比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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大地の子の父・・・山本慈昭師と・・・長岳寺

2010-11-01 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
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10月8日、旅の終わりの信濃路、奥三河の足助から、飯田街道を北上、長野県に入ると三州街道と呼ばれる国道153号線を根羽村、平谷村、そして律令時代のむかし東山道が美濃国坂本駅から神坂峠を超えた最初の駅といわれる阿智村の駒場(コマンバ)にやってきました。
ここで前からおまいりして行こうと思っていたお寺に寄って行くことにしました。
中国残留孤児の父「山本慈昭師」に会いたくなったのです。

天台宗広拯山長岳寺

国道から小さな道を下っていくと阿智川の畔にたつ小さなお寺。

山本慈昭師のブロンズ像。

中国残留孤児の父「山本慈昭」さんの話です。山崎豊子大地の子」(文藝春秋)をお読みの方は覚えていらっしゃると思います。
小説では「下巻 1章 三十六年目の旅路」の中で長岳慈光師として登場します。
1902年(明治35年)飯田市に生まれ、1932年南信州阿智村駒場の長岳寺の住職に。1945年5月(昭和20年)満蒙開拓団阿智郷(参加者330人)の小学校教諭として51名の生徒とともに渡満。この時期、3月に東京大空襲(死者10万人)があった後です。沖縄は陥落寸前です。たった4ヶ月後、8月ソ連軍の侵攻、敗戦、生きて帰ったのは42名、そのうち生徒は5名です。山本さんは奥さんと2人の子供を連れいましたが自身はソ連軍に連行されシベリアへ、帰国後に家族の死を伝えられました。24年後(1969年)、臨終の床の村民から長女啓江さんが生存しているのではないかという話を聞きます。
1972年日中共同声明により国交が開かれ、山本さんの中国残留孤児探しの活動が始まります。今でいうNPOです。「日中友好手をつなぐ会」の会長に推され、1979年10月11日第1回総会が開かれ、1980年(昭和55年)残留孤児の訪中調査に赴きます。80歳のときです。315人の孤児に面接、その調査報告が翌81年の第1回47人の残留孤児の来日に結びつきます。孤児といっても年齢は40代です。このときの肉親判明者は24名。不明のままの23人に山本さんは語りかけます。
今日から私が皆さんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください。待ってます

山本さんは年金と住職としてのわずかな収入のほとんどをこの運動につかっていたといいます。満蒙の地に散った教え子たちへの贖罪だったのでしょうか。その後、肉親にめぐり会えなかった方の一人が山本さんの娘さんを探し出してくれたそうです。90歳,100歳までこの仕事を続けるとがんばっていましたが88歳で天寿を全うします。(この稿は「プロジェクトX-新リーダーたちの言葉」(今井彰 文藝春秋)を参考にしました)

境内にこんな句碑がありました。
   木枯らしや 
    いまはた遠き
    信玄公火葬塚
(かそうづか) 
               次郎
小説「武田信玄」(文芸春秋社1969~1971年刊)の著者新田次郎の句。
戦国時代の甲斐の武将武田信玄は1573年、三河国野田城(現新城市)攻めのあと兵を引いて田口、根羽経由で三州街道を甲斐に向う途中、病のため没したといわれ、この寺に供養塔があり由来が書いてあります。
信玄公の終焉の地は根羽村横畑、平谷村、浪合村、駒場の山中と説がいろいろあります。どれもほんとのようです。
でも伝承ですからたしかなことはわからないでしょう。

信玄はその喪を三年間伏せるように遺言したといいます。
謎があるほうがロマンがあっていいです。


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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今日一番 (自然を尋ねる人)
2010-11-01 12:24:27
何と言っても武田信玄の遺言だと思います。
いつまで経つても親は子を思います。
この力が弱いと見るや3年間発表を待つのだ。
その間に力をつけて敵に攻め得られないようにしろ。
日本でも名だたる名将だったのですね。
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長らく休みましたが、再開します (縄文人)
2010-11-01 20:12:42
今晩は。
長らく休みましたが再開いたします。
休んでいたため、blog作成でと惑いました。
upしなくてもよい≪寄せ書き≫などが出てしまいました。冊子作成のことがこんなところに現れました。削除の方法を忘れました。???????

今後もよろしくお願いします。
再開の挨拶まで

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武田信玄は (自然を尋ねる人さんへ・・ヒキノ)
2010-11-03 22:31:09
労咳(肺結核)だったらしいです。
死して後も影武者を立てたという説があります。

そうして策を弄しましたが世襲の若様武田勝頼・・・信玄以来の忠義者が次々と去っていきます。
二代目のバカ社長によくあるタイプだったのでしょうか。
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電脳生活復帰 (縄文人さんへ・・・ヒキノ)
2010-11-03 22:33:22
おめでとうございます。
好きなことをして好きなものを食べて、それがいちばんです。
こち田こそよろしくお願いします。
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満州開拓村へ家族とともに (こきおばさんへ・・・ヒキノ)
2010-11-03 22:40:50
山本先生は戦後シベリアへ送られて家族とは音信不明。
一緒に渡満した51名のの生徒の教師でもあり、生徒の内、生きて帰ったのは5名。これが辛かったでしょうね。
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