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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信州佐久の・・・東馬流・・・秩父暴徒戦死者之墓

2011-09-29 | 秩父事件を追って
9月18日、埼玉から谷間を抜け峠を越えて長野県小海町東馬流(ひがしまながし)にやってきました。小海町は人口5000人、千曲川沿いの小さな町です。小海という名前は知らなくてもJR小海線(最高標高地点1375mを走る高原列車)でご存知のかたが多いのかもしれません。

東馬流・・・明治17年(1884年)、日本最後の百姓一揆ともいえる秩父事件、その騒動の主体秩父困民党が瓦解、一部が秩父から信州佐久に移動、国の軍隊と衝突、鎮圧された歴史の地です。

東馬流の中心部に事件のとき本陣にされたという井出直太郎の屋敷があります。
「秩父事件本陣跡」という看板を掲げています。門前にパンフレット、記帳簿などが置かれていました。

千曲川の右岸、車のすれ違いもやっとな旧道の小さな集落にある東馬流集会所。秩父事件東馬流の戦いの死者の墓を訪れる人のための駐車スペースがありました。戦死者の墓、民間犠牲者井出ジャウさんの供養祠、困民党が本陣にした井出家の道案内地図が記されています。ここからは小型車の通過も難しい隘路です。

丁寧な案内地図です。東馬流の人たちがこの事件をどう考えているかわかるような気がします。


集会場から小道を歩いていくと一本ホームの無人駅「東馬流駅」に出ました。
キハ110系気動車が到着。
ホームの上から諏訪神社の鳥居が見えます。秩父事件戦死者の墓は鳥居の前です。

秩父暴徒戦死者之墓と書かれた大きな墓石です。
秩父騒動が秩父の谷で瓦解したあと、同志を率いて信州に移動した秩父困民党参謀長菊池寛平の孫たちが戦死者の霊を弔うために事件50周年の昭和8年(1933年)に建立したものです。
暴徒と記されています。昭和8年の日本の状況下では「暴徒」という表現にせざるを得なかったものと思われます。それでも死者の霊を弔い、この事件を風化させないために祈念碑を建立した菊池家の人たちの心情に感動します。
右側に小海町教育委員によって「秩父事件戦死者の墓」と書かれた丁寧な解説板(1980年)があります。そこには暴徒という語句はありません。

墓前に秋の花が供えられています。

諏訪神社の左を少し登っていくとこの事件で避難中に流れ弾に中って死亡した井出ジャウ(30歳)の供養祠があります。

帝国憲法もできていない明治17年(1884年)起きた秩父事件とは何だったのでしょう。
機会あるたびに事件の舞台になった秩父の風布、粥仁田峠、下吉田椋神社、石間、半納、上吉田塚越、矢久峠・・・と尋ねてきました。事件については下記の過去ログをご覧ください。
   2008年11月8日・・・秩父路を行く・・・椋神社・・・秩父事件の原点 
  
事件は明治初期の急速な近代化、軍事力強化などのためのデフレ政策、ヨーロッパの生糸市場の大暴落で農村経済が疲弊、破壊されたことから起こります。生糸が半値に下落、民間金融(高利貸し)の金利が3倍に暴騰したといわれます。
秩父の農民たちは債務の凍結、雑税の軽減、学校費の凍結など請願しますが国会もない時代ですから陳情は機能しません。失うものは何もないという状況に陥った農民と当時の自由民権運動と相乗して暴動にエスカレートしていったと考えられます。

秩父困民党には信州佐久の北相木村から参加した菊池寛平という男がいました。富農の菊池家に養子入り、岩村田で代言人(今でいう弁護士)をつとめていたといいます。秩父困民党の総理田代栄助に見込まれて参謀長に抜擢されます(自薦ともいわれる)。
略奪、女犯、飲酒、放火、命令違反など禁じた軍律5か条を起案したのはこの男だといいますからタダモノではありません。
暴動の集団は郡役所、高利貸しの家など襲い証文の破棄、打ち壊しなどを行います。鎮圧のために警官隊、軍隊が出動、組織され訓練され村田銃を持った軍隊ですから火縄銃、刀、槍の烏合の衆では戦いになりません。11月1日に始まった衝突は3日で終了、4日上吉田塚越で残党が菊池寛平を新リーダーとして信州に進出を決めます。矢久峠を越えるときは150人、十石峠を越えるときは300人、東馬流では400人だったといいます。半ば脅かして参加させたのかシンパサイザーが集まったかどうかはわかりません。ただ秩父困民党には人を集める何かがあり集まった人たちにも切迫した何かがあったのです。悲しいことに組織化されていない烏合の衆です。戦いというよりデモ隊の衝突です。村田銃でポンポンやられ四散したのではないでしょうか。数100人の戦いにしては死者が14人、兵隊さんも民です。ほんとうに狙って鉄砲を撃ってたかわかりません。

事件後、北相木村では160人、南相木村では230人が罰金刑をうけたといいますから参加者は多かったのでしょう。

東馬流の衝突で斃れた14人のうち佐久の人4名、警官1名。引取り手のない9名の死体は筵をかけられ埋められたそうです。50年後「暴徒」という名前ながら墓石が建てられ、90年後「暴徒」という名前がはずされた説明板が立てられました。

大勢の集団ですからもちろん打ち壊し略奪、巡査殺しもあり、暴徒、凶賊という見方も当然です。
ただ当時の農村経済の状況を考えると起こるべくして起こった事件かもしれません。
請願が受け入れられず勝算なき暴動に走った農民の行動は民意の政治を求めて投げ込んだ一石かもしれません。

菊池寛平は東馬流の衝突のあといずこかに逃走、欠席裁判で死刑判決、そのご潜伏中に逮捕、かずかずの迷宮入り強盗事件を自分だといいはり裁判を混乱させ死刑は恩赦、余罪で無期懲役になり北海道樺戸刑務所に。1905年恩赦で出獄、北相木村に大手を振って帰郷。村びとは「寛平様」と敬ったといいます。

《蛇足》120年余のむかし、わたしの住んでいる埼玉で起こった事件、事件は飛び火してわたしの生まれた信州に。むかしのこの負の歴史遺産を尋ねて新しきものに生かす材料になったらいいなあ。そんなことを考えたわけです。
でも長々クドクドとなりました。話を簡潔にまとめるって難しいのです。

※この稿を起こすにあたって参考にした資料。
★オコジョさんのブログ→秩父事件 信州の秩父困民党の痕跡 1
★オコジョさんのブログ→秩父事件 信州の秩父困民党の痕跡 2
★東馬流・・・井出家(本陣跡)の門前にあった小冊子「佐久からみた秩父事件」
★八千穂夏期大学実行委員会編「秩父事件<佐久戦争>」(銀河書房1984年刊)
★井出孫六著「秩父困民党群像」(新人物往来社2005年新装版、初版は1973年)
★秩父事件研究顕彰協議会編「秩父事件」(新日本出版会2004年刊)
★内田康夫著「菊池伝説殺人事件」(角川書店1991年刊)
TBSドラマ『菊池伝説殺人事件』の菊池貫平像、秩父事件像に抗議する

戦いが始まったという千曲川の畔、村の外れの天狗岩。

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秋の秩父路・・・椋神社から石間へ・・・困民党の影を追って

2010-11-22 | 秩父事件を追って
11月19日秩父吉田で万葉碑を見てから椋神社へ。
いまから126年前の1884年(明治17年)11月1日、秩父で起きた近代になっての百姓一揆・・・秩父事件・・・その総決起集会が開かれたのが椋神社。その日も銀杏がこのように黄葉していたことでしょう。
《秩父事件については下記の過去ログで》
2008年5月10日のブログ  秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・『草の乱』  
2008年11月20日のブログ  秩父路を行く・・・椋神社・・・秩父事件の原点


下吉田から吉田川に沿って上流に、さらに石間戸という耕地から石間川に沿って石間(いさま・・・明治の合併までは石間村)に。Ⅴ字谷の狭い道を行きます。このへんは車のすれ違い注意。

道路際に秩父事件・・・秩父困民党の副総理加藤織平の墓が。台石に右から「志士」と彫ってあります。
秩父困民党総理田代栄助に次ぐ№2。石間村の上層の百姓、金貸しもやっていたようです。侠客気質(家の土蔵で博打を開帳して元締をやってたらしい)で舎弟の落合寅市の要請で困民党に参加、自ら貸し付けていた150円の証文をすべて破り捨てたといいます。捕らえられて死刑、37歳。
墓は別の事件で捕らえられていた落合寅市が1889年の憲法発布恩赦で出獄後、同士を募って建てたもの。「志士」の文字は遺された人たちの心意気が感じられます。
墓に多くの欠損があるそうで、戦前、天皇に歯向かった暴徒であると教育された児童によって投石された痕といいますが真偽は知りません。
この谷には困民党の落合寅市の墓と家、高岸駅蔵の宅跡がありますがここでは省略。


川に沿ってさらに登っていくと石間交流学習館・・・旧石間小学校。


交流学習館・・・1階は地域の食、文化(木工品、藁細工、蕎麦、うどん)の研修など。2階は秩父事件の資料、農山村の移り変りなどの陳列。


館長さんに秩父事件の背景、農山村の生活と経済について説明してもらいました。
日本近代史上、唯一といえる民衆による武装蜂起・・・秩父事件はなぜ起こったか。秩父地方には水田はほとんどありません。常食は雑穀、蕎麦。いまは杉林になってますが人が登るにも困難な急傾斜なところもむかしは桑畑だったそうです。商品価値のある生産物は蚕だけ、それを現金にして食料を得ていたといいます。そこに生糸暴落、金融利子の高騰、すべてが悪いほうに傾いて事件が起こりました。詳細は上記の過去ログをご覧ください。

椋神社に「秩父事件百年の碑」が秩父事件百周年吉田町記念事業推進委員会、秩父事件顕彰実行委員会によって建立されたのは事件から100年経った1984年のこと。「天皇に歯向かった暴徒」として長い年月認識された人たちは、ようやくその汚名を晴らすことができたといえます。写真はその碑の横に立つ「狼煙を持って決起する農民」のブロンズ像です。


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初夏の奥武蔵・・・日本武尊も通った・・・粥仁田峠

2009-05-24 | 秩父事件を追って
ポピー畑を見に奥武蔵の山なみに・・・
東秩父村の谷あいから朝日根の集落を過ぎて登りついたのが粥仁田峠
秩父四十峠といわれる中でむかしからひんぱんに旅人が通り過ぎたといわれる主要峠です。
粥仁田峠・・・粥新田峠(国土地理院表記)・・・
そのむかし日本武尊がこの場所で粥を煮た・・・粥煮た峠か?
麓に新田という字名があります。そこらへんが地名の由来のような気がします。


看板に南に大霧山(766m)、広町山十バス停前と書いてあります。
大霧山は比企三山の一つ。広町とはこの峠から人道を秩父方面に下った三沢村(現皆野町)の集落名です。北に向かうと秩父高原牧場、二本木峠、登谷山方面です。

秩父と関東平野の間の壁、奥武蔵の山々、地図に表記されている峠だけでも11あります。たぶん表記されていない峠も同じくらいあるでしょう。鉄道も自動車もないむかし、交通、物流、情報の流れは徒歩か牛馬の背中によるものだけでした。秩父往還・・・いまの国道140号線(熊谷~秩父~鰍沢)、国道299号線(豊岡~茅野)が主要道であったに違いありませんが、人々は山なみの間を抜ける最短距離を峠道として開削したのでしょう。

1984年10月31日、風布村(現寄居町)で蜂起した帝国憲法もない時代の自由民権運動と経済危機の救済を求める秩父事件は、11月5日ここ粥仁田峠で官軍と衝突、そして敗走が始まり11月9日信州東馬流(現小海町)で壊滅、幕を閉じます。

ポピー畑の遊山に行った最初の寄り道でしたがブログアップは逆になりました。
地図です→こちら

秩父路を行く・・・椋神社・・・秩父事件の原点

2008-11-20 | 秩父事件を追って
前から訪ねてみたいと思っていた武州秩父の椋神社にやってきました。
秩父吉田町の氏神様ですが日本の憲政、自由民権の原点でもある「秩父事件」の表舞台になった社の杜です。
下吉田の街の中に大きな石柱が立っていていてそこから橋を渡り坂を上がり神社への路が続きます。

坂の途中、狭い石段を昇ると鳥居です。鳥居の両側に阿吽の狼様がいます。

椋神社です。広々とした社の庭が広がります。
延喜式(927年完成の律令時代の法律、行政書)にも名前が載る古い格式のある神社(710年造営)です。

秩父事件百年の碑・・・「鎮魂の譜
秩父地方の農民3000有余人がこの神社の境内で総決起集会を開いたのは1884年11月1日・・・のちにいう秩父事件の始まりです。この碑はあれから100年後1984年(昭和59年)11月1日に建てられています。


秩父事件を象徴化したブロンズ像・・・狼煙を持った農民の姿でしょうか。

斧や鍬を振るう農民が、圧制を変じて良政に改めるという思いを叫んだようすがひしひしと伝わってきます。

以下は08年5月10日のブログ秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・『草の乱からの一部抜粋文です。重複しますが再掲載しました。

秩父事件って何だったのでしょうか。江戸時代の一揆、強訴? 江戸時代から明治の御世に、年貢が金納に、支払い先が大名から日本国に変わりました。米作の地域は米を換金できますが米作のできない地域はどうしてたでしょうか。日本は80%が山ですからとうぜん山や谷に住む民がむかしからいます。V字谷の秩父の谷は米作に適した沖積地はホンのわずか。「耕して天に至る」ような段々畑にできる緩やかな傾斜地もわずかです。江戸時代は榑木(クレギ・・板屋根などの材料)、薪炭、蚕糸、煙草、蒟蒻、干し柿などを換金したりしていたと思います。農間期の手内職、出稼ぎも貴重な収入源だったでしょう。そういう土地は幕府も天領にしたり譜代大名領にして面倒見てきました。年貢も米が取れないところは別のモノを定めたりしています。江戸時代ってけっこう民あっての御政道だったのです。
これが明治の御世になるとキビシクなります。おりしも松方大蔵卿の時、政府は明治維新の経済的なツケや軍事力の増強とかで、デフレ政策(通貨抑制)、増税政策をとります。当時の秩父の農民の収入は生糸中心だったようで、養蚕の準備資金を高利貸(消費者金融)から借金して生糸の売り上げで借金を返す、そんな繰り返しです。それがデフレによる商品価格の暴落と欧州生糸市場の暴落が重なり(生糸相場は半値といわれます)、金利の暴騰(10円が1年で26円に)でニッチもサッチもいかなくなったのが1884年。「身代限り(破産)」、小作農への転落、一家離散、夜逃げなどです。担保流れを買った不在地主層が増えていきます。
秩父困民党事件。最初は請願のつもりだったのでしょうか。要求4項目です。

①債権者に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと
②学校費削減のため3年間休校を県に迫ること
③雑収税の軽減を内務省に迫ること
④村費の軽減を村に迫ること


生きるか死ぬかですから当然の請願です。要求はすべてハネラレマス。高利貸(マチ金)や地主豪農の打ちこわしという最悪の方向に進んでいきます。
1884年秩父困民党事件勃発。政府は軍を派遣します。

 10月31日 風布村で農民蜂起、130人
 11月1日 下吉田村椋神社で決起集会、3000人
 11月2日 大宮郷(現秩父市街)郡役所に本部、10000人 
 11月4日 金屋村の衝突、800人、12人死亡
 11月5日 粥新田峠の衝突、100人
 11月9日 信州東馬流(現小海町)300人、野辺山原200人の衝突で終了 14人死亡
略奪、女犯、飲酒、放火、命令違反を禁じた軍律もありました。
農民側の死者全部で30人。官側の死者5人
首謀者のうち12人が死罪(2人行方不明、2人病死、死刑執行は8人)、そのほか懲役刑が140人余、罰金などが3600人余。

勇ましくも悲しい物語です。帝国憲法も帝国議会も参政権も無い時代です。
民のための、民による、民の政治・・・そんなものはどこにもありません。お上にたてつく逆賊、暴徒として片付けられました。
いまの自由と民主主義の重さの中には、明治の時代の夜明けに起きた自由と民権のための変革運動「秩父事件」が源流に流れていることはいうまでもありません。
秩父困民党事件は秩父人の誇りです

訪れる人も無き静かな境内です。おばあちゃんが一人木の下でなにやらしています。こういうことはすぐわかります。銀杏拾いです。さっそくビニール袋と手袋を出して仲間に入れてもらいました。先を急ぐので少々です。
おばあちゃんと話をしながら楽しいひとときでした。


   粛々と イチョウの葉積る 椋神社
   困民党の 閧の声か松籟か 椋神社 
   椋神社の 香りつたえてよ イチョウの実 


城峯山に向かいます

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秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・秩父困民党・・・『草の乱』

2008-05-10 | 秩父事件を追って
秩父路を道の駅龍勢会館」です。
道の駅といえばJAの農産物産直売り場があって食堂があってというのがパターンですが、延喜式にも記されている椋神社の神事「龍勢祭り」の龍勢会館、秩父困民党事件を描いた映画「草の乱」のオープンセット、秩父困民党のリーダーの一人井上伝蔵の蔵造り店舗(秩父事件資料館)があります。

そうです。この町は明治17年(1884年)日本を震撼させた秩父事件の震源地なのです。

映画「草の乱」に使われたオープンセット。「珈琲」の暖簾がオカシイ。

映画「草の乱」のポスター。

草の乱」の撮影にも使われた井上伝蔵邸(2003年復元)。
井上伝蔵・・丸井商店六代目当主、寛永年間(1800年ごろ)から幕府御用達の鑑札を拝領している商家。米、衣類、雑貨、農具を扱うスーパーでもあり生糸の輸出も手がける貿易業もしていました。1852年建てられた土蔵造り店舗で1947年解体していたようです。壁にマル井の商標が見えます。


図書館の本で少し勉強しました。左の2冊はむかし読んだ本です。
※井出孫六著「峠の軍談師」(社会思想社1986年刊、初出は河出書房新社1976年刊)
※井出孫六著「秩父困民党群像」(新人物往来社2005年新装版、初版は1973年)
※秩父事件研究顕彰協議会編「秩父事件」(新日本出版会 2004年刊)

  
 

秩父事件って何だったのでしょうか。江戸時代の一揆、強訴? 江戸時代から明治の御世に、年貢が金納に、支払い先が大名から日本国に変わりました。米作の地域は米を換金できますが米作のできない地域はどうしてたでしょうか。日本は80%が山ですからとうぜん山や谷に住む民がむかしからいます。V字谷の秩父の谷は米作に適した沖積地はホンのわずか。「耕して天に至る」ような段々畑にできる緩やかな傾斜地もわずかです。江戸時代は榑木(クレギ・・板屋根などの材料)、薪炭、蚕糸、煙草、蒟蒻、干し柿などを換金したりしていたと思います。農間期の手内職、出稼ぎも貴重な収入源だったでしょう。そういう土地は幕府も天領にしたり譜代大名領にして面倒見てきました。年貢も米が取れないところは別のモノを定めたりしています。不作の時は救済策もとります。江戸時代って一揆もありましたがけっこう民あっての御政道だったのです。
これが明治の御世になるとキビシクなります。おりしも松方大蔵卿の時、政府は明治維新の経済的なツケや軍事力の増強とかで、デフレ政策(通貨抑制)、増税政策をとります。当時の秩父の農民の収入は生糸中心だったようで、養蚕の準備資金を高利貸(消費者金融)から借金して生糸の売り上げで借金を返す、そんな繰り返しです。それがデフレによる商品価格の暴落と欧州生糸市場の暴落が重なり(生糸相場は半値といわれます)、金利の暴騰(10円が1年で26円に)でニッチもサッチもいかなくなったのが1884年。「身代限り(破産)」、小作農への転落、一家離散、夜逃げなどです。担保流れを買った不在地主層が増えていきます。
秩父困民党事件。最初は請願のつもりだったのでしょうか。要求4項目です。

①債権者に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと
②学校費削減のため3年間休校を県に迫ること
③雑収税の軽減を内務省に迫ること
④村費の軽減を村に迫ること

生きるか死ぬかですから当然の請願です。要求はすべてハネラレマス。高利貸(マチ金)や地主豪農の打ちこわしという最悪の方向に進んでいきます。
1884年秩父困民党事件勃発。政府は軍を派遣します。

 10月31日 風布村で農民蜂起、130人
 11月1日 下吉田村椋神社で決起集会、3000人
 11月2日 大宮郷(現秩父市街)郡役所に本部、10000人 
 11月4日 金屋村の衝突、800人、12人死亡
 11月5日 粥新田峠の衝突、100人
 11月9日 信州東馬流(現小海町)300人、野辺山原200人の衝突で終了 14人死亡 

戦い」と書かずに「衝突」と書きました。村田銃と火縄銃の戦いです。勝負になりません。ですが意外に死者が少ないのです。農民側の死者は全部で30人。官側の死者は5人。憎しみあっての戦いではなかったと思います。官側の兵隊、警官も農民出身だったでしょう。略奪、女犯、飲酒、放火、命令違反を禁じた軍律もありました。
首謀者のうち12人が死罪(2人行方不明、2人病死、死刑執行は8人)、そのほか懲役刑が140人余、罰金などが3600人余。

勇ましくも悲しい物語です。帝国憲法も帝国議会も参政権も無い時代です。
民のための、民による、民の政治・・・そんなものはどこにもありません。お上にたてつく逆賊、暴徒として片付けられました。今ならアカとでもいうのでしょうか。

井上伝蔵・・・インテリです。会計長をつとめます。ナンバー3ぐらいでしょうか。事件後、欠席裁判のまま死罪の判決を受けますが下吉田村関の知人宅の土蔵に2年のあいだ身を潜めたのち北海道に渡り、野付牛(現北見市)で流亡の旅を終わります。享年65歳。

    
おもかげの 眼にちらつくや たま祭り    柳蛙


ふるさと秩父の夏の魂祭りをしのんだ句でしょうか。

秩父困民党事件は秩父人の誇りです

 《参考リンク》(龍勢会館)(龍勢まつり)
        秩父事件・・Wikipedia、 井上伝蔵・・Wikipedia

上武国境二子山の上から秩父の谷を眺めているうちに120年前におこった秩父事件って何だったのだろうと思い、たずねてみました。これから秩父市街に向かいます。

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