比企の丘

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富山市郊外・・・神通川・・有沢橋のたもとで   新田次郎の小説「神通川」の原点に立って

2007-10-03 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
9月26日の朝、富山市から立山室堂の散策に出発です。急ぐことはありません。街の中を走って神通川有沢橋に出ました。右岸堤防の上からの写真です。大きな川です。飛騨高山の街中を流れる宮川はこの川の上流です。

新田次郎の小説「神通川」の冒頭に「神通川と有沢橋」が出てきます。
ビルマ戦線から帰還した婦中町(現富山市)の医師熊野正澄(萩野昇)が爆撃により廃墟と化した富山市内を歩いてこの橋の畔に立ちます。川に下りて水を掬って飲み干し
「いかなる河川も、その美しさにおいて故郷の神通川に及ぶものはなかった」
と心の中でつぶやきます。

そんな風景を見たくてこの川の畔に立ってみました。大河です。

小説「神通川」は婦中町の「学問もない、地位もない、バックもない」開業医と神通川の扇状地に広がる奇病との戦いがテーマです。水質検査、ウイルスの検査、没落地主のわずかに残った田畑まで処分し自費で研究に没頭します。備州大学(岡山大学)理学部の大森教授(小林純)の協力を得てカドミュームの存在を見つけ神通川の上流高原川の三井金属鉱業㈱神岡鉱山の亜鉛鉱の精錬によるものであることをつきとめます。いつの世でもあることですが古い学閥の体制側からや企業に与する側から誹謗・中傷、脅迫・妨害、バッシングを受けます。1967年国会参議院で証言、1968年公害病の認定。三井金属は1968年提訴され、1971年原告が勝訴しました。

小説はビルマ戦線の敗走中、軍医である彼に連れて行ってくれと手を差し出す重傷兵とイタイイタイと泣き叫び彼に手を差し出す患者の手が重なり合って見え神通川に白い虹が出るところで終わります。

小説はこの訴訟中の1969年学習研究社より発刊(写真は新潮社「新田次郎全集)。
石牟礼道子が「苦界浄土」の執筆を始めたのは1965年、水俣病が勝訴したのは1987年、イタイイタイ病に遅れること18年です。

日本における公害の歴史は明治時代の渡良瀬川上流の足尾鉱山から始まります。水俣病、第2水俣病、イタイイタイ病、四日市病、最近はアスベストも問題になっています。新しい技術で新しい物質を作るときそれがどのような結果になるか予測することは困難かも知れません。それにしても万全の体制をとって対処してもらいたいものです。それが国や企業の責任でしょう。

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2 コメント

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勉強になりました (やいっち)
2008-08-03 09:49:37
今春、富山に帰郷しました。
18で富山を出て、ずっと東京などで暮らしたので、故郷のことで知らないことが多すぎる。
歩いて十数分で神通川という地に今は住んでいるのですが。

記事、参考になりました。
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土地に歴史あり (やいっちさんへ・・ヒキノ)
2008-08-04 08:50:42
人に歴史あり・・その土地に歴史あり。
その土地の景観だけでなくその土地の人の呼吸が聞こえてくるような記事を期待しています。

なお有沢橋の写真は堤防上から撮ったものです。このあと堤防から車で降りるのに延々と上流まで行きました。
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