野介の墓を尋ねる

2014-04-21 | 道をゆく 関東
4月19日、渋川市八木原あたりで撮り鉄チャンして、それから吉岡町、榛東町を通って高崎市箕郷の「みさと芝桜公園」、それから倉渕村(現高崎市)へ。高崎市倉渕権田・・・高崎市内といっても高崎駅から30㎞弱あります。

江戸時代の上野国群馬郡権田村・・・曹洞宗東善寺・・・幕末の徳川家家臣小栗上野介終焉の地にやってきました。
東善寺の入り口に中国北宋の詩人蘇東坡(1036~1101年)の漢詩が石に刻まれています。曹洞宗の開祖道元(1200~1253年)は宋に留学中にこの詩を知り「正法眼蔵」でその解説を書きました。

渓声即是広長舌渓声すなわち是れ広長舌》  山色豈非清浄身山色あに清浄身に非ざらんや
渓谷を流れる川の音はすなわち釈迦の説法。山の青々とした風光はまさに仏の姿。
曹洞宗東善寺の本堂、高崎市倉渕権田。山門もない小さなお寺です。

本堂の左に小栗上野介忠順のブロンズ像・・・朝倉文夫作だそうです。。

ブロンズ像の左上に斬首された小栗忠順とその子息、家臣たちの墓が並ぶ。

小栗忠順(1827~1868年)・・・徳川家旗本2700石の家に生まれた(旗本とは徳川家において200石~10000石未満の身分の家来)。有能な人であったらしく若年より重要な役職に就くが率直な言動が災いして役を解かれたり復職したりしたという。33歳のとき遣米使節目付として渡米、ヨーロッパ経由で帰国。日本の要人として初の世界一周。江戸奉行、外国奉行、勘定奉行、財政再建、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所建設。
明治維新1868年、江戸城内の評定で主戦論を展開、恭順派に相容れられず1月15日罷免され、1月28日知行地で帰農する願いを提出、翌28日認められて上州権田村に隠遁。1868年4月、官軍の追討隊に捕縛され、その翌日に取り調べもないまま烏川の水沼川原において子息(養子)、家来らと斬首。
墓碑の横には無実の罪で斬首されると書いてあります。
無血開城は徳川家の決定ですから評定で主戦論を主張しても内部のことで官軍には関係ありません。ほかに德川家の重臣でこのような形で処刑された人はいません。北越戦争の河井継之助は逃走中病死したが藩主の牧野家はのちに華族に、戊辰戦争での会津藩主松平容保は降伏して蟄居、その子は華族に。函館戦争の榎本武揚は維新後に明治政府の有能な行政家として働きました。

斬首については謎が残されたままです。
幕府の内蔵金の隠匿といわれていますが取り調べもないままですから闇の中です。権田村で一戦交えようとした形跡はないようです。戊辰戦争上野国巡察使軍監原保太郎(後に貴族院議員)は自分が斬ったと後に語ったという。原はそのとき21歳、無分別の若者の仕業であったのだろうか。それとも誰かの差し金であったのだろうか。

欧米文化・文明をよく理解して日本の政治・財政・外交・経済・産業の近代化に深い考察力を持っていた人のようです。
大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語り、司馬遼太郎は「明治の父」と書いているそうです。

上州権田村・・・小栗上野介の知行地(旗本の所領地をそう呼びます)は上野、下野、上総、下総に七か村、計2700石、うち権田村は375石、旗本は江戸専住ですから知行地を訪れるということはなかったでしょう。なぜここに帰農したのでしょう。家族とともに1968年3月に権田村に移り家屋ができるまで東善寺に仮宿、さっそく村人とともに水田の整備などはじめたといいます。捕縛、斬首されたのはそれから1ヶ月もたたないうちでした。

撮り鉄の旅から芝桜の丘に。さらに歴史探索の旅になってしまいました。
※小栗上野介を書いた小説2編、図書館で立ち読みしました。
池波正太郎「明治元年の逆賊」(新人物往来社 1990年刊)
佐藤雅美「覚悟の人」(岩波書店 2007年刊)

草津街道から分かれて北軽井沢に向かう道、二度上峠を越えて軽井沢に出て埼玉に帰ります。



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