比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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中山道をゆく・・・碓氷峠のあたり・・五料の茶屋本陣

2009-12-05 | 古城・城址・陣屋・館跡
天気のいい日に少し遠出しました。中山道、碓氷峠を群馬県側に下ったあたりです。
松井田・妙義ICを出ると五料の茶屋本陣という案内板が目に入ります。国道18号線を右に折れてJRの線路を渡ると突き当りがお東さんの門です。その西に並んでお西さんの門が。
ちなみに》茶屋本陣とは・・宿場にある宿泊を目的とした本陣ではなくて、幕府高官、参勤交代の大名、公家、例幣使など公人の休息所(ランチ、トイレ休憩?)のようなものらしいです。一般人のお休み処ではありません。
蛇足》五料とは・・・坂本宿と松井田宿の間にある村の名前。五料村(現安中市)。釜飯で有名なJR信越線横川駅の東に位置する。江戸時代は現在の大字、字が村単位でした。

五料茶屋本陣お東の冠木門

・母屋・・・間口13間半、奥行き7間、建坪94.5坪。

五料茶屋本陣お西の四脚門

母屋・・・間口13間、奥行き7間、建坪91坪。

お西、お東は元は本家と新宅(京都に近いお西さんが本家?)。両家とも代々名主を務めた村役人。現在の屋敷は1806年の大火で焼失・再建したもの。板葺き屋根ですが現在はスレート瓦を乗せています。

お西の式台・・・賓客の上がる玄関・・・今でも明治以前の村役人級の家には式台が見られるはずです。武士は百姓の家には玄関から入らなかったのです。

式台から表の間、次の間、上段の間へ・・・次の間になぜか長持が・・・
往還・御用書類・中山道坂本宿・定助郷・弐拾九ヶ村・・・と書いてあります。
助郷・・・参勤交代などの幕府関係の街道往還に百姓が労働を提供する夫役(強制労働)、一定の報酬はあったが宿泊、飯代などで持ち出しになったようで、助郷は百姓にとって重い負担になった。定助郷はレギュラー、ほかにイレギュラーの代助郷、増助郷、加助郷とかも。この長持の中にどんな書類が入っているか、近世歴史研究家にとっては宝の山であろう。

上段の間・・・位の高い賓客が休息する部屋・・・裏庭は庭園風になっています。
お西さんの玄関から入ると・・・竈のあるお勝手・・・囲炉裏。自在鉤の茶の間(リビング)。
中の間・・ありったけのお宝を置いてありますが、これは普通の部屋でしょう。
名主とは村役人ですからここで事務を執ったのでしょうか。

蘊蓄》村役人(村方三役)・・・名主(庄屋、肝煎とも・・・村長さん)、組頭(年寄りとも・・・補佐役、副村長)、百姓代(長百姓とも・・・監査役)、領主の代行機関でもあり百姓の代表でもあるという変な位置です。世襲もあり入れ札(選挙)もあり、しまいにはなり手がなくて回り番なんていったものもあったようです。それにしても江戸時代は文書記録の時代ともいわれこうした村役人が残した膨大な書類が残されています。百姓町人の識字率が世界最高だったといわれるゆえんです。

玄関から入ったところにあった馬屋。馬は貴重な動力源だったのです。夜は母屋の中に入れます。
三和土が窪んでいて尿が外の溜めに流れるようになっています。たいせつな肥料でした。

お西さんの二階・・・茶の間が吹き抜けになってる以外は板張りになっています。
養蚕など多目的に使ったと思います。今は民族博物館風に使ってるようです。

天井の梁。

江戸時代末期、孝明天皇の妹、和宮が徳川十四代将軍家茂公に降嫁するため関東に下向した道(降嫁とか下向とかいう上から目線の言葉はアンマリじやないか)。
和宮もここでお休みになったのでしょうか。

ところでお休みになった方々はいかほどのお茶代を置いていかれたのでしょうか?

入ったときは係りの人はいませんでしたが入館料(210円)が必要です。説明してくれるボランティアのような方がいればもっと興味深く見れたのですが。
次は碓氷の関所あたりに行きます。


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