表題からイラク戦争関連記事と思われた方も少なくないだろう。しかし、これから書くのは第一次大戦後の1920年代のイラクの話である。現代のイラク情勢と比べるのも、一興と思う。
第一次大戦までイラクはオスマン・トルコの支配下にあった。トルコの敗戦後、イギリス、フランス両政府は「久しくトルコ人によって圧迫されてきた諸民族の安全、かつ終局的な解放と住民の自発的、かつ自由な選択に発する、国民的統治並びに行政の確立にある」と宣言、アラブ地域を互いに分捕りあうことになる。戦後はイラク全体がイギリスの軍事占領下に置かれ、イラクはイギリスが国際連盟から「委任統治権」を付与された国々の一つとなった。
'20 年代初めにイラクの人々はイギリス支配に反攻するようになり、これが全土に拡大していく。イギリスはアラブ人による臨時政府を樹立するが、その長官にはい ちいち真の実力者であるイギリス人顧問がついていた。これらの長官ですらイギリスの命を拒否する者さえいたのだ。それでイギリスは最も有能な大立者は逮捕 し、追放した上、別な処置を取る。
1921年の夏、イギリスはヘジャズ(メッカ、メディナを含む地域)のハーシム家のファイサルを連れてきて国王の地位に据えた。ハーシム家はムハンマド直系の子孫で、アラブの名家中の名家だが、イラクとは何の縁もない余所者である。このファイサルは映画『アラビアのロレンス』 でアレック・ギネスが扮していた人物で、アラブの反乱の指導的役割を果たしたが、背後にはイギリスが付いていた。イラクの指導者たちは民主的議会を持つ立 憲政府を条件として、ファイサルを国王にするのに同意するが、一般人民は蚊帳の外だった。かくしてファイサルは1921年8月に国王となった。
しかし、これは問題の解決にならず、イラクの人民はイギリスの委任統治に猛烈に反対し、完全独立を獲得したいと考えていたのだ。世論への呼びかけや示威行 為は絶え間なく続き、イギリス高等弁務官は国王と内閣、イラク人参事会の職権停止という対応を取る。さらに弁務官は空軍の力で騒動を鎮圧、ナショナリスト の新聞は発行禁止、政党解散、指導者は追放となった。
これも、やはり問題解決とならずイギリス側は対応を変え、表面的には国王と内閣の機能を復 活させるが、その裏でイラク政府がイギリス政府官吏や彼らの認めるイラク官吏の関与のもとに、行政を運営することに同意する条約を結ばせる。1924年は じめ、憲法制定議会の選挙が施行され、これで出来た議会もやはり対英条約に反対する。早々イギリス側から強大な圧迫が加えられ、結局この条約は議員の大多 数が欠席した議会で、三分の一をやっと越える程の数で批准された。
憲法評議会はイラクの新憲法を起草した。イラクが立憲世襲君主制と、議会政体を伴う独立主権自由国家であることを規定した憲法は表面上は公正なものに見えた。が、両院のうち上院は国王による任命制であり、国王は大きな権限を有し、その背後にはイギリスがいた。
1925年の新憲法採択後、新議会は活動を続けていたといえ、人民は決して満足しておらず、特に辺境地域のクルド人地区では繰り返し暴動が起こる。これに対しイギリス空軍は爆撃や全村破壊という手段で鎮圧する。この時は時限爆弾という当時の新型爆弾が使用され、同じ頃インドの北西辺境州でも、同じ目的で使われた。
こうして平和と秩序は回復され、イラク政府はイギリスの庇護の下に国際連盟に代表を出し、加盟国となることを認められた。イラクは爆弾で国際連盟に弾き込まれた、と当時言われたらしい。
ジュネーブの国際連盟では盛んに民間人に対するイギリスの空爆は非難された。アメリカを含めあらゆる国が空爆の全廃を支持したのに、イギリスは植民地諸国での「警察目的」のための航空機使用の権利の留保を主張して譲らず、これが連盟、及び'33年に開催された軍縮会議における協定の成立を妨げたのだ。
何やらイギリスをアメリカに置き換えれば、現代とさして変わらないのではないか。歴史というものは繰り返すのか。
「(国際)連盟というものは、大国に対する苦情には見ざる、聞かざるで押し通すに決まっているのだ」―J.ネルー
■参考:『父が子に語る世界歴史 第7巻 中東・西アジアのめざめ』
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第一次大戦までイラクはオスマン・トルコの支配下にあった。トルコの敗戦後、イギリス、フランス両政府は「久しくトルコ人によって圧迫されてきた諸民族の安全、かつ終局的な解放と住民の自発的、かつ自由な選択に発する、国民的統治並びに行政の確立にある」と宣言、アラブ地域を互いに分捕りあうことになる。戦後はイラク全体がイギリスの軍事占領下に置かれ、イラクはイギリスが国際連盟から「委任統治権」を付与された国々の一つとなった。
'20 年代初めにイラクの人々はイギリス支配に反攻するようになり、これが全土に拡大していく。イギリスはアラブ人による臨時政府を樹立するが、その長官にはい ちいち真の実力者であるイギリス人顧問がついていた。これらの長官ですらイギリスの命を拒否する者さえいたのだ。それでイギリスは最も有能な大立者は逮捕 し、追放した上、別な処置を取る。
1921年の夏、イギリスはヘジャズ(メッカ、メディナを含む地域)のハーシム家のファイサルを連れてきて国王の地位に据えた。ハーシム家はムハンマド直系の子孫で、アラブの名家中の名家だが、イラクとは何の縁もない余所者である。このファイサルは映画『アラビアのロレンス』 でアレック・ギネスが扮していた人物で、アラブの反乱の指導的役割を果たしたが、背後にはイギリスが付いていた。イラクの指導者たちは民主的議会を持つ立 憲政府を条件として、ファイサルを国王にするのに同意するが、一般人民は蚊帳の外だった。かくしてファイサルは1921年8月に国王となった。
しかし、これは問題の解決にならず、イラクの人民はイギリスの委任統治に猛烈に反対し、完全独立を獲得したいと考えていたのだ。世論への呼びかけや示威行 為は絶え間なく続き、イギリス高等弁務官は国王と内閣、イラク人参事会の職権停止という対応を取る。さらに弁務官は空軍の力で騒動を鎮圧、ナショナリスト の新聞は発行禁止、政党解散、指導者は追放となった。
これも、やはり問題解決とならずイギリス側は対応を変え、表面的には国王と内閣の機能を復 活させるが、その裏でイラク政府がイギリス政府官吏や彼らの認めるイラク官吏の関与のもとに、行政を運営することに同意する条約を結ばせる。1924年は じめ、憲法制定議会の選挙が施行され、これで出来た議会もやはり対英条約に反対する。早々イギリス側から強大な圧迫が加えられ、結局この条約は議員の大多 数が欠席した議会で、三分の一をやっと越える程の数で批准された。
憲法評議会はイラクの新憲法を起草した。イラクが立憲世襲君主制と、議会政体を伴う独立主権自由国家であることを規定した憲法は表面上は公正なものに見えた。が、両院のうち上院は国王による任命制であり、国王は大きな権限を有し、その背後にはイギリスがいた。
1925年の新憲法採択後、新議会は活動を続けていたといえ、人民は決して満足しておらず、特に辺境地域のクルド人地区では繰り返し暴動が起こる。これに対しイギリス空軍は爆撃や全村破壊という手段で鎮圧する。この時は時限爆弾という当時の新型爆弾が使用され、同じ頃インドの北西辺境州でも、同じ目的で使われた。
こうして平和と秩序は回復され、イラク政府はイギリスの庇護の下に国際連盟に代表を出し、加盟国となることを認められた。イラクは爆弾で国際連盟に弾き込まれた、と当時言われたらしい。
ジュネーブの国際連盟では盛んに民間人に対するイギリスの空爆は非難された。アメリカを含めあらゆる国が空爆の全廃を支持したのに、イギリスは植民地諸国での「警察目的」のための航空機使用の権利の留保を主張して譲らず、これが連盟、及び'33年に開催された軍縮会議における協定の成立を妨げたのだ。
何やらイギリスをアメリカに置き換えれば、現代とさして変わらないのではないか。歴史というものは繰り返すのか。
「(国際)連盟というものは、大国に対する苦情には見ざる、聞かざるで押し通すに決まっているのだ」―J.ネルー
■参考:『父が子に語る世界歴史 第7巻 中東・西アジアのめざめ』
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まさしく、歴史というものは繰り返すものですね。
マキアヴェッリの言葉を借りるならば、人は同じような行動(過ち)を繰り返すもの。そして、勝者の行動は正当化されると。本当に残酷なものですね。
先の大戦にしても、あんなにも大勢の日本人が亡くなったのも、国際法を無視した無差別爆撃や核実験(あえてこう言います)でしたね。ここでも、勝者による行動の正当化も当然ですね。
東京裁判のパール判事のいうように、まさしく国際法にのみ、正義を判断される時代は来るのでしょうかね?(残念ながら、今の国連にはその力もありませんし、イラク戦争に反対した露仏独の黒い繋がりもありました。)
時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、
そのときこそ、正義の女神は、
その秤を平衡に保ちながら、
過去の賞罰の多くに、
そのところを変えることを要求するだろう。
──「パール判決文より」――
歴史は繰り返すというより、それに対する人々の反応が繰り返す、と言った人がいますが、21世紀のイラクは侵攻する主役がアメリカになり、その手伝いをさせられたのがインドでなく日本などに変わっただけで、本質は同じなのです。
第二次大戦後、イギリスはイラクを統治できなくなり引き上げると、革命が起きて'58年にファイサルの孫や重臣たちは暗殺され、王国は滅亡します。現代のイラク政権もアメリカの後ろ盾があってですね。
「パール判決文」の紹介、ありがとうございます。残念ながら彼のような判事が国際法廷で活躍できたとしても、大国の非は裁けないと思います。
「帝国主義勢力というものは歴史の記録が始まって以来、暴力と破壊とテロリズムをこととして今日に至ったものなのだ。近代型の帝国主
義に目新しいことといえば、「委任統治」だの「大衆の福祉」だの「後進民族の自治のための訓練」だのという美辞麗句で、そのテロリズムと搾取をごまかすことくらいなものだ」 -ネルー