比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

今日は6月23日・・・太平洋戦争最後の地上戦終結の日・・・摩文仁の丘

2014-06-23 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今日は何の日・・・いまから69年前の1945年6月23日は、第2次世界大戦の日米戦(太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われた日本最南端の県・・・沖縄の摩文仁の丘の司令部壕の中で沖縄方面最高司令官牛島満中将が自決した日です。この日をもって沖縄戦の終わりと沖縄戦争史では位置づけています。

1945年6月、戦いの終結した直後の摩文仁の丘です。

摩文仁の丘・・・島尻郡摩文仁村(現糸満市)沖縄本島最南端の海岸線の隆起珊瑚礁(最高点約89m)の丘陵です。

現在の摩文仁の丘・・・沖縄県平和祈念公園
1995年に除幕した「平和の火」を中心にした「平和の礎」・・・
平和の火・・・沖縄戦最初の米軍の上陸地(1945年3月26日)である慶良間諸島座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」、
長崎市の「誓いの火」を合火し1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し灯したもの。
平和の礎・・・国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれている。

※上の写真2枚はは2013年8月31日のNHK 教育テレビ「摩文仁 沖縄戦 それぞれの慰霊」から。

イラストは2004年4月、摩文仁の丘に建つ各県の慰霊碑を尋ねたときのもの、長野県生まれですから「信濃の塔」を探して登って行きました。



1945年6月23日午前4時、帝国陸軍第32軍・沖縄守備軍最高司令官牛島満中将は、32軍参謀長長勇中将とともに自決。
自決の前の牛島の最後の命令が「・・・爾後、各部隊は各戦局における生存者の上級者、これを指揮し最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と・・・伝えられている(この命令は作戦参謀が起草したと伝えられているが)。

沖縄県最後の官選知事島田叡は県庁機能の壊滅で、6月9日組織の解散を命じ「どうか命を永らえてほしい」と訓示しました。

帝国海軍第2艦隊最高司令長官伊藤整一中将は1945年4月7日の坊ノ岬沖の戦艦大和最後の日、もはやこれまでと思った14時10分ころ、作戦命令中止を出したのち艦と運命を共にします。そのとき残った駆逐艦は4隻、海上に漂う大和、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻の生存者を救出して佐世保に帰還。

沖縄戦の組織上での戦闘は6月23日をもって終結といわれますが、命令系統の伝達手段も途切れ局地的戦闘は8月15日以後の行われ沖縄守備軍と米軍との正式降伏調印は9月7日嘉手納にて行われました。作戦命令の中止が組織的に伝えられていたら、犠牲者はもっと抑えられたと残念でなりません。

※カテゴリー「沖縄のこと…クリックして読んでいただけたら…。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿