比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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12月15日は・・・忠臣蔵の朝・・・泉岳寺は線香寺

2009-12-15 | 道をゆく 東京散歩
12月15日(1703年)は・・・・・播磨(兵庫県西部)赤穂浪士大石良雄以下46名が1703年12月14日夜に高家旗本吉良上野介義央邸に殺人の目的で不法侵入し、吉良上野介を殺害斬首、その首級を芝高輪の泉岳寺の前播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩の墓前に供えた日です。

泉岳寺を尋ねました。
東京都港区高輪・・・「泉岳寺」は地名ではなくお寺さんの名前です。
曹洞宗江戸三箇寺派萬松山泉岳寺・・・芸州浅野家、赤穂浅野家などの檀寺。浅野内匠頭長矩の墓所、赤穂四十七士の墓所として知られる。
都営地下鉄「泉岳寺駅」を出ると前は国道15号線(旧1号線)、JR三田駅と品川駅の間。西に200mばかり歩くと中門です。


中門・・・1836年建立・・・「萬松山」の扁額。

山門・・・1832年建立・・・「泉岳寺」の扁額。
山門を通して本堂が見える。「獅子吼(ししく)」の扁額・・・釈迦の説法という意味だそうだ。
本堂は戦災で全焼。1953年再建した。

首洗いの井戸・・・ホントかな
浅野家の墓、四十七士の墓所の門・・・浅野家鉄砲洲(現聖路加院あたり)上屋敷の裏門・・・明治以後に移築。

線香の煙がスゴイ!
大石内蔵助良雄の墓・・・行列のできる墓。

またまた大石内蔵助良雄の墓の下の部分。花束がスゴイ!
あとで気がついたのだが主君の浅野内匠頭の墓所にお参りすることを忘れた。どこにあったのだろう。

鐘楼・・・ここだけが静かであった。

事のはじまり・・・播磨赤穂藩5万石藩主の浅野内匠頭が1701年4月21日AM11:00ごろ千代田城内松の廊下で高家旗本4200石吉良上野介に対して刀器による殺人未遂事件を起こしたことからはじまります。この事件の背景についてはさまざまな憶測が囁かれていますがいまもって確証は得られていません。高家とは徳川家の宮廷に対する渉外担当みたいなものです。宮廷からの勅使が江戸表に来たときの饗応役の指南役・総指揮官みたいなこともやります。1701年浅野内匠頭は饗応役を命じられ、吉良上野介から様々なイジメを受け、心身症(痞え)で頭が真っ白になってキレテしまい狼藉におよんだといわれますが、なぜイジメ(パワーハラスメント)をうけたか因果関係がわかりません。(吉良家に対する)賄賂が少なかったから、饗応予算を浅野家が出し渋った(5万石の大名ですから考えられません)、赤穂塩の製法企業秘密の保持、浅野の正室に対する横恋慕など。さらに将軍綱吉の生母桂昌院の従一位の官位下賜の折衝問題もあります。桂昌院(家光の側室)は京都の野菜商の娘、親の職業に宮廷が難色を示して揉めていたようです。このことで吉良と浅野が傷害に及ぶほど揉めていたとは・・・チョッと無理があります。ちなみに従一位は正一位に次ぐ官位、最近では佐藤栄作氏が叙位、中曽根康弘氏は従六位。

謎は深まります

かくして・・・AM11:00松の廊下の犯行から5時間後のPM4:00浅野内匠頭は陸奥一関藩田村邸の庭先で切腹執行。即日裁判、即日死刑執行という異例のスピード判決です。

藩主切腹(事実上の死刑執行)・・・お国は改易、破産処理。継承者から平社員に至るまで即失職。
バカ殿・・・我慢してもらいたかった・・・というのが部下のホンネでしょう。

とにかく失業した赤穂浪士のうち47名(正確には46名)が吉良邸に討ち入り、前主君の仇敵吉良上野介の首を取って泉岳寺に供え、そのご殺人の罪(情状は酌量されたが法治国家という理由で)で切腹(事実上の死刑)を申し付けられます。
何が彼らを仇討ちに駆り立てたか・・・武士の一分(いちぶん=面目、体面)だったのでしょうか。

浅野長矩の切腹も赤穂藩の改易も妥当です。喧嘩両成敗ではなく一方的な武力行為です。赤穂浪士の切腹も妥当です。ところが吉良家のほうも改易になります。
死人に口なし・・・当事者がいなくなって・・・当事の幕閣はウヤムヤのうちに事の真相を闇に葬り世論操作し・・・赤穂浪士は忠君愛国の義士になりました。