トーキング・マイノリティ

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ガートルード・ベル-イラク建国に携わった女 その①

2008-07-07 21:25:23 | 読書/ノンフィクション
 中東に関心のある方でも、一般に我が国でガートルード・ベルの名は極めてなじみが薄いだろう。“アラビアのロレンス”ことT.E.ロレンス関連で名が出る程度であり、私もロレンス関係の本でベルの名を知った。映画の影響もあり今でもロレンスは話題に上るが、同じ英国人でもベルは欧米でも影が薄いらしい。「ラルース百科事典」さえ、(T.E.ロレンスの女性版)と紹介している程度なのだ。実際はロレンスより20歳も年長であり、ロレンスは彼女の著書を読んで関心を寄せているので、先輩格の人物だった。ベルは後にロレンスのみならずチャーチルとも仕事をすることとなる。

 1868年、ベルはイングランド北東部ダーハムの富裕な産業資本家の娘として生まれた。生家の資産は新進の冶金科学者でもあった父方の祖父の時代に築かれた石炭、製鋼、鉄道にまたがるコンツェルンの持ち株が主体である。1904年、この祖父が死亡した時、父が相続したのは准男爵位と減価したといえ75万ポンドもの資産だった。ちなみに当時の英国の製鉄労働者の大半の賃金は、週給2ポンド以下である。
 後を継いだ父も製鉄業を営み炭鉱主であり、また治安判事も務め、ヨークシャー北部区の知事にも就任したほどの相当な地方名士。父は生涯を通じ自由主義的な考えの持ち主であり、ベルが最も感化されたのは父親と見られている。ベルの生母は彼女が生まれて間もなく死亡し継母が育ての母となるが、彼女の生涯を通じ継母とは仲睦まじく、この母も文学の才能のある女性だった。

 特権階級のお嬢様として生まれたベルだが、高い知力と体力にも恵まれ、両親はよく考えた上で15歳の彼女をロンドンのクィーンズ・カレッジにおくり中等教育を受けさせる。さらに史学教師の勧めに従い、オックスフォード大レディ・マーガレット・ホールに進ませた(1886-88)。当時の女子大生は付き添いなしで学外に出ることも許されない時代だったが、ベルはここで近代史を専攻、若干20歳ながら女性として初の最優等で卒業する。いかに上流階級出の娘でも、ヴィクトリア朝時代の英国はまだ女の大学進学は稀だった。この高学歴が禍し、ベルは社交界にデビューしても男たちから敬遠され、求婚者も現れなかった。長身だが、所謂美人とは言えない容貌もマイナスだった。しかし、後に中東を広く旅する際、これは大いなる利点となる。

 ベル自身、社交界には特に関心もなかったらしく、客間での社交や慈善事業の仕事には苛立ちを感じていた。彼女が初めて中東を訪れたのは1892年、テヘラン駐在大使として赴任した義理の伯父の客分としてであり、イラン各地を観て回る。この時の体験がその後の彼女の人生を決定付けた。またベルはイラン在住中の23歳の時、若い下級外交官ヘンリー・カドガンと初めての恋に落ちた。結婚を望んだ彼女だが、両親は許さず、しかもまもなくカドガンは急逝した。実らぬ恋と恋人の死の痛手を埋め合わせるためか、ベルは憑かれるように旅と登山を重ねるようになる。結婚こそ反対されたが、ベルと両親の関係はその後も密接であり、極めて意志強固な女でありながらも、両親、特に父親には細かいことでも逐一伺いを立てていた。

 イラン訪問後の1894年、ベルは初のエッセイ『ペルシア(現イラン)の情景』を刊行、その3年後にはハーフェズ訳詩集も出している。彼女には語学の天分があり、ラテン語、独仏伊各国語の他、ペルシア語、トルコ語さえ一応はこなしたという。アラビア語習得にはてこずった様だが、それでも最後はモノにし第二母国語とする。また、ヘブライ語で旧約聖書を読むほどであり、欧州の言語でどの2ヶ国語をとっても、ヘブライ語とアラビア語ほど近いものはないと、感想を漏らしていた。

 両親に資力があることに加え、興味の赴くままの行動が許されたので、ベルは中東訪問の後2度に亘り世界一周旅行を行い、日本にも2度立ち寄っている。この時エルサレムも訪れ、その後も何度かパレスティナ各地を旅行すた。考古学者としての聖書や古代ギリシア・ローマ時代の遺跡巡り目的があるが、砂漠の旅に完全に魅了される。なお、彼女の考古学者としての実績は、主に現場で独学で身に付けたものだった。男のロレンスと異なり、当時の女子学生は恩師の元で考古学者になれる状況でなかったから。

 1905年早春、ついにベルは2ヶ月間に亘りシリアを旅することになる。その時の様子は『シリア縦断紀行』(東洋文庫584~5、平凡社)で克明に記録されている。近代の欧州人は未知の世界に旅と探検に情熱を傾けたが、欧州の一女性が欧州人男性の同行もなしで、中東の山野に踏み込んだのは彼女くらいである。1878~79年にアラビア奥地に入ったアン・ブラント夫人もいるが、夫に従ったのが実態だった。ベル自身『シリア縦断紀行』の冒頭にこう書いている。「世の中の仕組みが細かく整っている所で育った者にとって、荒野の旅の門出ほど心ときめくことは滅多に或るものではない」。
その②に続く

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