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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

夏の思い出・・・木曾駒ヶ岳・・・千畳敷カール

2007-07-18 | 山が好き 中央・南 アルプス
夏の思い出です。
信州伊那谷から登る木曾駒ヶ岳(2956m)のロープウエイの終点、千畳敷(2610m)です。

ハクサントリカブト・・・キンポウゲ系。(写真は銀鉛、コンカメ)

このトリカブトは少し大型で80cm近くあったように覚えています。普通は50cmもありません。平地ではほとんど見られませんが山の中に入ると割合と見られます。ある山中の集落の家の宅地で花壇にいっぱい咲いてました。
猛毒です。アイヌは毒矢にしました。サスペンス小説の小道具にも使われますが、実際の犯罪にも使われています。ニリンソウに似た葉は美味しそうです。
千畳敷カール(氷河の削り跡)です。正面は宝剣岳(2931m)。麓の大駐車場あたりで860m。下界とは12~3度の温度の違いがあります。ロープウエイで昇れますからワンピースとハイヒールで震えている人もいます。年中無休ですから厳寒に軽装で上がって来る人もいるそうです。まぁっ!イイカッ!
例によってスケッチです。下のイラストはトリカブトを入れて後から描きました。
どちらも自己満足してます。

トリカブトと宝剣岳。コバイケソウもキンポウゲもキスゲも見られます。


信州伊那と木曾の谷の間に聳え立つ中央アルプスと言われる山塊です。何故かこのアルプスという呼称は「南アルプス市」というラブホみたいな行政名ができてからキライになりました。山の神様に対する冒涜です。「アルプス」という呼び名はあくまでも「マガイ(紛い)」「モドキ(疑き)」なのです。南アルプス市のみなさん、ゴメンナサイ。
ちなみに伊那の人は木曾駒ヶ岳と呼びません。西駒ヶ岳と呼びます。

雷鳥の話。かつて1960年代までは西駒ヶ岳一帯には雷鳥が生息していました。それが1976年に信州大の調査団が調査したところ1羽も確認できなかったようです。つまり絶滅です。1967年架設されたロープウエイが影響しているのではないかといわれてますが確証はありません。年間300万人とも言われる観光客、下界の家畜の疫病菌(1968年ごろに流行した鶏のニューカッスル病説)やお弁当の残りの廃棄、排泄物、マウンテンドッグなどと称して愛犬同伴登山などもありますが何が原因かは私にはわかりません。
ちなみに雷鳥は妙高、立山、剣岳、白馬岳から乗鞍岳までの北アルプスライン、北だけを中心とした南アルプスのみに生息しています。かつては加賀の白山、八ヶ岳にも生息していたが中央アルプスと同じように絶滅しました。雷鳥についての記述は武田文男著「山で死なないために」朝日文庫を参考にしています。

イラストに見える千畳敷のお花畑の周回道路、宝剣岳の右肩に上がる道も左肩に上がる道もトラ縄でがっちりガードされています。山上の花や鳥は人間には極端に弱いのです。

アクセス、JR飯田線駒ヶ根駅、中央高速道駒ヶ根IC,菅の台駐車場、しラビ平ケーブル駅、千畳敷ケーブル駅。


赤石山脈・・天空の村・・しらびそ峠

2006-11-11 | 山が好き 中央・南 アルプス
赤石山脈南端の山々です。南アルプスではありません?。大宮の遊馬にいる友人が信州飯田に行ったとき撮ったものを電送してくれました。
わがフルサトの山の紹介です。

天空の村神々の峰です。

山名は下のイラストをご覧ください。(この村のパンフレットから)

正面の谷峡は遠山川から分かれた北股沢です。赤石山系から遠山郷に下るのは大沢岳の稜線を下って大沢渡、ここからふたたびこの峠に上ってきてはじめて下界に出られるのです。とにかくアプローチの長さは半端じゃありません。
フォトスポットは長野県飯田市しらびそ高原(前下伊那郡上村)です。遠山郷です。峠(1883㍍)からハイランドしらびそ(上村営宿舎1900㍍)に向かいます。ここから日本のチロルと謳われた下栗集落(1000㍍)へ。高地です。遠山川は遙かに下(600㍍)です。

この下栗集落は少しむかしにNHKの番組でさだまさし、原田泰治(アクリル画家)が訪れた場所です。さだまさしさんが「天空の村に星が降る」と歌い、原田さんがこの村の風景をホノボノと描きました。日本のチロルといいましたがチロルよりズットズット素晴らしいにチガイありません。

赤石山系には思いいれがあります。朝昼晩ここを見て育ちました。この辺の学校の校歌にはかならず詠われています。とにかく広いです。北は入笠山から南は光岳まで70㌔の長さに渉ります。この広い地域の人々の心の山です。
なぜ山梨県の一自治体が「南アルプス市」なんて名前になったのでしょう。そんな名前をつけなくても素晴らしいところなのに。
お願いだから「中央アルプス市」なんて名前は止めてください。そういえば中国でも「シャングリラ県」「シャングリラ郷」「シャングリラ市」なんて出てきたらしい。
ラブホとかクラブの名前じゃないんだから。

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ウエストン・・鳳凰・・オベリスク

2006-10-13 | 山が好き 中央・南 アルプス
ウエストンは1888年(明治21年)にイギリス国教会の宣教師として来日、1895年に帰国、1902年(明治35年)再び夫人同伴で来日。このときも山に登りまくり1905年に帰国、三度目は1911年に来日、山行を重ねて1915年(大正4年)帰国します。山行は夏だけのようですから宣教師の仕事はしっかりとしていたかな。1918年に「The Playground of the Far East」を出版します。
この本がはじめて邦訳されたのは1970年岡村精一訳「極東の遊歩場」(山と渓谷社)です。写真の本は水野勉訳「日本アルプス再訪」(平凡社1996年)です。両社、書名が違います。原題にピッタリの書名がないのです。「極東」とはヨーロッパから見た日本です。日本では使いません。Playgroundは日本語にピッタンコの言葉が無いですね。
内容は登山記が半分、半分は日本学の研究書のようでもあります。特に日露戦争を目の前にしているせいか日本の軍隊、軍人の考察もあります。この人古き時代の礼儀正しい日本人が大好きです。ピークハンターでもなければ山ヤでもありません。
心から自然を愛しています。

この本で面白いのは鳳凰山地蔵岳のオベリスク初登攀です。本人も得意だったようです。


コースは山梨県小笠原から鳩打峠を越えて岩下という温泉に泊まり、翌日に芦安から杖立峠(2177㍍)御室キャンプ場(2500㍍)で野営、同行者は猟師3名。翌日、薬師岳、観音岳を過ぎて地蔵岳(2764㍍)のツケね賽の河原に到着します。このへんの高山植物の様子の描写は素晴らしい。北岳のことを甲斐ヶ根岳と記述しています。同行者2名はカモシカを見たとたんに行方不明になります。彼らにとって山なんかどうでもいいのです。
残った1人を見張りにして1人でこのピナクルに挑戦します。道具はピッケルと石を結んだ軽登山用のロープだけです。無謀と言うか勇気があるというか(よい子はけっして真似をしてはいけません)、さすが英国人です。成功させて賽の河原に下りてくると案内人の仕事をサボった連中の収獲したカモシカのナマ肝をご馳走されます。
このあと一行は野呂川まで降り北沢峠を越え戸台、高遠経由で帰ります。1904年のことです。

スケッチはむかしむかし9月末に登ったときのものです。
花崗岩です。燕岳、烏帽子岳とおなじ岩です。歩いているところはザレ場です。

それにしても、このへんどうして「南アルプス市」なんていう市名にしたのだろう。ことによると「アイガー市」なんて名前にしたのかな。

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ウエストン・・赤石岳②

2006-10-12 | 山が好き 中央・南 アルプス
赤石山(3120㍍)に登ったウエストンの話の続きです。
暴風雨の中で野営します。雨具はなんだったのでしょうか。油紙か渋紙です。ゴアテックスなんて無い時代です。テントもありません。ウエストンも強いが当時の猟師たちも強いのです。いまなら遭難です。ふたたび大河原を通り高遠で1泊とあるが途中で泊っているかは不明。金沢峠(1315㍍)を越えて甲州街道台ヶ原宿に泊りますが、ここでは相場の4倍の宿賃をボラレます。金の使い方もしっかりチェックしています。鰍沢(富士川の川港)から船で岩淵(東海道岩淵宿、川港)まで下り、この旅は終わりです。当時は中央線も身延線もありません。それにしてもこの休みの間、本業の宣教師のほうはどうしてたのでしょうか。


この山にはもう一つエポックがあります。大倉財閥の大倉喜八郎が1926年(大正15年)静岡県側の椹島から駕篭に乗って赤石山の頂上まで登っています。オン年88歳。この山の地主だったのです。その後この山のオーナーは東海パルプに替わっていきます。

私は少年のころ毎日この山を見ながら育ちました。「わが心の山」です。
東に見える山ですから夕陽に赤く染まった山はそれはそれはキレイでした。

ラジオラリア板岩(ラジオラリア虫の化石の堆積)で赤く見えるので赤石と呼ばれたようです。右に見える谷間は雪食カールかな。むかしむかし夏の終わりごろ単独行で三伏峠(2580㍍)荒川岳(3141㍍)経由で行ったことがあります。無人小屋です。同宿者は3人でした。ナタを持っていってカンバを燃やして飯を炊きました。いまなら厳罰です。ラジュースは持ってましたが緊急用です。インスタント食品なんてありません。畑薙ダムへ下りたのですがコースを覚えてないのです。椹島もまだ無かったのかな。

ウエストン・・赤石岳①・・大鹿村

2006-10-11 | 山が好き 中央・南 アルプス
今年の夏、信州の保福寺峠を訪れてウエストンの碑を見たとき「日本アルプスの登山と探検」を読みかえしてみようと思いました。上高地にあるレリーフのウエストンはオジサン顔ですが宣教師としてはじめて来日したときは27歳、まだ青年です。1891年(明治24年)30歳のときから日本の山に登りはじめます。アングロサクソン系ですからスゴイ体力です。上松から木曾駒ケ岳(2956m)に登って伊那まで1日で踏破します。博学です。動植物、地理学、地質学、民俗学、政治、経済、信教まですべてに通じています。日本語も達者です。

1992年赤石山に登ってます。前の年に木曾駒ケ岳で見た赤石山(3120m)に魅入られたからです。写真は伊那谷の桃源郷、大鹿村の大河原から見た赤石山です。


汽車で上田へ、人力車で松本(泊)へ、馬車で松島(箕輪町)へ、徒歩で高遠へ(泊)、市野瀬峠(分杭峠1424㍍)を越えて市場(泊)、大鹿村大河原から湯場(小渋湯泊)、湯場から10時間で赤石山へ、もと来た道を引き返して暴風雨の中で野営をしています。猟師を案内人に強力も連れていったようです。道は現在と変わらないようです。
小渋川を遡行して広川原へ、尾根に取り付いて大聖寺平経由で登ったようですが記述があいまいです。何しろ地図も無い時代です。通訳もいません。ただただ、そのタフさに感心します。

伊那は私のふるさとです。大鹿村へは何回か行ったことがあります。いまは南アルプス赤石岳といいますが、むかしは赤石とか荒川とか塩見と呼んでいました。

青木枝朗訳「日本アルプスー登山と探検」(岩波書店1997年刊)
この話の続きは。

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