比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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磁器の里・・・伊万里、大川内・・有田

2006-09-28 | 道を行く 九州の諸道
長崎の旅から北九州の旅になります。

磁器の里、伊万里、有田を訪ねました。平戸から1時間余。ナビが苦手ですから地図が頼りです。
伊万里の街に入ってキョロキョロします。伊万里の大川内です。

なるほど、ここは隠れ里だ。中国の水墨画にあるような深い谷あいの奥。行き止まりです。佐賀鍋島藩の貴重な企業秘密を守る要塞です。静かです。
キレイな皿や鉢を見て眼の保養をしました。

有田の街に向かいます。谷あいの街です。谷の上下、横にも抜ける道があります。ここは大川内とちがい行き止まりではありません。街を通り過ぎて卸売りセンターに行きました。10数店の店が軒を並べています。
スゴイ、豪華、ウン100万円のものもあります。買えるわけナイジャン!

街のはずれ、泉山磁石場跡に行きました。磁祖李参平(金ケ江三兵衛)が1616年に発見した白磁鉱です。もとは100㍍以上高かったようです。

李参平・・・文禄・慶長の役(1592年~1598年)のころ朝鮮から渡来、鍋島藩の下で窯業についた工人集団の長であり景徳鎮の技術を会得していたともいいます。この磁石場発見から30数年で海外輸出をするまでに技術が向上します。
鍋島藩の窯業の経営は見事です。皿山代官所を設けて山林保護、過剰生産の規制、付加価値アップのため、窯場の統合、窯元軒数の制限、陶工の人数制限のためのリストラ、生産工程の分業などを指導します。規制緩和の逆ですが結果的には成功しています。1673年大川内にも窯を築きます。企業秘密の保持、新技術の開発が狙いだったのではないでしょうか。普通、代官はワルという役割りですが民間から顕彰碑を建ててもらった成松信久という代官がいます。鍋島藩にとって有田は貴重な金ヅルだったのです。

有田の発展は瀬戸の陶業を圧迫します。1800年代瀬戸の加藤民吉が天草、平戸で磁器の技術を習得して瀬戸に持ち帰りようやく瀬戸は陶磁器の街として甦ります。

これから呼子の港に行って唐津に行き博多に入らねばならない。10数年ぶりでFさん、Yさんと会う約束があるのだ。




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