比企の丘

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2015「ひろしま忌」・・・丸木美術館・・常設展で・・・《焼津》第五福竜丸を見る

2015-08-07 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
8月6日、70年前に広島に原爆が落とされた日、ここ埼玉県東松山市丸木美術館で「ひろしま忌」が。

原爆の図・・・第9部《焼津》

いまから61年前の1954年3月、南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁で行われた米軍の水爆実験・・・その近海の公海上で操業中の日本のマグロ漁船団、その中の一隻「第五福竜丸」・・・乗員23人の小さな木造船に放射能を含んだ珊瑚の小さな粒が降り注いだ。異常を感じた第五福竜丸は無線を発することなく母港焼津港へ。大量に放射能を浴びた船員たち。そして無線長の久保山愛吉さんは6ヶ月後の9月「原水爆の被害は私を最後にしてほしい」という言葉を残して死去、享年39歳。

《焼津》が展示されいる部屋にある第五福竜丸の模型です。

当事の乗組員で大石又七さんという方が1983年、東京都町田市の私立和光中学校の生徒に事件について取材され、30年の沈黙を破ってはじめて事件のことについて口を開きました。これを機に大石さんは第五福竜丸の模型船作りをはじめ、一号船を和光中学に、つづけて夢の島展示館、広島平和記念館、長崎平和記念館などに寄贈。これ以降、積極的に被爆体験を語り、核廃絶を訴える著作、活動をはじめます。
この模型船は、それから20年後の2003年そのことを知った和光中学の生徒たちが模型船作りをはじめ、大石さんの指導の下に3年の歳月をかけて完成、「平和への願い」をこめて2007年、丸木美術館に寄贈したものです。
大石又七さん・・・1934年生まれ、第五福竜丸の漁船員、被曝のときは20歳。久保山さんらと入院生活を送り、その後、被爆者への無理解、偏見に耐えられず1955年漁師をやめて東京でクリーニング屋に。被曝について語るようになったのは30年後。2010年クリーニング店廃業。

※比企の里、都幾川の畔、東松山市下唐子の「丸木美術館」のホームページ→クリック
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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
丸木美術館 (縄文人)
2015-08-07 20:11:29
ありがとうございます。
終戦が近づくと頃になりますと、
ヒキノさんからの一杯語り継がなければならないほど、
山ほどの資料にいつも目を細め心が詰まされます。

この半分も、いや3分の1も、全く知りえていません。
改めて目を見張るのみです。
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憲法ミュージカル (こきおばさん)
2015-08-09 05:25:23
今年、甲府で上演された福竜丸のことを描いた憲法ミュージカルで、ヒキノ様とはじめてお目にかかりました。
そのことを思い出しています。

ヒロシマ・ナガサキ日繋がる一連のこのページ。どれもツイーとさせていただきます。

お書き頂いて感謝します。
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第五福竜丸 (縄文人さんへ・・・ヒキノ)
2015-08-12 00:47:05
むかし新聞で知りました。
それから数十年五、新木場の熱帯植物園を散歩したとき、この船を見ました。
丸木美術館は子どもの小さいとき、都幾川の林に山栗を拾いに行ってこの美術館の存在を知りました。

わたしたちの年代は70年の平和をすごさせてもらった時代です。米軍のパシリにならずに切りぬけてきたからのようです。
これからもなんとかうまく切りぬけてもらいたい。
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この絵を見て (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2015-08-12 00:52:26
山梨憲法ミュージカルの舞台の上の群像を思い出しました。
まさに「あれが家だ」という風景です。
原爆の図の中では珍しく群像の中の一人一人の顔が優しい顔をしています。
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