goo blog サービス終了のお知らせ 

murota 雑記ブログ

私的なメモ記録のため、一般には非公開のブログ。
通常メモと歴史メモ以外にはパスワードが必要。

ベルクソンの哲学とは何だったのか。

2018年10月22日 | 通常メモ
 ベルクソンはフランスの哲学者、日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。若き学徒のころから一貫してカント哲学と対峙しつづけた哲学者だった。カント哲学というのは一言でいえば「判断はどうあるべきか」ということを考えた哲学だった。さかのぼればアリストテレスに発していた命題(判断命題という)を、カントが劇的に高めたものでもあった。カントはそのために、判断のよってきたる作動因のようなものを考えた。そして、そこには因果律のようなものが支配的に関与していて、それが科学的法則になったりしていると見ていた。ただカントは、我々はそのような科学的な因果律を自分の判断のどこかに投影しすぎていて純粋な判断がにぶっている。もっと純粋で、理性的な判断がどういうものかをつきとめるべきと考えた。わかりやすくいえば、人間の理性や悟性(意識)は科学が発見するようなものとは別のところにある。だから哲学は人間の本性に属するともいえる「主体の意識の哲学」だけを考えたほうがいいという方針を立てた。そのためカントは、空間や時間は、われわれの意識や判断とは別に、アプリオリ(先天的に、経験に先立って与えられている認識)にあるとみなした。これを、ベルクソンは崩そうとしてきたのだ。時間も空間も我々の意識に関与しており、そもそも人間が存在として宇宙的生命の歴史の中に誕生し、このような意識をもったということは、カントの言うように、純粋な判断とかかわりのない時空がどこか別のところにあるのではなく、意識を生み出す時空というものがあり、これからの哲学はそのことを思索し表現するべきと考えた。このようなカント哲学との対峙が、ベルクソンのエラン・ヴィタールという「生の哲学」になってゆく。そしてベルクソンの哲学は生命の力を強調し哲学史から時空を奪い返したものであったといえる。 . . . 本文を読む