比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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霧ヶ峰・・・旧御射山神社の・・・円形コロシアム?

2009-09-05 | 信濃の国は 伊那・諏訪
霧ヶ峰高原八島ヶ原の南端の旧御射山(モトミサヤマ)神社遺跡。

小さな杜と社がありますがご家族がお食事中で写真は撮れませんでした。
その近くで撮った石碑・・・「御射山講武跡碑」と彫られているようです。意味はわかりません。鎌倉時代ここで武芸、馬術を競った競技場の跡という意味でしょうか。

なだらかな山の斜面が三方から集まって観音沢方面に。正面が車山肩「ビーナスの丘」あたりか。
道標・・・左直進は「沢渡・車山」、右方向は「強清水」へ。
この草原がわが国最古の円形桟敷競技場跡です。長径350m、短径250m、三方が桟敷席、収容能力10万人と推定されています。コロシアムみたいな草原の中を歩いてみたいのですがハイキングコース以外は踏み込まないことです。

右の斜面が現存する桟敷席跡。よく見ると段々畑状に見えます。
休憩広場の向こうに八島ヶ原湿原を源流とする観音沢が流れています。

右端にNPO法人霧ヶ峰基金「ヒュッテ御射山」。左に説明板があります。


この競技場は平安時代から鎌倉時代末期にかけて祭礼の場所としてじょじょに造成され拡げられていったもののようで、鎌倉時代、毎年旧暦の7月末ごろ日本中から武士が集まり、武術を競い鹿を狩り流鏑馬の競技を行ったそうです。今でいう国民体育大会のようなものでしょうか。とうぜん見物人、物売り、芸能人、ギャンブルの元締め、予想屋、みたいなものも集まって来たでしょう。
宿泊設備はススキを刈って作った簡易テント村(穂屋)です?

この競技場の名前は不定です。考古学者藤森栄一はその論文で円形桟敷式野天会場と書いてるようです。その実態を結論づけできなかったのでしょう。

 新田次郎「霧の子孫たち」(1978年刊文春文庫)、単行本は1960年刊。

1950年代、ビーナスラインという観光道路をこの高原のド真ん中に縦断させる計画が持ち上がりました。古代からの神の神域の御射山神社、八島ヶ池湿原という「神の田」の中をです。この計画は地元の市民運動によって迂回路線という現在のルートで決着を見ました。新田次郎の小説「霧の子孫たち」はこの経緯を書いています。

ビーナスラインの計画は多くの人に自然に親しんでもらうという役割も果たしましたし地元への経済効果もあったでしょう。観光事業が一概に自然を破壊するとは言えませんが、その計画のあり方を問う問題提起もしました。

この小説の終章で考古学者宮森栄之助はこの円形桟敷のことを「歌垣の場所ではないか」とつぶやきます。歌垣とは古代・万葉の時代に若者たちが一定の場所に集まって求愛歌を交わしながら恋愛行為を行った習俗・行事。大規模な合コンですね。

ロマンですね・・・・・・

最後に車山肩のビーナスの丘?まで来て八島ヶ原湿原方面を振り返ったところです。このあたりの草原はニッコウキスゲ、レンゲツツジの丘です。いまですとヤナギランがいっせいに咲いているはずですが、今年はショボショボ。


池の平湿原、美ヶ原、八島ヶ原湿原の散歩はこれで終了です。花や蝶をいっぱい見ました。自然に遊んでもらいました。高速道が半額になる時間まで時間調整をして帰りました。この夏の山遊びはこれにて完全終了です。


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