イラク戦争後、テロと政治的混迷が慢性化しているイラク。その原因を作ったのが米国なのは書くまでもないが、サダム・フセイン支配以前もテロと暴力が連綿と続いていたことを指摘するTVコメンターはいるのだろうか?『中東 危機の震源を読む』(池内恵 著、新潮選書)の「イラク史に塗り込められたテロと略奪の政治文化」という章で、著者はこう述べている。
「酸鼻の極みというべき現代の状況も、しかし、イラク近代史をひもといてみればそれほど異常に感じられなくなってくる。イラク政治の変動局面において、陰惨な暴力で社会を恐慌状態に陥れ人心を制圧しようとする「テロの政治」は、周期的に生じてきた」(57頁)
池内氏はその証拠として、フセインの侍医を務めたアラ・バシールの回想録『裸の独裁者 サダム』(NHK出版)を挙げ、イラクで政治が展開するリズムを体感するために格好の素材という。バシールは著名な芸術家でもあり、それがきっかけでフセインのお気に入りとなった。
池内氏が言うとおり、イラクでは政権が代る度に苛烈な報復が繰り返されており、1958年7月14日のイラク王政の打倒(7月14日革命)の際、当時19歳のバシールは群衆の中で、イラク王国の末期を目の当たりにする。この時点でイラクがまだ君主制だったことを知る日本人は少ないだろう。
イラク王国最後の国王ファイサル2世と王族は、カーシム准将(当時43歳)、アーリフ大佐(当時36歳)率いる「自由将校団」に射殺される。悲惨なのは側近で、摂政アブドゥル=イラーフ(※国王ファイサルの叔父でもある)は、宮殿の外で裸で仰向けに横たわっていた。ロープと小型トラックを手に入れた暴徒たちは、彼の死体をロープでトラックに括り付け、そのまま屈辱的な姿を晒しながら町の中心の殉教広場に引きずって行った。男でも裸体を忌むのがイスラム圏なのだ。
殉教広場でアブドゥル=イラーフは街灯の柱に吊るされる。それから、ナイフを手にした1人の若い女が抱き上げられた。彼女は死体の手を切りつけ、切り裂いたその手にナイフを突き刺してから、勝ち誇ったように群衆に手を振る。次に男が街灯の柱に登り、前摂政の性器を切り取る。数人がこれに続き、一切れ一切れとアブドゥル=イラーフは識別がつかなくなったという。
中東版「凌遅刑」といった様相だが、遺体になってから切り刻まれただけマシか。国政を取り仕切り、新国家の運営にまい進していたサイード首相も悲惨な最期を遂げる。中東の指導者ゆえ強権的で反体制派には弾圧を加えたものの、サイードは中東政治家には珍しく清貧に甘んじていたという。先に捕えられた彼の息子は、殺害され路上を引きずり回された挙句に火をつけられ、見守る暴徒が歓喜する。
サイードは、女性が全身をすっぽり覆う黒い衣装アバヤで変装、脱出を図るも群衆に目ざとく見破られ殺害された。駆け付けた自由将校団のターヘル大佐は、遺体の頭部に向け、機関銃の弾倉が空になるまで撃ち続けた。
サイードの末路は知っていた。若かりし頃彼は「アラブ反乱」に参戦、あの“アラビアのロレンス”と共に闘ったことがある。奇しくもロレンスとは同年齢、ロレンスは7月14日革命時には既に故人だったが、あの世で親英派のサイードの死をどう見ていたのだろう。サイードの女装が見破られ、血塗れの彼の遺体が町で引きずられたのも知っていたが、先に息子が殺害されていたことは池内氏の著書で初めて知った。
この出来事にはさらに続きがある。クーデターの指揮官カーシム准将は、国家建設に功績のあったサイードを栄誉をもって埋葬するよう命じた。しかし、死体は早々に掘り起こされ、やはり車で引きずり回された。暴徒が車やバスを乗っ取り、バクダードの通りを引きずり回されているサイードの死体を轢く。アラ・バシールがその狂気の光景をちらりと目にした時、70歳の首相の血塗れで汚れた脊椎骨だけが残っていたという。
カーシムは首相・国防相に就任し国政を率いるが、クーデターや暗殺未遂が相次ぎ、政情は安定しない。カーシムと若き自由将校団たちとの認識のズレは早期に表面化し、バアス党やエジプトのナセルによる汎アラブ主義の呼びかけに呼応する者、共産主義革命を提唱する者の双方が武装、血塗られた抗争が繰り返されていく。
カーシムは腹心アーリフとも決裂、クーデターと暗殺を相次いで試みたアーリフに、カーシムは温情をかけ処刑せずに済ませた。それが命取りになり、1963年、アーリフはバアス党と組んだクーデターでカーシム政権を打倒した。カーシムはTVスタジオで処刑された。死体があるスタジオは祥明がつけられ、カメラが回った。その日の午後から夜の間中、1人の兵士がカーシムの遺体に近づいて彼の髪を持ち上げ、顔に唾を吐くシーンが繰り返しTVで流された。
その二に続く
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「ガートルード・ベル-イラク建国に携わった女」
興味深いサイトの紹介を有難うございました!国枝昌樹氏が最初は朝日新聞の記者になろうとしたのは意外でした。氏が他国の大新聞と比較して、日本の新聞をこう論評していたのは何とも…
「日本の新聞に、現場での調査記事というのがありますけれども、そういう記事を見て良く思うのは「○○がこう喋った」とかいう風に引用される人というのは、学生だとかカフェで会ったおじさんであるとか、広場のたばこ売り屋だったり八百屋の親父だったり、そういうレベルが圧倒的に多い」
その三にも書きましたが、敬愛する一族の人々にも略奪を働くのだから言葉もありません。日本にもかつて落ち武者狩りがありましたが、中東諸国では現代でもそれが続いているようですね。
湾岸戦争当時、イラクの日本大使館で日本人の人質解放交渉をした人物へのインタビューです。日本の外務省はとかく言われますが、個々に苦労された方には頭が下がります。
http:
//gigazine.net/news/20150320-masaki-kunieda-interview/
それにしても、イラクと言うのは本当に恐ろしい歴史の国ですね。日本の戦国時代でもマシじゃないかと思うレベルです。