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来俊臣―死刑囚から酷使になった男

2006-05-21 20:39:30 | 読書/東アジア・他史
 則天武后は自らの権力強化のために密告制度を奨励し、酷使を重用した。685年、まだ皇后だった武后は政治に民衆の声を反映させるという大義名分を掲げて「告密の門」 という密告制度を定め、首都・洛陽の4ケ所に銅製の当初箱を設置し、官民の別なく無記名で投書を許した。また、情報提供者には首都までの旅費や宿泊費、食 費までも政府から支給され、身分の低い者でも武后が直接面接して訴えを聞いた。この制度は政敵を根絶するのが目的だったゆえ、密告がたとえ偽りであること が判明しても、訴えた者は不問とされた。要するにでっち上げも歓迎したのであり、訴えが殺到するに至る。

 この密告制度で思わぬ運が開けた男がいる。死刑囚だった来俊臣は志願して刑事被告人を取り調べる司刑標事という役に抜擢される。死刑囚にも係らず抜擢した武后にはもちろん計算があってのことだ。司刑標事となった来俊臣は能力を発揮し昇進していく。彼は無実の者に偽りの自白をさせるため、拷問方を次々に生み出していく。

  その拷問を一部紹介するが、鼻から酢を流し込み呼吸困難にさせる、耳に泥を詰めたり燻したりして聞こえなくする、頭髪吊りを行い、頭全体を覆うくさび付き の枷を被せ次第にくさびを締め付けながら自白を迫った。水牢なら日本にもあったが、来俊臣はさらに汚物があふれる牢屋も作った。ここに入れられた囚人は全 身の皮膚がただれ、目も開けられないようになったという。首枷や手枷にしても、一号から十号まで各種のものを制作し使用した。囚人に重い首枷、手枷をはめ て棒で突き前に倒すことを繰り返すと、無類の筋力を持つ囚人でも立てなくなるのだ。
 来俊臣は楽しみながら仕事をしていた形跡があり、彼が活動を始めてから処刑される者の数は飛躍的に増加していった。

 来俊臣の他にも索元礼という有力な酷使がおり、彼も負けず劣らず拷問を駆使し、数千人の囚人に自分の望む自白をさせた。索元礼のやり方があまりにも過酷で理不尽だったため、彼に怒りが集中した。すると武后は彼を用済みとして逮捕させ、獄に下した。彼は斬首されたとも獄死したとも言われる。
 来俊臣の先輩格に周興という男がいたが、周興はこれまで自分が無実の罪で処刑した死刑囚と同じく、謀反を企んでいると密告される。武后は周興の取調べを来俊臣に命じた。あっさり自供した周興に武后はこれまでの功績により罪一等を減じ、流刑にする。周興は護送される途中テロに遭って斬首された。

  来俊臣は有力な酷使が没落するなかで最後まで生き残っていたが、彼自身が政治への野心をほのめかしたため、同僚と政敵に密告された。そして彼がこれまで 行ってきた拷問により自白を強いられ、猿ぐつわ(でっち上げ裁判を暴露されないよう取り入れたのが武后)をされて処刑場に送られる。
 来俊臣が斬 首されるや、群集は彼の死体に飛びかかり、手や足に喰らいつき、耳を引きちぎり、目をくり抜き面皮を剥がして、体を引き裂きながら貪ったそうだ。さらに腹 を裂いて内臓を引きずり出してバラバラにし、泥の中に投げ出した。頭蓋骨は粉砕され、骨盤を叩き割られ、大腿骨は叩き折られる。彼の死体は血塗れの肉塊と 化し、人間の形は残らなかった。

 酷使に相応しい来俊臣の末路だが、群集もまた凄まじい。上の行うところ、下これに倣う、から中国の民度が知れよう。

■参考:『残虐の民族史』柳内伸作 著、光文社

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